asahi新聞の読者コラムに、時々ヘンな記事がある。
正月過ぎ、こんな記事があった。
「子供の頃のお正月、家族でよく百人一首をした。父が読み手で、読みながら沢山札を取った。世の中よだったか奥山のだったか忘れたけど、鹿が出て来るうたには、最後に必ず『ケンケーン』と言う。多分鹿の鳴きまねのつもりだったのだろう」
わざとらしい。鹿の和歌は二つシカないのだから、「忘れたけど」は要らない。女の子二人の四人家族が百人一首をしていたというのも、イヤミ。
鹿の声は、「ケンケーン」ではなくて「ピー」なのだ。ケンケーンはキツネだろう。
次は、雪国に住んでいる老父母のことを心配する娘。雪で電線が切れて停電したという。電話で様子を訊くと、「ご飯も炊けないし、コタツもエアコンも使えなくて、寒くて仕様がない」とお父さんが言う。「お弁当と、カイロや湯たんぽや灯油コンロを買って持って行ってあげたいけど、道も走れない。やきもきするばかり…」
イソップ童話のキリギリスじゃない。雪は毎年降るのだから、カイロや湯たんぽや練炭火鉢は何年も前からお父さんの家にある筈だ。電気炊飯器が使えなかったら七輪でご飯を炊けばいい。昔は七輪ひとつで味噌汁も煮物も作り、魚も焼いた。田舎の家なら、レンガで作った竈さんもあるだろうに。
先日のは左利きのハナシ。
「左利きだから、いろいろと不便。切符゜を買う時も改札を通るときも手が交差する。今のお母さんは、子供が左利きだったらどうするのかな?」
私も生まれつきは左利きだった。お箸を左手で持っていた。字を覚えたき、字は右手で書くように作ってあるんだなと鉛筆を右手に持ち直した。以来、右手も左手も使っている。お茶やコーヒーを飲むのは左手。食べるのは右手。昔から、右利人でもお箸を右手で持ち、お猪口は左手で持つときまっていた。急須は左で持ち、ポットの「給湯」を押すのは右手。左手で湯呑に淹れる。右の眉は右手で描き、左の眉は左手で描く。横文字の本は左手でめくり、縦書きの本は右手でめくる。六〇歳過ぎても左手しか使えないって、他人には言わない方がいい。
いや。世の中にはおかしな人が大勢いるもんだと感心しているけど、昨日のコラムには呆れた。「私たち3姉妹は巨漢である」とのっけに書いてあった。
巨漢というのは、文字通り巨きな漢(おとこ)のことだ。3人そろってキョカンって、おかし過ぎるわ。このコラム担当の編集者がおかしいんだ。