たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

僧侶を考える <追跡2017 住職は経営者、覚悟はあるか 塾で示す寺業計画>を読んで

2017-04-19 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

170417 僧侶を考える <追跡2017住職は経営者、覚悟はあるか 塾で示す寺業計画>を読んで

 

早暁、サイレンスの世界を堪能しています。高野山の宿坊などでも朝の勤行が始まるまではそんな感じでしょうか。昨夜は窓の外にオリオン座が手に取ることが出来るように感じるほど間近に感じました。街の明かりが少ないと言うことは省エネになるだけでなく、美しい星空を満喫できる妙味を味わうことができますね。

 

さて、今日のテーマはと、いろいろ考えている間に5時を過ぎ、来客の予定が近づいてきました。なんとか7時前に終わりたいと思い、新日鐵住金の技術流出事件での元社員との和解成立の話しを検討しつつ、うまく整理するのに時間がかかりそうと思い、見出しのテーマを選びました。選んだのはいいのですが、私なりの考えを披露する前に、知見のある方々の意見を参考にしようとウェブサーフィンをしていると、時間がまたまたかかってしまいました。

 

ともかく本題に入ります。見出しは毎日昨日夕刊記事です。お寺を経営する住職が経済的に困っているという話しは、別に現代に限ったことではありませんね。戦前もそうですし、戦後もたいていの住職は学校の先生をやったり、いろいろな仕事をされたりして、兼業というか別の仕事で収入を得て寺の切り盛りをしていたと思います。檀家制度で安定収入を得ていたといわれる江戸時代くらいが異例だったのではないでしょうか。

 

それはともかく、現在の状況は他の職業の中には右肩上がりの中で、住職なり僧侶の収入が低減傾向にあるということでしょうか。そういう意味では、程度の違いはあっても、士業の多くも似たような状況にあるでしょう。従来通りの資格を持っているだけでは収入減となり、経営が成り立たないということもあるでしょう。弁護士や税理士だけでなく開業医の中には厳しい状況にある人もいるでしょう。

 

来客対応が長引いて、どんな筋書きにするつもりだったか忘れてしまい、少し紆余曲折になっています。少し本筋に戻します。

 

毎日記事では、調査データで住職の困窮状態を示しています。

<人口減少や過疎化による檀信徒の減少などで、困窮する寺院は増えていると言われる。最大級の伝統仏教教団、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)が2015年に全寺院を対象に実施した調査によると、回答のあった約7000カ寺のうち10.4%が年収50万円未満、11.3%が100万円未満だった。一方で2000万円以上を得ている寺院も5.6%あり、格差が広がっていることも示している。またおよそ27%の住職は兼職しており、その大半が「寺院ではない仕事から得られる収入の方が多い」と答えた。>

 

これほど収入が少ないかはよく分かりませんが、私が担当した事件に関係する僧侶の給与では高額ではないとしても中小企業の職員並み程度の人もいました。でもそういう人も住職をしている寺の収入ではなく、格の高い寺院で職員となって得た収入だったようです。私が見聞きした情報では、兼業と言っても、戦後のある時期のように全然別の仕事に就いて収入を得ている人より、格の高い寺院の職員として勤務をしながら寺を経営している僧侶が結構多いのではないかと思うのですが、データがないので、正確なところは分かりません。

 

たしかに人口減少は大きいかもしれません。しかし、それ以上に檀家制度自体が崩壊の危機にさらされていると思います。いや、葬儀、法要、墓に対する意識も大きく変わってきたと思います。いずれもその必要性、とくに僧侶との関係性が薄弱になっていると思います。それはそうでしょう。故人の具体的な生き方に触れた説教でもあれば別ですが、単に分からないお経を読んでさっと帰ってしまうといった儀式の形骸化した中では、僧侶・住職に対する信頼や尊敬といったものも生まれにくいのではないかと思うのです。

 

葬儀、法要、墓といったものが本来のインド仏教にとっては必須のものではないのですから、それが日本古来の習俗監修や神道、中国から伝来した儒教思想と融合して儀式化していったわけですから、それを仏教の担い手である僧侶がよほどがんばらないと人々にとっては必然のものとはならないでしょう。とはいえ、私自身社協の相談を長くやっていましたが、結構、死んだ後の葬儀はもちろん、墓のことを気にされます。仏教であれば宗派がどうのこうの、檀家寺がどうだとかといった相談がありました。いまの高齢者世代にとってはまだまだ息づいているのでしょう。これから先10年あるいは50年も経過するとどうでしょうか。

 

で、毎日記事が取り上げたのが、寺経営に困っている住職、ないしはその予備軍の副住職などを集めて、「未来住職塾」というのが最近人気を呼んでいるとのこと。本来、寺というものは、妻帯しないことが求められている住職が担うわけで、その子による相続継承なってものがありえないはずですが、事実は長年にわたり、寺は住職の家の家業となり、それを子が承継するのが当たり前になってしまっています。

 

親鸞は法然に妻帯を許され、子を残し、その子孫が天皇家並みというと失礼ですが、宗祖を何世代にもわたって継承しているのが浄土真宗です。しかし、その他の宗派も隠れ妻帯はいつ頃からか起こり、江戸時代の檀家制もあいまって、家業となって、長くその家系(養子も含め)が継承してきたのではないかと思うのです。

 

中小企業でも2代、3代と事業を継承するのが難しいわけです。まして経営をならったことのない住職の場合、檀家制度と葬儀・法要・墓といった体制が経営感覚がなくても安定した収入を得てきたのだと思います。といっても、檀家が数百人いて(家族を含めるとその45倍くらい)、墓地を保有している寺院なら安泰でしょうが、そういう寺院は限られます。すこし広い境内地があると保育園とかマンション経営とか、いろいろ手を出して経営破綻する武士の商いの例も少なくないのは当然です。

 

ただ、広大な境内をもつ地域の中心的な寺院だと、住職の風格も違いますし、余裕が感じられます。昔、そういった住職から業務の依頼がありましたが、高級車を運転手付きで乗られていて、住職というのはたいしたものだと感心したこともありました。でもそれは例外中の例外ではないかと思います。

 

普通は、住職も、跡取りが仏教に関心がない、修行が嫌い、とても厳しい修行に耐えられないと、僧侶の道に入るのを嫌がる子をなんとか僧籍をとらそうと苦心惨憺しているのが現実ではないかと思います。しかも宗教関係の大学に行かすにもそれだけの経済的余裕がなく、子もアルバイトしながらなんとか大学を卒業するといった状況を、その子が刑事事件を犯したことから私が担当して知ったこともあります。その外にもいやいや修行を続けている子の事件を担当したこともあり、家業の継承というのなかなか大変だとおもった次第です。

 

で、問題は「家業」である寺を継ぐことができたとしても、その経営を行い、安定した収入を得るようになるには、より大変です。むろん大きなお寺の場合はいろいろな安定収入があるので、そういった心配が少ないところもありますが、それは例外でしょう。

 

未来寺塾の<「塾長」の松本紹圭(しょうけい)さん(37)>が経営を伝授しているわけですが、それはたしかに経営破綻して檀家が困るといったことにならないように、このような経営塾も俗の社会では意味があると思います。しかし、そもそも全国の寺院の中で、宗教法人法で求められているのは俗社会、まいえば、一般社会で、求められている多くの事項がきちんとなされているかというとはなはだ悲しい現実があると思います。

 

宗教法人の経営組織としては代表役員と責任役がいます(18条)。そして「宗教法人の事務

責任役員の定数の過半数で決し、その責任役員の議決権は、各々平等とする。」(19条)と当たり前のような規定がありますが、このような法が予定している議事が行われ、議決が行われている宗教法人がどのくらいあるでしょうか。さみしい状況だと思います。

 

また重要な財産処分については、次のような財産について公告が義務づけられていますが、どの程度履行されているか、疑問があります。

 

「(財産処分等の公告)

第二十三条  宗教法人(宗教団体を包括する宗教法人を除く。)は、左に掲げる行為をしようとするときは、規則で定めるところ(規則に別段の定がないときは、第十九条の規定)による外、その行為の少くとも一月前に、信者その他の利害関係人に対し、その行為の要旨を示してその旨を公告しなければならない。但し、第三号から第五号までに掲げる行為が緊急の必要に基くものであり、又は軽微のものである場合及び第五号に掲げる行為が一時の期間に係るものである場合は、この限りでない。

 不動産又は財産目録に掲げる宝物を処分し、又は担保に供すること。

 借入(当該会計年度内の収入で償還する一時の借入を除く。)又は保証をすること。

 主要な境内建物の新築、改築、増築、移築、除却又は著しい模様替をすること。

 境内地の著しい模様替をすること。

 主要な境内建物の用途若しくは境内地の用途を変更し、又はこれらを当該宗教法人の第二条に規定する目的以外の目的のために供すること。}

 

こういう俗社会が要請する宗教法人法のたくさんある事項について、どの程度「家内事業化」している寺院において履行しているか、はなはだ疑わしい状況だと思います。

 

私自身、ある寺院の宗教法人法に定める各種法定事項を整備すべく長年支援してきました。その寺院はそれなりにある程度は履行してきていましたが、十分ではなかったので、その制度作りを行ってきました。

 

未来塾の塾長は経営と言われています。そのとおり寺院事業の経営をきちんとする必要があります。会計処理においても寺院と家計の分離は当然です。それに加えて経営ですから労務管理もしっかりしないといけませんん。就業規則をはじめ雇用環境も適正に整備する必要があるのです。

 

経営のあり方は、記事では紹介されていませんので、あえてここではとりあげませんが、むろん収益事業を営むことが主たる目的ではないので、勘違いされると困ります。

 

それはおいておいて、住職・僧侶のあり方について、より整理された私も賛同する見方をされている意見を紹介します。大阪府などのご意見番的な立場、あるいは築地の豊洲移転問題、東京五輪の事業費問題に鋭く冷静に意見を述べてきた上山信一氏です。

 

ちょっと古い情報ですが、日経ビジネス<これからのお寺はNPOになれ>という見出しで述べています。

 

先祖代々の墓などについては、<釈迦の説いた本来の仏教では、人は死んだら49日を経て人や動物に生まれ変わる(輪廻)。だからちょっと不謹慎な物言いかもしれないが、元祖仏教的には、私たちはお墓の前で泣く必要はない。なぜなら「そこに私はいません。眠ってなんかいません」という状況だからだ。この意味でヒットソング『千の風になって』は元祖仏教的に正しい。>というのは私たちが四半世紀前に始めた葬送の自由を進める運動の出発点でした。

 

<お葬式や法要は仏教だけでなく儒教や神道の風習もパッケージにした“パック商品”で、それをお寺と僧侶が一手に引き受けている。いかにも雑食性の日本らしい展開である。>といのは上山流で切れ味がいいですね。

 

上山氏は<もっと生きている人を助けよ>と活を入れて、<日本では年間約3万人弱が自殺するが、その責任の一端はお寺にもあるのではないか。僧侶は仏壇や墓に向かい死者を弔う。それはもちろん十分に尊いことであり、遺族の心を癒す。そして世の中に欠かせない大事な役割でもあるが、それだけでよいのか。本当は、悩み苦しみ自殺を考える人々にも向きあうべきではないか。>と言うのです。まったくそのとおりです。

 

僧侶は、庶民に支持されたのは官僧ではなく、国家から否定された民間僧です。行基がいい例です。彼は国家が認めた僧のみしか宗教活動が行えない時代、人々の救済活動を率先して行い、橋をかけたり、道を作って庶民の生活を便利にしたり、飢餓や病気で苦しんでいる人に食料や薬を配布するなど行ったわけです。寺院にこもって国家安寧を祈って仏法を説いていません。その行基らの活動を禁止して信仰活動を一旦否定した律令政権は、仏教を広げるためには、また東大寺大仏を築造するためには、あまりに人気のある行基に頼らざるを得なくなり、こんどは大僧正までの地位を与えたわけですが、それは余禄みたいなものでしょう。

 

僧侶として期待されるのは、生きている庶民のいまを助けることでしょう。空海も各地で空海伝説が残るのは、庶民の助けを求める声を聞き、各地に出かけていった、あるいはそう会って欲しいと願った庶民の意識が生んだものではないかと思うのです。

 

上山氏は、さすが目の付け所が違います。彼は<これからのお寺は駆け込み寺になってほしい。>というのです。そうです。いま世の中で必要とされているのは心のケアでしょうか。精神科医や心療内科医などによって救われる場合もあるでしょう。しかし心の悩みはけたはずれていろいろです。医学的知見や社会福祉、法曹的な知見などこれまでの実践的知見だけでは有効でない場合が少なくないと思います。そのとき幅広い、深い心持ちで対応してくれる僧侶がいれば、それこそ真の阿弥陀様、観音様ではないでしょうか。

 

僧侶は少なくとも法要のときは自由に他人の家に入って自由闊達に意見を述べ、また聞くことも出来ます。法要の時期だけに限定する必要は仏法の決まりにありません(法要自体が仏法の要請ではないわけですから)。

 

上山氏の話は見事です。<僧侶はたいがいの家の中に入って行くことができる。そして仏壇にたどり着き、家人と話ができる。定期的に訪問するので、その気になれば家の中の様子が定点観測できる。「もしかして、子どもが虐待されている」、「このところ夫婦仲がよくない」などと気付く。仏壇でお経を読んだあと、ちょっと話しかけてみたらどうだろう。ふと気が楽になって、悩みを語り出す人もいるのではないか。>

 

たしかあの「寅さん」の映画で、住職の代わりをやって自由奔放に話して大受けしたストーリーがありましたが、いま求められているのはそういう住職ではないでしょうか。

 

そして上山さん、<人に真向かえば、檀家寺の未来も明るいのではないか。そして、たった1人の自殺未遂者でも救うことができたなら、それこそが僧侶の道を選ばれた本望となるのではなかろうか。>とおっしゃる。そう人一人助ける、あるいは助ける努力をする、それがいまの僧侶、住職に求められていることではないでしょうか。

 

寺の経営といったしょぼい話しではなく、もっと明るく、人間味のある僧侶・住職の姿を見たいと思うのは私だけではないと思うのです。

 

今日はこれでおしまいです。