170515 蚊はお友達? <継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 ライオンケミカル・・>を読んで
今朝は光りが鈍く感じられました。外を見ると薄曇り。野鳥の鳴き声もまだか細い。と、なにか飛翔体発見。おやおや蚊でした。あのブーンという音もなく、血を吸うこともなくどこかに飛んで言ってしまいました。そろそろ蚊が登場する季節になったのでしょうか。まだ朝晩はひんやりさが残っているので、蚊が元気な夏のようにはいかないのかもしれません。
そういえば当地にやってきて体調回復を兼ねて日々草刈をしていましたが、蚊は始終つきまとってくれました。携帯用の蚊取り線香を腰に付けて作業をしていましたが、なるほど蚊の方はほとんど登場しませんでした。時折忘れると、案の定、これ幸いとずいぶんと血を座れてかゆい思いを何度もしました。時計を携行しない(むろん携帯電話も)ので、時間は蚊取り線香がある程度なくなった頃合いで作業を止めたりもしていました。
とはいえ、蚊取り線香だと、しっかり留めていないと、大鎌を振るったり、木に登ったりしているうちに、落としたり、途中で開いたりして、蚊取り線香を落とすこともあります。それで携帯用電池式蚊取りを使ったりもしていましたが、煙も音もないので、効いているのかよくわからず、ある時期からはまた蚊取り線香に代わりました。
というのは、蚊はどちらかというと難敵ではないのです。刺されても多少かゆい程度で、腫れ具合もさほど気になりません。ところが、アブさん(南海ホークス時代の代打男として漫画で一時期有名でしたが、名前の由来は?)やブヨだと、これは大変です。だいたい、蚊取り線香はまった効いた試しがありません。電池式も同じです。しかも彼らはひたすらどこまでもまとわりつくのです。音もかなりでかく(スズメバチほどではありませんが)、刺された(皮膚をかみ切るそうです)後は痛いし、その腫れ具合は私自身多少皮膚アレルギーがあるため、目の周りなどだと開けられないほどです。どこでも刺してくるので、しかも作業中ずっとまとわりつくので、これは忍耐です。
アブやブヨの襲来ばかりに気を取られていると、下ではマムシが徘徊しているので、これにも注意を払わないといけないのです。そんなわけで、蚊取り線香の効用は、草刈の場合さほど感じませんでした。とはいえ、春先から秋口まではいつも携行していました。
ところで私自身の幼い頃というと、蚊帳の方が懐かしいですね。蚊が入らないように、うまく蚊帳に入るといったこと、蒸し暑いけど蚊の襲撃には十分な防御壁でした。最近ではアルミサッシの窓にエアコン付きの部屋ということで、蚊帳を見ることもなくなりましたが、現在も熱帯地方などでは重宝されているようです。
と長々といつもの前置きが続いていますが、今日のテーマ、どう取り扱うか悩みつつ、書いています。なぜか毎日記事<継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 ライオンケミカル 特許流出し輸出が激減 下請け専念経て反転>が気になり、お世話になっている蚊取り線香発祥の地が和歌山なんだということもあり、少し蚊について考えてみたくなったのです。
だいたい蚊取り線香がない時代、どうしていたのでしょうね。良寛さんの伝承の中には、蚊の命も大事ということで、自分の足を差し出して吸わせたという話もあるようですが、なんとなく納得させられそうです。
なにせ仏教の戒律は殺生禁断ですからね。私自身、気持ちは蚊も命ある生物ということで、殺したくない思いをもっています。たいていの虫は、ゲジゲジだろうが、ムカデであろうが、家に入ってきても殺すことなく、外に出してやるのです。昆虫もそうですね。野鳥なんかは当然です。が、蚊はそうすることを心がけつつも、ついぱちっとやってしまいます。
では空海さんはじめ、名僧の方々はどうしたのでしょうか。法然さんは穏やかで優しそうですので、やはり蚊は殺さなかったのではと思ったり、日蓮は強烈な攻撃的な性格を持っているので殺したのではないだろうかとか、いろいろ妄想をはじめてしまいそうです。
江戸時代の俳人でも、芭蕉になると、やはり情緒のある句を残していますね。
これに比べ、生活苦と実家を固執する執念のような生き方をした一茶の場合結構多くて生活感がよく出ています。
蚊一つの一日さはぐ枕哉 一茶
年寄と見るや鳴蚊も耳の際 一茶
一つ蚊のだまってしくりしくり哉 一茶
釣鐘の中よりわんと鳴く蚊哉 一茶
昼の蚊やだまりこくつて後から 一茶
意外と蚊は孤独の俳人に愛されたのかもしれません。とりわけ子規はすごい。彼の東大予備門時代の初期の句と、亡くなる直前と思われる句を取り上げますが、その間に膨大な数の句で蚊を取り上げています。これまた不思議ですが、それほど生活と密着していたのが戦後初期以前の時代だったのかもしれません。
蚊柱や蚊遣の烟のよけ具合 M21 東大予備門
氏祭これより根岸蚊の多き M35 9.19没
晩年の住まい、根岸付近は当時、不忍池も近いですが、緑濃く湿地も多かったように思います。きっと蚊もわんさといたのでしょう。でも亡くなる直前まで、蚊を単に嫌なやつとせず、近づけたくない、殺したいといった感情とは異なる、なにか優しさを感じさせる眼差しを感じさせてくれるのは、長い闘病生活を共にした戦友とでも思っていたのでしょうか。
こういった風情は、一般庶民には感じる余裕もなく、蚊の退治こそ求められていたのかもしれません。「蚊取り線香」をウィキペディアで見ると、
<和歌山県の上山英一郎(大日本除虫菊株式会社の創業者)は、1886年に福沢諭吉より紹介されたH.E.アモアより除虫菊の種子を譲り受ける。・・・(省略)・・・
そこで上山は、今度は線香に除虫菊を練り込むことを考案、1890年に世界初の棒状蚊取り線香「金鳥香」が誕生した[3]。>
最初は棒状だったんですね。でも<棒状のものが製造されていたが粉末のものは扱いにくく、棒状のものは立てて使うために線香が倒れ火災が発生することも少なくなかった。最大の欠点は、一度の点火で長時間にわたって燃焼させることが、線香の形状から難しかったことで、約20cmの長さで約40分が限界だった。棒状線香を単純に伸ばしただけでは燃焼中に倒れやすくなるので延長にも限度があった[2]。>いろいろ欠陥があったんですね。
<渦巻き形の蚊取り線香のデザインは、1895年からのものであり、上山の妻・ゆきの発案とされる[3](倉の中でとぐろを巻く蛇を見て驚き、夫の元に駆けつけ告げたのが発想の元になったという)。このデザインにすると、燃焼時間が長くなり、かつ嵩張らない。例えば、大日本除虫菊の製品では渦巻きを解きほぐすと全長は75cmに達し、一度の点火で7時間使用できる[4]。>
蛇のとぐろを巻くのをヒントにしたというのはすごいですね。私もなんどか遭遇したことがありますが、あれは攻撃体勢をとっているので、いつでも襲いかかろうという状態ですから、私の場合はとても緊張して(金鳥ではありませんね)、襲ってきたらどう対応しようかと考える程度が関の山です。
ところで、毎日記事は、金鳥の和歌山県の上山英一郎(大日本除虫菊株式会社の創業者)ではなく、ライオンケミカルという会社を取り上げています。<1885年設立のノミ取り粉メーカー「山彦製粉工場」が前身の同社は、1943年に線香のペーストを渦巻き状に加工する世界初の自動製造機を開発。原料が除虫菊の花から化学合成品に代わった戦後には、菊の葉をイメージさせる緑色の線香を初めて作るなど業界をリードする企業に成長した。>同社が自動製造器を開発したのですね。最初は手作りで渦巻き状にしていたのですから、大変ですね。
その後栄枯盛衰を経て、<01年に現在の社名に変え、営業部門も復活。下請け時代に培った技術を生かし、天ぷら油処理剤や芳香剤を開発。イオンのプライベートブランド「トップバリュ」やマツモトキヨシの製品の製造も始めた。外資系の看板を下ろして18年、売り上げは4倍になったという。>ことで、継続こそ力なりということです。
蚊取り線香の話しからいろいろ話しが飛んでしまいましたが、蚊はやはり人間のお友達かもしれません。カナダは寒さの厳しい国土ということで知られていますが、中央に位置するマニトバ州の州鳥(公式にはカラフトフクロウ)は、俗にモスキートと言われているほど、夏場はその一大生息地になるそうです。目を開けていられないくらいになるとも聞きました。冬はマイナス50度、夏は40度近い寒暖差がすごいのです。それに湿地だらけです。ま、蚊にとっては天国かもしれませんが。
でもマニトバに住んでいる人たちは、Tシャツに蚊の絵柄をデザインして、自慢しています。とはいえ、蚊は、黄熱病、デング熱、脳炎、マラリアなど多数の伝染病の媒介者です。私も熱帯林調査の際はその都度予防接種した記憶です。でもウェブ情報をみると現在はありませんということで、私が通った四半世紀前とは違うようです。
だいたい、ボルネオなどのジャングルで生活をしましたが、蚊に刺された記憶がありません。川の水も生活している先住民のロングハウス付近では衛生状態がよくなかったので、決して快適環境とはいえなかったように思うのですが、記憶に残っていないのですね。川は結構な大河(バラム川)が近くにあり、そこで毎日水浴びをしていましたが、水を飲まないようにしていたくらいで、幸い病気にもならず過ごせました。心配した蚊にやられず、蚊を敵にすることもなく、今日に到っているのは、幸運なのか、わかりませんが、今後も生きている限り、蚊とは付き合いそうです。
今日はいつも以上に何を書こうか決めないまま、書いてきましたが、そうそろ終わりとします。