不憤不啓、不悱不発
「憤」問題意識をもち、「悱」発表意欲がわきたつときに、教え導くことができる。
孔子のことばを、宋代の王安石は教育論として解釈した。
最近の心理学や教育学あるいは生理学の理論、
どれも中国の古代社会で説かれている論に探すことができるようだ。
小さいときから古典を学び、
日常生活で、さまざまな角度からさまざまな場面で古典の名言を用いる中国の社会文化に、
連綿と伝わる祖先の知恵と知識が密度濃く溶け込んでいるのを感じる。
「子曰く・・・」をひたすら音読する学習に、特有の意味があり効果があるのだと思う。
(昔の日本の寺子屋、子どもたちはひたすら中国古典を学んでいたのかな)
冒頭の言葉につづく「挙一隅、不以三隅反、則不復也」
四隅のひとつを挙げられれば、あとの三つは自分で見つけ出す、ようでなければ、繰り返し教えることはない。
王安石は
「古の学者は、問うに口をもってするけれども、
その伝は心をもってする。
聞くに耳をもってするけれども、
受けるには意をもってする。
故にその師たるものは煩ならずして、学ぶものは得るところがある。」
と述べている(小島悠馬『中国思想史』)。
近ごろ耳にする、ダイナミックラーニングの発想ではないのだろうか。
「憤」問題意識をもち、「悱」発表意欲がわきたつときに、教え導くことができる。
孔子のことばを、宋代の王安石は教育論として解釈した。
最近の心理学や教育学あるいは生理学の理論、
どれも中国の古代社会で説かれている論に探すことができるようだ。
小さいときから古典を学び、
日常生活で、さまざまな角度からさまざまな場面で古典の名言を用いる中国の社会文化に、
連綿と伝わる祖先の知恵と知識が密度濃く溶け込んでいるのを感じる。
「子曰く・・・」をひたすら音読する学習に、特有の意味があり効果があるのだと思う。
(昔の日本の寺子屋、子どもたちはひたすら中国古典を学んでいたのかな)
冒頭の言葉につづく「挙一隅、不以三隅反、則不復也」
四隅のひとつを挙げられれば、あとの三つは自分で見つけ出す、ようでなければ、繰り返し教えることはない。
王安石は
「古の学者は、問うに口をもってするけれども、
その伝は心をもってする。
聞くに耳をもってするけれども、
受けるには意をもってする。
故にその師たるものは煩ならずして、学ぶものは得るところがある。」
と述べている(小島悠馬『中国思想史』)。
近ごろ耳にする、ダイナミックラーニングの発想ではないのだろうか。