170503 憲法を考える <憲法 施行70年 国民主権を鍛えよう>などを読みながら
今朝も暗闇の中目覚めました。以前は外が明るくなってきた夜明け前頃に自然と目覚めていたのですが、なにかの変化を示しているのでしょうかね。しばらくうつらうつらしていると、少しずつ曙光で明るくなり、鳥たちも喧しくになり、いつの間にか寝床を離れてしまいます。
今日も高野の周辺の山々を眺めつつ、グーグル・アースで見た3Dの山岳形状を重ねてみます。紀ノ川側から眺めたり、山の中に入って眺めていても、一向に気づかなかった一つに、丹生都比売神社のある天野の里がどうもカルデラ形状に見えてくるのです。どうみても噴火の跡のように見えるのです。丹生は水銀が多く出る場所として呼ばれるとも言われています。
空海は、遣唐使の留学僧として20年の予定で唐を訪れ、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚からその地位を継承されるなど、膨大な経典・法具にとどまらない高価な品物を日本に持ち帰っていますが、その経済的基礎・背景としてこの水銀の交易に関係していたという説があったかと思います。
なぜ天野に近い高野に真言密教の本拠を置いたか、このカルデラ的地形がヒントを与えてくれているように思うのは飛躍がありすぎでしょうか。ま、空海の一生は飛躍の連続ですから、これくらいは愚者の愚見ということで大目に見てもらいましょうか。
さて本日のテーマ、憲法ですね。なにせ憲法記念日なんですね。憲法は首都圏で担当していたさまざまな国・東京都、神奈川県など行政相手の訴訟では、毎回のように議論のまな板に載せていました。とはいえ、憲法はわずか103条しかないのですが、奥が深く、また広範囲です。私が取り上げるのは特定の条項ばかりで、いつの間にか憲法というものを全体として考えないで法律実務家の仕事をやってきたように思うのです。
当地にやってきて憲法を訴訟で取り上げるようなこともなくなり、ますます縁遠い存在になりつつあります。しかしながら、9条をめぐる状況の変化は著しいですし、憲法改正に係わる議論も次第に活発になりつつあるのを等閑視してばかりいられないかもしれないとも思っています。
とりあえずは今日の毎日記事やNHK番組をいくつか取り上げて、少し気持ちの整理をしてみたいと思います。
毎日朝刊一面は、<毎日新聞世論調査改憲に賛成48% 9条改正反対46%>と<憲法施行70年 国民主権を鍛えよう>とが大きく掲載されていました。
世論調査の動向にいろいろ反応するのはどうかと思いますが、改憲賛成が増えているのかなとは思います。その中でも、9条の改正については反対がなお大きいのは変わらないようですね。
このような動きも踏まえて、論説委員長・古賀攻氏は<国民主権を鍛えよう>と呼びかけています。安倍首相が主張する押しつけ憲法論に対抗する趣旨で述べているようにも見えるのですが、一体、どう鍛えるというのでしょうか。意図はなんとなく分かりますが、その意味合いというか、その方法をふくめどうも判然としません。
その点、おそらく<記者の目憲法70年 安倍政権の改憲論議=倉重篤郎(編集編成局)>で指摘されている記事内容について、国民がしっかり抑えておいて主体的に判断する必要があるといった意味合いなのでしょうか。
同記事では、これまで毎日記事が長く安倍政権を追求してきた文脈で、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の三大原則を安倍首相が軽視あるいは形骸化してきた趣旨を述べています。
<特定秘密保護法と、組織犯罪処罰法への「共謀罪」の新設>は国民主権の空洞化を招くと批判しています。<前者は、安全保障上の理由から国家公務員の機密管理を厳罰強化(2014年12月施行)したものだが、記者としてはあれ以来お役人の取材がしにくくなったことを正直に打ち明けたい。>とまで内心を吐露しています。
<後者は、テロ摘発を理由にした治安立法だ。実行行為がない段階でその準備行為をも捜査対象とする。政権はこの国会で強行成立させる腹だが市民活動萎縮の懸念が残る。
いずれも、憲法前文の宣言に背く。多様で正確な情報入手と、それに基づいた自由な言論、社会、政治活動こそ、国民の主権行使の内実を構成するものであるからだ。>
さらに<安倍氏の人事権、公認権による報復を恐れ「物言えば唇寒し」的言論自粛中である。>と自民党内部の問題も取り上げています。
以上の議論は、これまで何度も繰り返されてきたことで、国民が主権者としてこの問題をどう判断するかは争点が割合、わかりやすいかもしれません。しかし、鍛え直す国民主権という視点からは、このような議論が取り交わされるような機会が国民にあるかというとお寒い状態かもしれません。その意味では、国民主権が実効的に発揮できるような場の提供、選挙制度を含めさまざまな民主制の制度見直しも必要ではないかと思うのです。
次の<将来世代に残す二つの負の遺産>という問題を基本的人権の世代間差別として取り上げている切り口は、これまでもあったかと思いますが、国民主権と同列に取り上げる視点は目新しく感じました。しかし、これこそ、いまイギリス、アメリカ、フランスなど世界各国で起こっている財政金融政策が極端な経済的差別をもたらしていることと、少なからず通底するものがあるように思えるのは私だけでしょうか。もちろん西欧諸国で起こっている移民・宗教に関係する差別と同視するのは間違いです。しかし、アメリカで起こっている一面はまさに金融財政政策の差別的取扱が貧困層の家庭はさらに困窮するという経済的差別の継承となる状況ですし、それはわが国も類似している面があるように感じています。
<平和主義については武器輸出三原則の緩和(14年4月)、新安保法制の制定(16年3月施行)、沖縄・辺野古新基地の建設(4月25日埋め立て開始)という現政権の一連の仕事の中に非戦を核とする憲法精神との背理を見て取れる。>という問題は、十分な議論を経ないまま、北朝鮮の脅威を強調してなし崩し的に、それ以外の選択がないかのように、実態を変貌させていると思うのです。
私たちは、平和主義というものを改めてどのように現実的にとらえ、北朝鮮や中国、ロシア、あるいは中東・アフリカ問題などと向き合いながら、どのような具体的な方策をとるべきか、歯止めはどのようにすべきかを考える時期に来ているのではないかと思うのです。
<米艦初防護へ きょう出港 安保法、新任務 四国沖まで>も、現在の状況で、<安全保障関連法に基づき、平時から自衛隊が米軍の艦船などを守る「武器等防護(米艦防護)」について、稲田朋美防衛相が初めて自衛隊に実施を命令したことが政府関係者への取材で分かった。米軍の要請に基づき、1日から海上自衛隊の護衛艦が太平洋沖で米海軍の補給艦を防護するという。>ことがいえるのでしょうか。
このような視点とはまた異なる<記者の目憲法70年 今日の生存権=野沢和弘(論説室)>は基本的人権の奥深さ、これこそ私たち一人一人が人権のもつ意味を主権者として主体的に考え、行動する一つのあり方ではないかと思った次第です。
私たちは、日々、その言動の中で、行為の選択の中で、国民主権者の一人として、試されているのではないかと思うのです。生存権という憲法研究会のメンバーの一人、森戸辰男氏が死守した規定は、現代日本において、より人間味のある権利として育てていかないといけないことを改めて感じました。と同時に、それはその他の基本的人権についてもいえますし、いや、憲法全体について、変化する環境に順応するように、運用を見直す必要があるでしょう。そしてどうしても規定の変更が必要であれば、改正をも検討することになるでしょう。
ただ、中曽根元首相が99歳の高齢にもかかわらず、明治憲法、日本国憲法の功績を評価しつつ、前者は薩長政府が、後者はGHQがつくったものとして、初めて国民の手で憲法を作る必要を訴えていましたが、何をもってGHQの押しつけとみるのでしょうか、私は賛同しかねます。
当時の帝国議会は地主層や経済人を中心とする衆議院と、非公選の貴族院のメンバーで構成されており、彼らが納得しないのは当然でしょう。彼らが国民の代表であったというのでしょうか。私には、日本国憲法の条文を見て感激した多くの国民の万歳を三唱する映像が真実に近いように思えるのです。
NHKの<アナザーストーリーズ「誕生!日本国憲法~焼け跡に秘められた3つのドラマ~」>は、民間の研究者7人で構成された憲法研究会が作成した「憲法草案要綱」がGHQの草案作成チームによる草案の土台になったことを指摘しています。実際、GHQ草案よりも厳しい内容で、天皇制廃止、平和主義を謳い、9条の規定はないものの、それ以上に高い精神性をもっていたように思えるのです。
ところで、国民主権を鍛え直すという毎日記事ですが、若い世代は憲法改正派が増えているようですし、9条の改正を求める割合も多いようです。それは義務教育課程での教科書や教え方にも問題があったように思えるのです。現実とまったく異なる内容を一方的に教え込むことでは、国民主権の意識は育たないでしょうし、逆に、条文の規定と現実が齟齬している場合に、かえって逆効果となるおそれが高いと思うのです。
<憲法施行70年 教育現場「中立性」に苦慮 国民投票、来年18歳以上に>は、いま教師それぞれが直面する課題ではないかと思うのです。自分で考える、それは中立性といった抽象論でなく、主体的に求められる優先度の高い教育のあり方ではないかと思うのです。
国民主権のあり方は、これまで鍛えられてこなかったのではないかと思っています。とりわけ若い世代、義務教育課程では、もっとも自分の判断で考えるべき時代にありながら、考えさせない教育をしてきたわれわれの世代の問題があるでしょう。現場の教師は、これからが正念場ではないかと思うのです。
憲法は、実態と条文の文言とが大きく違っている場合もあります。それをいかに憲法の精神を読み解き、現実と憲法の齟齬を整合あるものにしていくか、それは国民主権の担い手それぞれが課せられている問題だと思うのです。
具体的な問題はいずれまた取り上げてみたいと思います。今日はこれでおしまいです。