先日、デスクから
「群馬(前橋)からレポートするように」指令が下った。
知事選を受けての取材だ。
先方の記者クラブに
記者会見に特別に参加させてくれるよう
頼もうと電話すると
幹事社はFMぐんま(以下FMG)だった。
僕が8年ほど前まで勤めていた会社である。
僕は大学を卒業し、FMGに入社したが、
そのときの新入社員は5人。
2人は営業で1人が総務。
そして僕がアナウンサーで、記者も兼ねていた。
もうひとりは「純粋な記者」として採用された。
記者としての採用はFMでは珍しく、
この会社でも「初」だった。
新人記者2人は
当然厳しく叩き上げられたのだ。
さて、
前橋には、今も両親が住むが
なかなか正月すら帰れない。
中継車が前橋インターを下り
懐かしい風景が流れていくのを見ていたら
不思議な気持ちになってきた。
会見には結局まにあわなかったが、その代わり
FMGの同期の記者と
飯を食いながら話をすることにした。
んん?
いつもの中継スタッフのHドライバー(60代)と
技術のオータニ君(20代)、僕と同期の記者が
昔よく来た店のテーブルで
一緒に飯を食っているぞ?
なんだ?なんだ?
この「くすぐったいような不思議な気持ち」は。
記者と別れて、午後からは街頭インタビュー。
街の中央にある商店街にいくことにした。
そこで「不思議な気持ち」の正体が見えてきた。
インタビューに答えてくれる人をアーケードで探していたら、
「あ、昔、よくここで街頭インタビューしたわ」
と思い出した。
すると、
なんだか「今がいつなのか」
あやふやになってきた。
群馬時代には
いくつかのワイド番組を持たせていただき
多くのリスナーの皆さんが慕ってくださった。
ただ
全国、世界を相手に挑戦し続けるミュージシャンやDJ
スポーツ選手などとの交流が広がる中、
現状に安住していては
成長できないという恐怖感や焦燥感にかられた。
より多くのリスナーに
全国に通用するプロの一人として
声を届けたかった。
しかし移籍に動くも慰留が激しく、
「こっちに移籍してこい」と言ってくださったキー局にも
TOP自らが上京して阻止するなど
思うように退社できなかった。
結局、フリーランスとしてでもいいから、と
「0」からのスタートを覚悟した。
自分の力で
ラジオに復帰するんだと歯をくいしばっていた。
でも不思議なもので、
そのうち様々な出会いに恵まれるようになる。
そして今は
信じられないぐらい優しい人たちに囲まれて
ここでこうして仕事が出来ている。
でもそれらは・・・。
・・・実は、ぜーんぶ夢だった!
なぜか、そんな風に急に思えてきて
アーケードの真ん中で慄然とした。
でも、 確かに
手に持っているマイクには
「文化放送」と書かれている。
夢じゃない。大丈夫だ。
変な汗が背中をつたう。
僕はその
黒い、いつものマイクを
「ぎゅうっ」と握り締めた。
この「相棒」とは何年間も
いろんな現場で戦ってきたんだ。
その年月は
あの会社で過ごした時間を超えようとしている。
あの頃の僕を知らないリスナーのかたも
沢山、応援してくださっている。
一瞬だけ時の流れで迷子になった自分を
「ばかだなあ」嘲笑し、
ひたいで、そのマイクの冷たい感触を確認した。
取材を終えて帰る前、
Hドライバーが
「せっかく来たから、
ちょっとだけ君の実家に寄ろうよ」という。
かくして、
僕の両親の住む家に。
・・・もちろん両親はびっくりしてた。
なんせ正月だってロクに帰ってないのに
いきなり銀色の中継車が横付けだ。
・・・なんだか
この家で「事件」があったようである。
田舎の近所の目は怖いぞ?
ま、ある意味事件だけど(笑)
母親は「暑かったでしょう?」と気が動転したのか
日本茶の湯飲みに氷をいれようとし
お茶請けにヨーグルトを持ってきた。
僕はHドライバーとオータニ君が
僕の両親と楽しげに話してる様子を
なんだか呆然と見ていた。
そして、こんな風に考えた。
僕はもう「FMG」には
どんな形であれ、戻る気は無かった。
あの街での生活のすべてを断絶し、
退路を断って振り向かないつもりだった。
僕の人生を流れる時間は
あそこで一旦途切れ、
そこから改めて
「今につながる時間」が始まったと信じた。
しかし、それは違ってた。
僕の人生の
様々なポイントで出会ってきた人たちが、
本当だったら
それぞれが顔を合わせることなど
なかったはずの人たちなのに
なぜか一緒に
ピザ(美味、食べ放題)とか頬張って
笑ってる。
ああ、物語は、
ずうっとつながってたんだ。
どうやら僕は、
自分で思っているほど
孤独な旅をしてきたわけじゃなかった。
FMGには結局、近寄らなかったんだ。
別にもう、わだかまりはないし
あそこには感謝すべき先輩方がいらっしゃる。
でも、
振り向くには
まだ
早すぎるぜ。
「群馬(前橋)からレポートするように」指令が下った。
知事選を受けての取材だ。
先方の記者クラブに
記者会見に特別に参加させてくれるよう
頼もうと電話すると
幹事社はFMぐんま(以下FMG)だった。
僕が8年ほど前まで勤めていた会社である。
僕は大学を卒業し、FMGに入社したが、
そのときの新入社員は5人。
2人は営業で1人が総務。
そして僕がアナウンサーで、記者も兼ねていた。
もうひとりは「純粋な記者」として採用された。
記者としての採用はFMでは珍しく、
この会社でも「初」だった。
新人記者2人は
当然厳しく叩き上げられたのだ。
さて、
前橋には、今も両親が住むが
なかなか正月すら帰れない。
中継車が前橋インターを下り
懐かしい風景が流れていくのを見ていたら
不思議な気持ちになってきた。
会見には結局まにあわなかったが、その代わり
FMGの同期の記者と
飯を食いながら話をすることにした。
んん?
いつもの中継スタッフのHドライバー(60代)と
技術のオータニ君(20代)、僕と同期の記者が
昔よく来た店のテーブルで
一緒に飯を食っているぞ?
なんだ?なんだ?
この「くすぐったいような不思議な気持ち」は。
記者と別れて、午後からは街頭インタビュー。
街の中央にある商店街にいくことにした。
そこで「不思議な気持ち」の正体が見えてきた。
インタビューに答えてくれる人をアーケードで探していたら、
「あ、昔、よくここで街頭インタビューしたわ」
と思い出した。
すると、
なんだか「今がいつなのか」
あやふやになってきた。
群馬時代には
いくつかのワイド番組を持たせていただき
多くのリスナーの皆さんが慕ってくださった。
ただ
全国、世界を相手に挑戦し続けるミュージシャンやDJ
スポーツ選手などとの交流が広がる中、
現状に安住していては
成長できないという恐怖感や焦燥感にかられた。
より多くのリスナーに
全国に通用するプロの一人として
声を届けたかった。
しかし移籍に動くも慰留が激しく、
「こっちに移籍してこい」と言ってくださったキー局にも
TOP自らが上京して阻止するなど
思うように退社できなかった。
結局、フリーランスとしてでもいいから、と
「0」からのスタートを覚悟した。
自分の力で
ラジオに復帰するんだと歯をくいしばっていた。
でも不思議なもので、
そのうち様々な出会いに恵まれるようになる。
そして今は
信じられないぐらい優しい人たちに囲まれて
ここでこうして仕事が出来ている。
でもそれらは・・・。
・・・実は、ぜーんぶ夢だった!
なぜか、そんな風に急に思えてきて
アーケードの真ん中で慄然とした。
でも、 確かに
手に持っているマイクには
「文化放送」と書かれている。
夢じゃない。大丈夫だ。
変な汗が背中をつたう。
僕はその
黒い、いつものマイクを
「ぎゅうっ」と握り締めた。
この「相棒」とは何年間も
いろんな現場で戦ってきたんだ。
その年月は
あの会社で過ごした時間を超えようとしている。
あの頃の僕を知らないリスナーのかたも
沢山、応援してくださっている。
一瞬だけ時の流れで迷子になった自分を
「ばかだなあ」嘲笑し、
ひたいで、そのマイクの冷たい感触を確認した。
取材を終えて帰る前、
Hドライバーが
「せっかく来たから、
ちょっとだけ君の実家に寄ろうよ」という。
かくして、
僕の両親の住む家に。
・・・もちろん両親はびっくりしてた。
なんせ正月だってロクに帰ってないのに
いきなり銀色の中継車が横付けだ。
・・・なんだか
この家で「事件」があったようである。
田舎の近所の目は怖いぞ?
ま、ある意味事件だけど(笑)
母親は「暑かったでしょう?」と気が動転したのか
日本茶の湯飲みに氷をいれようとし
お茶請けにヨーグルトを持ってきた。
僕はHドライバーとオータニ君が
僕の両親と楽しげに話してる様子を
なんだか呆然と見ていた。
そして、こんな風に考えた。
僕はもう「FMG」には
どんな形であれ、戻る気は無かった。
あの街での生活のすべてを断絶し、
退路を断って振り向かないつもりだった。
僕の人生を流れる時間は
あそこで一旦途切れ、
そこから改めて
「今につながる時間」が始まったと信じた。
しかし、それは違ってた。
僕の人生の
様々なポイントで出会ってきた人たちが、
本当だったら
それぞれが顔を合わせることなど
なかったはずの人たちなのに
なぜか一緒に
ピザ(美味、食べ放題)とか頬張って
笑ってる。
ああ、物語は、
ずうっとつながってたんだ。
どうやら僕は、
自分で思っているほど
孤独な旅をしてきたわけじゃなかった。
FMGには結局、近寄らなかったんだ。
別にもう、わだかまりはないし
あそこには感謝すべき先輩方がいらっしゃる。
でも、
振り向くには
まだ
早すぎるぜ。