ちょっと待って!

見たこと聞いたこと、すんなり納得できません。あ、それ、ちょっと待って。ヘンじゃありません?  ヘンです。

toilet

2013-01-27 00:08:46 | Weblog

 クリント・イーストウッドの『目撃者』と、『toilet』という映画が、同じ時間帯になっていた。

 『toilet』は、出演者も監督も紹介文もなにもなかった。『目撃者』を録画予約にした。『トイレット』は、墓地の場面から始まった。ひどく嘆き悲しんでいる痩せた兄と弟と妹の3人きょうだいがいて、弟が「ママの遺してくれたものは…」と語る。「ボクはヒトに迷惑はかけないし、迷惑をかけられることも嫌い」。

 兄貴はうつ病で4年間も外へ出たことがなく、妹は1ドルにもならない作詞教室に通っていて、弟だけがなにかの研究室で働いている。家にはママのママ(ばーちゃん…日本人)がいる。ばーちゃんは毎朝、トイレから出て来ると大きなため息をつく。題名が題名だから、トイレに怪しいものが棲みついているのかと思っていたら……

ノイローゼの兄貴はピアノの名手で、ばーちゃんはエアー・ギターが好き。弟はウルトラマン人形の蒐集を趣味にしている。ばーちゃんの溜息の原因はtoiletにあるんじゃないかと職場の同僚に教えられ、主人公はばーちゃんのためにオール自動の便器を買う。ばーちゃんが死んでから、toiletが家にやって来る。ラストが面白い。

 ラストのラストで、3人がエアーギターの演奏をしているのも良かった。兄貴役者はなんでも器用にこなしていた。

  いやー。面白い映画だった。脚本も監督も荻上直子という人だった。テレビ・ドラマでも電化製品でも、女性下着でも、日本の男性が作るものは全部間抜けなものばかりだけど、女の人が作ると映画でも面白いものが出来るんだ。

 本も映画も日本ものは嫌いだが、もっと日本女性に期待しよう。 

 


まあいいかはよくない

2013-01-21 22:21:07 | Weblog

  友達が編集をしている短歌の会に、誘われてしぶしぶ入りました。年4回の短歌誌を発行しています。会合に出ない会員として、4年ぐらい短歌を投稿していました。私の力作を、理解できずに勝手に添削して、くだらない短歌に帰るので、それは違うと抗議の一文を書き「やめる」と宣言しました。友達が、「今度から気をつけるから、そんなこと言わずに…」と電話で言うので、会費は年払いにしていることもあって(まあいいか)と辞めるのを思いとどまりました。
 会員作品以外の研究題材の作文があまりにも面白くない上、優しくて泣き虫の母が一人で暮らしているから「気丈でしっかりもの」と言ったり、百歳を7カ月過ぎて亡くなったのに「百近くで亡くなった」と言ったり、一度も喧嘩したことないのに「喧嘩ばかりしていたお母さん」と言ったりするので、またまた抗議文を書きました。昨年の秋です。もう絶対に許せません。

 誰がなんと言っても退会します。
 「橙」という短歌会なので、短歌(狂歌かなあ)を一つ詠みました。

 老齢の編集子みなとちちりてん橙ならぬポンカン会
 


gooメールgoo

2013-01-18 23:39:49 | Weblog

 gooのメールアドレスは覚えやすいから好きで、ページへ行かなくても、メールだけはチェックしていた。先日、「ログインの方法が変わりました」というお知らせを見たけど、放っていた。

 次の日、メールを開こうとしたら、真っ暗。ログインしているのにボックスがオープンしない。なんだかごちゃごちゃ、ややこしいことが書いてある。どうも、有料になったらしい。

 そんなケチなこと言うのならいいよ。ほかのサイトはみんな無料なのに、なんだ!

 で、ずっとメールにアタックしなかった。友達からのメールが来てるかも知れないと思いながら……  今日、何気なしにメールをクリックしたら、以前のようにジャーンと開いた。へええ。元に戻っている……

 470通ほど溜まっていた。

 真っ暗ボックスのゴジャゴジャはなんだったんだろう?

 


年賀状

2013-01-11 20:11:29 | Weblog

 昨年の同窓会で、母が亡くなった話をした。

 「一人暮らしが心細いから救急車呼んで病院へ入ったんやけど、担当のセンセは年齢聞いただけでボケの寝たきり扱い。その日から絶食でおむつ使用。なんで絶食ですか? と訊いたら、『誤飲するから』『トイレは一人で行けますよ』『起こしたら心臓が止まることがあります』『退院します』『無理です』いうて、母も毎日、「こんなとこにおったら死んでしまう。早よ帰らな…」言うてたのに、結局20日間退院もさせてくれへんかった。ガラシャ病院は、すぐに来てください。お待ちしてます」言うてくれはったけどね。

 点滴や心電図や、カラダ゛につけられてるクダ嫌がるから全部外してもうて、無理に連れて帰った。自分のベッドに寝て、「こんでええ。こんでええ。なんにもして要らん。なんにも要らん」言うて喜んでたけど、二日めにあかんかった。絶食で弱ってしもてたからねえ。病院はあかんよ。病院へ入ったら最後や。まだ死ぬ気がなかったのに、助かるもんも助かれへん」

 母は寂しがりだったが、姪や甥もみんなひとりで出歩ける年齢ではないので、亡くなったことを知らせなかった。、母がベルコに積み立てしていたから、大きな式場を借りられたけど、姉の子供と孫と私だけでお葬式をした。4年間、毎朝来てくれていたヘルパーさんが、仲間と二人でお通夜にもお葬式にも来てくれた。

喪中葉書は何処へも出さなかった。

 年末、270日も経ったので喪は明けたと決め、同窓生を除外して私の知り合いへの年賀状は普通に書いて出した。

 一月一日。同窓会で会った友達から、一人を除いてどかどかと年賀状が来た。