170504 事業家の心構え <緑のマチュピチュ 愛媛・別子>などを読みながら
今日も相変わらず漆黒の中に目覚めて長閑な早暁の明るみを感じつつ起き出しました。いつものように高野の山々の成り立ち具合を意識しながら眺めています。地質学などの知見があるともう少し理解できるだろうにと思いながら、ひたすら稜線を追っています。そういえば、カナディアン・ロッキーの岩肌を眺めていると、地球の造山運動を感じるようになり、英文の地質学の本を当時はよく眺めていたものでした。
どうやら錯覚があるように思っています。いつも3つのたんこぶのような山頂の形状にみえる箇所はどこかとグーグル・アースの3D画像で確認していたのですが、どうもそのような稜線をもつひとかたまりの山はなさそうなのです。ちょうど九度山の慈尊院から登っていく町石道のある稜線で、歩いて登る人にとっては馴染みのコースです。私は一度も歩いて登ったことがありませんが・・・
それを確かめるために、登ろうとまでは今のところ思っていませんで、事務所に行く道を少し遠回りすると、違う角度から眺めることが出来るので、今日は大回りして別の角度から見上げてみました。すると3つのたんこぶ形状ではなく、最も高い部分は後方の山でした。町石道はその部分では上り下りがなく割合平坦になっているのです。それを鉄塔の立つ位置との関係で確認したら、「二ツ鳥居」のそばで、その周辺には飛び出たような山頂はないので、間違いないと思ったのです。この二ツ鳥居は行ったことがあり、近くにそのような山頂がなかったように思います。
まどろっこしい話しですが、日々の高野周辺の山岳景観は、毎日見ても飽きません。対岸の和泉山系の景観については研究者の論文がありますが、高野については寡聞にして知りません。このブログで少しずつ書いてみたくなりつつあります。
さて前置きはそのくらいにして、本日のテーマに入りたいと思います。今日はみどりの日ですね。それで毎日朝刊は安倍首相の「自衛隊9条明記」という見出しでビデオメッセージを詳細に検討する一方、<緑のマチュピチュ 愛媛・別子>を取り上げています。前者は昨夜のプレミアムニュースで石破氏の痛烈なコメントがわかりやすく、また共産党の小池氏発言も興味深い取り上げ方でしたが、今後も続く議論でしょうから、この件はまた別の機会にします。
東洋のマチュピチュとも言われている別子銅山跡地は、私も子どもを連れて行ったことがあります。たしかに毎日掲載の写真であるように見事な緑豊かな山で、ここが鉱山開発されていたところとは到底思えないほど、感動しました。
というのは、四半世紀くらい前でしたか、足尾銅山にも林野庁の案内で、植林による再生事業を行っている最中の状況を見ましたが、禿げ山が全山に広がり、植林による再生が容易でないことを痛感したものでした。
少し足尾銅山に触れると、修習生のとき、何人かで田中正造の本を輪読して、鉱毒被害の酷さや谷中村民のために孤軍奮闘し、人権保護の先駆け的な活動に感銘を受けていました。また、東京弁護士会の広報を担当していた頃、弁護士会館の記録を残すため専門業者にビデオ作成を依頼しましたが、私が図らずも中学生だったか子役の子を相手に会館の中を紹介する役を演じたのですが、弁護士会の活動として取り上げたと言えば、会長室にあった額縁に入った感謝状でした。それは花井卓蔵、三好退蔵をはじめとする東京弁護士会の多くの弁護士が、足尾鉱毒事件の被害者のために活動したことに対するものでした。そのとき初めて、田中正造だけでなく、明治時代の弁護士も人権保護のために活動したことを知ったのです。
こういった余計な話しは次々に出てきそうなので、この程度にして、足尾銅山の場合、下流の農民などに死者も多数でるような鉱毒被害を発生させ、その解決が長期にわたり、しかも銅山閉鎖後も禿げ山状態の回復が容易でない状況にありますが、事業者が違うと異なる結果となり得たという事例が別子銅山です。
別子銅山も、吉野川の上流、銅山川と呼ばれる場所で、江戸時代から鉱山開発が続いていて、当然ながら鉱毒被害が出ていました。足尾鉱毒事件が起きた頃、精錬工場から排出される煙害による農作物の被害が出て、拠点の新居浜分店が操業停止を求める農民らに襲撃されるに到ったのです。時の鉱業所支配人、伊庭貞剛は「住友家の家名を汚すようなことがあ ってはならない」と足尾の二の舞を避けるべく、瀬戸内海の無人島への精錬所移転を計画し、実行します。前年ながら煙害は拡散して、被害は残りましたが、伊庭の誠実な対応により、排ガス浄化やSO2中和装置などにより、大幅に煙害を少なくし、被害補償も尽くしています。他方で、移転した後の別子銅山は、すぐに植林を開始し、現在の住友林業の基礎ともなっています。
この事業者としての心構えは、伊庭の叔父、広瀬宰平が住友家の初代総理事として、旧来の銅山開発を、20年かけて西欧技術を導入して近代化を果たしつつ企業と経営の分離および企業と地域の共生の文化を確立し、甥である伊庭貞剛は2代目総理事として、公害問題を被害補償といった安易な解決でなく、公害の回避・減少・最小化という根本的な解決策を導くとともに、鉱山開発が破壊された自然を再生する事業をも同時に行った、先駆的な事業を行ったといえるのでしょう。
以上は、NHK番組で、以前、「百年の計、我にあり(別子銅山) 広瀬宰平・伊庭貞剛物語」といった趣旨のタイトルで放映されたときの記憶も半分取り入れながら、書いています。むろん、そう簡単に足尾鉱毒事件と別子銅山の再生を比較することは問題もあるでしょう。しかし、現在の別子銅山跡地はまさに東洋のマチュピチュといってもいいほど見事な近代化遺産であり、また、自然再生の見本でもあると思うのです。それに対し、足尾銅山跡地はまだまだ復活にはほど遠い状況です。これはやはり事業者たる者の心構えにも大きな要因があったといえるのではないでしょうか。
なお、<足尾鉱毒事件と明治時代の鉱害-足尾、別子、日立鉱山の比較・・・>はたまたまウェブ上で見つけたものですが、うまく整理されていると思います。参考までに。
また、別子銅山の歴史、実態などは<日本の近代化遺産(5) ---- 日本の銅山史を訪ねる・・・>が画像付きで丁寧に書かれていますので、まるでそこにいるような感じにさせてくれます。
今日はこの辺で終わりとします。