170423 介護と家事の彷徨 <介護相談者、8割女性 京都の団体調査 実の娘に負担>を読んで
今朝はすばらしい快晴でした。コバルトブルーとまではいえませんが、とても青々しい空です。当然、高野の峰峰もくっきりと姿を見せ、複雑な稜線も葉脈のように浮き出ています。楊柳山の向こうには奥の院があり、弘法大師空海廟が鎮座しているはずと推測できます。わが家からは廟の右手が転軸山、左手が魔尼山となります。といっても、楊柳山の頂に隠れて背後の廟は見えるはずもありませんが。しかしあのような高野の平坦な台地をよく見つけたものだと改めて感心してしまいます。
ともかくデジタルカメラでパノラマ写真を撮ってはみたのですが、安物ですので、画素数が1000ちょっとと最近のスマホカメラにも負けてしまう程度ですから、写真にすると物足りない感じになります。ついでに国土地理院の地図情報サービスを閲覧すると、3D画像も提供されるようになっていて、これはおもしろいです。どんどん進化していて、見るたびに新しいサービスを提供している印象です。
わが家から西の方角では、龍門山と思われる長い平坦な稜線をもつ山並み、さらに西方にはいくつかの面白い形の山々が見えるのですが、まだ同定できていません。和歌山に向かうときは紀ノ川南岸道路を通るので、そういった山々の麓を走ることになり、対岸にある和泉山系はよく見えるのです。ぎざぎざのノコギリ状の山脈が続いたかと思うと、緩やかな稜線ばかりと、わずか40kmくらいの間にその山容は結構、いろいろで楽しめます。
とくに今は新緑が鮮やかで、パッチ状に山腹の景観を豊かにしてくれています。スギ・ヒノキの針葉樹と多様な広葉樹が入り交じり、その合間合間に竹林が散在していて、紀ノ川の流れもいいですが、山肌の変化もいいです。そういえば明日は久しぶりに和歌山です。
さて本日のテーマ、介護と家事の彷徨ですが、私なりに現在の状況をそう呼んでみました。毎日の昨日の夕刊に、<ともに・認知症国際会議in京都介護相談者、8割女性 京都の団体調査 実の娘に負担>の見出しで、大きく取り上げられていました。
<社団法人「認知症の人と家族の会」(京都市)が過去3年間に受けた認知症患者や家族からの約1万件の電話相談のうち、45%が実母の介護を巡る相談だったとの結果を同会がまとめた。こうした相談者の8割以上を女性が占め、実母の介護で娘が悩むケースが多い実態が浮き彫りとなった。同会は「『実の娘が母親を介護するのは当然』との風潮があり、周囲のサポートを得にくくなっているのではないか」と分析している。>
これは京都市所在の家族の会のデータですので、全国的なレベルで一般化できるかは気になるところですが、私の狭い体験でも、ある年代までは似たような状況が全国的にあるのではないかと思っています。
実の娘が母親だけでなく父親を介護するのは当然という意識は、遠く離れていてもあるのかもしれないと思っています。息子がいれば息子ないしは息子の嫁が介護するかというと、世代同居などの関係が成立している場合は別でしょうが、離れて暮らす現在の多くの世帯では、息子の妻(嫁)が義理の両親の介護をするかというと、かなり少ないのではないかと思うのです。
私の仕事上の経験では、男兄弟ばかりだと、その嫁同士が話合い、順番で世話をするということもありますが、それほどうまくいくわけではないでしょう。実の娘がいる場合でも、複数いる場合、介護・世話を奪い合うときもあれば、なすりつけあうこともありますが、多くは前者ではないかと思います。一つには、これは弁護士に依頼するようなケースでは、その年金収入や貯蓄が介護と一体となっていることがあり、亡くなった場合に、その介護のあり方や支出のあり方が問題になったりしますが、お金の問題がなくても、実の娘の場合はだいたい介護を担うことを当然に思うような意識が多くあるように感じています。
卑近な例で言うと、私の姉も遠く離れて住んでいながら、母の介護のために頻繁に実家に帰っていました。認知症初期段階の時はいろいろ問題が起こり、けんかをしたりしていたようですが、それでも心配で帰っていました。実の娘とはそんなものかと思うのは、息子という男の勝手な見方ではないかと思っています。たしかに実の母でも介護の世話となると大変です。私はたまに親孝行ということで帰っては温泉に連れて行ったりしていましたが、姉がいると安心して温泉に行けましたが、姉がいないと、母一人では温泉に入らせることもできません。
でも真剣に両親の介護に取り組んでいる人であれば、娘であれ息子であれ、父・母の世話を生活全般に見ているのだと思います。私はその意味ではとっくに失格者です。介護を語る資格がないといえばそのとおりです。ただ、気持ちだけは、娘がみればいいとは思っていません。自分ができないことを押しつけたりすることもできるはずがありません。
そうなると介護保険制度に依拠せざるを得なくなるわけです。介護を担う人が、要介護者が増えていく中で、減っている、あるいは追いつかない状態のとき、外国人を受け入れることは自然の成り行きでしょう。その労働条件・賃金や性・外国籍などによる差別が行われていないかなど、外国人の働く環境を適正に見守る必要があるでしょう。
ただ、今朝の毎日では<急速な高齢化社会>というタイトルで、総合研究大学院大学長・長谷川眞理子氏は、<生物学的に見たヒトの潜在的寿命はもともと非常に長>いとおっしゃり、縄文時代以来から
<生き延びた少数の高齢者は、まだまだ元気でよく働いていて、それなりの役割がある。あまり体力を使わない食料収集、伝統医療、宗教祭事、道具作り、孫の世話、社会関係の調整、めったにない災難への対処、集団の歴史の伝承などだ。現代医療のない世界でここまで生き延びてきたのだから、確かに元気で知識も豊富である。だから老人は尊敬される。
しかし、最後の最後、どうにも体が言うことをきかなくなったときには、伝統小規模社会は悲しい。積極的か消極的かはともかく、死んでいくに任せるのである。誰もが、それが運命だと思っている。>
基本はそのとおりと思うのですが、<最後の最後、体が言うことをきかなくなったときは・・・悲しい」と言われることには半分くらい賛成しかねるのです。おそらく長谷川氏は死んでいくことが辛く悲しいことと決めつけているからではないでしょうか。死は生の瞬間から予定されているわけで、どのようなことでいつ死ぬか分からない中、体が動かなくなるまで生き抜いたことは幸せではなかったのかしらと思うのです。
高齢者の見方について、昔は社会的に役立つから、尊敬されるから、よかったけど、<私たちの現代社会は、伝染病をなくしたり、経済を発展させたりと、個別の幸せ目標を達成させようと努力してきた。その結果、誰も気づかないうちに、多くの人が高齢まで生き延び、しかも、それらの高齢者にあまり役割のない状況を作ってしまったのだ。これからどうすべきか?>と疑問を投げかけ、
<人生をどう終わらせるかについて、新たな美学を作らねばならないのだろう。>とおっしゃるのです。高齢者がなんらかの役割をもたないといけないのでしょうか。人は死に当たって、惜しまれるような生き方を求めないといけないのでしょうか。長谷川氏の美学は、なにか社会的な有用性をもつ必要を指摘しているのではないと思いますが、誰かに愛されるといった美学であれば、それは素晴らしいと思いつつ、私には難題かとも思ってしまいます。
介護とその担い手的な話しから、高齢者自身、介護される立場の終末の処し方までやってきました。
最初の介護の担い手としての娘の問題と関連して、たまたま昨日のNHKの朝の番組を見ていたら、外国人による家事代行サービスの制限が、東京都など一部で緩和され、事業者認定がされ、本年3月からサービスが始まったことから、その実際を取材したレポートがありました。
登場したのは共稼ぎの夫婦で、妻の方はいままでの勤務状態から管理職になったことで、家事との両立が困難となり、外国人の家事代行サービスを頼むようになったとのこと。
フィリピンの女性だったと思いますが、お風呂場やキッチンなどの清掃を見事に丁寧に、まるで姑が横で立っていた頃のように、隅々まで目を皿のようにして見られている雰囲気で、ぴかぴかにしていました。
で、気になったのは、その妻である女性、取材を受けているとき台所で洗い物をしながら取材に応じているのはいいのですが、その脇に夫がのんびりソファーに座って新聞かTVを見ている様子。子どもたちも同様にのんびりしていて、家事は妻の仕事という家族全体の感覚です。これでほんとに「ガラスの天井」を破ることが出来るのですか。
このような状況でいくら外国人の家事代行サービスが導入されても、家事は妻、女性がすることの意識は夫、子、そして社会が根強く抱き続けるだけで、両性の本質的平等という憲法の精神には相容れない状況を根付かすことになりかねないと危惧する次第です。
早く切り上げるつもりがいつの間にか7時近くになりました。今日はこのへんで終わりとします。