たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

豊かな機会と自由で贅沢な時間 <『ウォールデン 森の生活』>を読みながら

2017-04-28 | 人の生と死、生き方

170428 豊かな機会と自由で贅沢な時間 <『ウォールデン 森の生活』>を読みながら

 

今朝も薄暗い状態から次第に曙光が広がり自然と目覚めが訪れました。野鳥も早起きもいれば、そのさえずりを聞いて起き出すものもいるようです。空は青く澄み渡るように見えるので、まるで春ではないような気がします。高野の山々の山肌がくっきり見え、西方にはいくつかの形状の山々もそれぞれの姿を鮮明にしています。

 

ウグイスのホーホケキョという囀りも少しばかり上手になってきたようです。その声の中を素早く滑空するのはツバメたち。今日も気になりヒノキのてっぺんにある穂先をのぞいたのですが、鳥の姿はありません。

 

それで庭木の剪定の続きをしました。密集していたため、枯れ葉状態とか、枝がもう枯れてしまってポキッと折れるものもあります。剪定するとよくなるのか、よく分かりませんが、なんとなくすっきりして見栄えがよくなると勝手に判断しています。

 

そういえば柿の木の剪定もしばらくやっていましたが何百本くらいあったのでしょうか、一本の木だけでも大変なのと、剪定ばさみでチョキチョキやっていると、腱鞘炎が悪化するのと、柿が実っても出荷したり、食べるわけでもないのと、そいういった弁解をして、大鎌で「剪定」と称して、バサッと切るのです。ま、気分は佐々木小次郎でしょうか。太い枝でも、密集しているとバサッと一刀両断?です。以前は安物の大鎌を使っていたので、柄の方がボキッと折れてしまうことが多かったのですが、少しいいのに代えると、多少のことでは折れません。でも柿の木遊びも終わりました。

 

今はわずかな庭木を相手に、剪定ばさみでチョキチョキとのんびりやっています。花の方も今年はすでに150苗くらい植えたでしょうか。少しはカラフルになりましたが、花園にはほど遠い状況です。

 

そうこうしていると、出かける時間になったので部屋に入ると、おっと、「一筆啓上仕候」くんが明るく伸びやかに歌っています。今回はゆっくりと三脚を取り出し、100倍ズームのビデオカメラでのぞくことが出来ました。ホオジロは声を出すとき、首から胴にかけてどっと前方に突き出す感じで、テノール歌手ばりに気持ちよさそうに歌っています。時折、頭をかきながら、さっと横切るツバメを意識しつつも、自慢たっぷりに歌っています。

 

眼下の谷戸は柿畑や田んぼがありその両側に川が流れていますが、自然の営みを感じるには遠すぎるかもしれません。桜の花は散ってしまいましたが、藤の花を含め新緑の輝きがとてもまぶしく感じます。

 

さて、私の住処は森の中ではありませんが、背後にすぐ和泉山系が続いていて、広葉樹・針葉樹の混交林の森です。大きな池は見えませんが、あちこちにため池もあります。ウォールデン池や森とは大いに異なりますが、気分はへんりー・D・ソローの『森の生活』を意識しています。

 

座右の書として、時折さっと斜め読みをするばかりですが、彼はわずか2年の森の生活で、その繊細で豊か、深い洞察を存分に発揮して、豊かな空間、心の持ちようを描いてくれています。

 

佐渡谷重信訳と今泉吉晴訳を読んでいますが、微妙に異なり、後者訳がより好みでしょうか。ともかくちょっと春の部分の一部を引用してみたいと思います。

 

「森で暮らしたらどんなに楽しいだろう、と私が夢を描いた理由のひとつは、そうすれば

春がやってくるのを知る、豊かで確かな機会と自由で賛沢な時間を持てることでした。」385頁 春を取り上げているのは、最後の章「春」だけではなく、なんども描いています。それほどに春を細やかにそしてなんとも自然の営みを豊かに描写しているかと思うのです。それこそ彼が言うように、「自由で贅沢な時間」を自然とともに享有していることがわかります。

 

その一部を取り上げましょう。

 

「私は春の先駆けを捕らえようと感覚を研ぎすませます。春の鳥の鳴き声がかすかにでも

聞こえないだろうか、シマリスの地下の食糧庫の蓄えも切れ、あの甲高い鳴き声が聞こえるかもしれない。それにウッドチャックも冬眠用の巣穴を出たくてうずうずしているはず、巣穴を抜け出るところを見られないか、と期待します。私は三月一三日にすでに、ブルーバード、ウタスズメ、ワキアカツグミなどの鳴き声を耳にしていました。でもウォールデン池の氷は、依然一フィート近い厚さでした。この池の氷は、二、三日たまたま暖かかったからといって、川の氷のように水に洗われて急に薄くなったり、割れて流れ去ることがありません。それでも岸辺から半ロッドほどは溶けています。」と続きます。

 

ソローにとって、仕事は最低限の生活の糧を得られれば十分なのです。立派な家も必要ありません。衣服も家具も必要最小限で十分なのです。彼を豊かにするのは、「豊かで確かな機会と自由で贅沢な時間」をいかに日々の生活の中で生み出すかということではないかと思うのです。佐渡谷訳ではこれを「余暇」と訳していますが、これでは彼が『森の生活』で終始、頑強に自分なりの日々の過ごし方にこだわり、それを書き綴ったかが、理解できないかもしれません。

 

私にはソローの才能もなければ、心構えもありません。なぜ仕事をして収入を得ようとしているのか、自らに問い質す必要があるかもしれません。なぜ忙しく庭木の手入れをし花の世話をし、また仕事に時間をとり励むのか、そしてちょっと時間があるとTVや新聞のニュースに聞き耳を立て、あれこれ悩むのか、私自身もわかっていません。北朝鮮の脅威、シリア難民のどん底状態、あるいはDVに脅かされる家族や、原発被災で分断された人々、あるいは辺野古埋立をめぐる対立、その過剰なほどの情報の嵐の中に、自分自身が勝手に身動きできなくなっているようにも見えるのです。

 

私はカナダ滞在中の2年間、わが国の情報から無縁でした。それでも十分生活を満喫でき、また新たな関心の中に埋没していたように思います。このことから私自身、人は考え方によって、情報の取捨選択ができるし、呪縛状態にあるように思える環境や情報・社会からもいつでも考え次第で離脱できるのではないかと思っています。

 

ソローは、そのような心のあり方に一つのヒントを与えてくれているように感じるのです。人の心を豊かにしてくれるもの、それはやはりその人の考え方次第ではないかと。見えないものも見えてくるかもしれません。嫌なものと思っているものも、自分がその呪縛の中に縛られている考え方をもっているからかもしれません。

 

仏教の教えでは、仏は自分の心の中にあるとも言われています。解脱を試みたり、五戒、十戒等をしっかり守りたい、とは思いませんし、思っても出来そうにないです。ただ、こうやって自分とは何かみたいなことを書いていると、自分は無であることがわかるのではとの淡い期待はあります。

 

とはいえ、いずれ私もウォールデンの森に迎えるだけの心持ちを持ちたいといつも思っていますが、いつになるやら。今のところは、ソローの心意気を少しまねて、田舎の田園風景をもう少し丁寧に描いてその息づかいを感じてみたいとは思っています。

 

今日は1時間余りで終わることが出来ました。というか終わらしたのかもしれません。いつかソローの『森の生活』と共鳴できるような内容を書ければと思っています。