たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

子どもと家庭 <論点 シリーズ憲法70年 家族と国を考える>などを読んで

2017-05-05 | 家族・親子

170505 子どもと家庭 <論点 シリーズ憲法70年 家族と国を考える>などを読んで

 

どうやら高齢者現象でしょうか。漆黒の音のない世界で目覚めます。とはいえ、いま毎日朝刊で連載中の浅田次郎作「おもかげ」の主人公のように突然倒れて意識を失った状態で、無意識下の精神活動でさまざまな「黄泉の世界」らしき人たちとの出会いをするほどではないので、日々忙しく活動していますが。

 

野鳥たちも早暁の明るみを感じる頃から最初は小さな消え入るような鳴き声から、次第に大きな声で元気よく歌い上げるようになるまで、さまざまな声が行き交います。

 

この分譲地も高齢者が多く、孫と同居する世帯はわずかなような感じです。子どもたちが元気な声でなにかを語り合いながら集団で歩いているのは子どもらしい甲高い声で、ほのぼのしく感じます。近くの小学校へ別の集落から通っている子どもたちです。でもこどもの日を含めゴールデンウィークの連休中は、そういった賑やかな子どもたちの声も聞こえず、静かな佇まいでひっそりとしているのが高齢者中心の分譲地の有り様でしょうか。

 

さて今日は「こどもの日」ということで、関連するようなテーマを取り上げてみたいと思います。

 

毎日朝刊<論点シリーズ憲法70年 家族と国を考える>は、<自民党が今国会への提出を目指す家庭教育支援法案は「国や自治体が家庭教育支援に責任を負う」としており>、憲法24条の規定に抵触するとの立場から、<家庭への公権力の介入を懸念する声も出ている。>として、双方の意見を採り上げています。

 

<上野通子・自民党家庭教育支援法案プロジェクトチーム事務局長(参院議員)>がこの法案の必要性を訴える中で、まず親の問題と環境変化を指摘しています。

 

<かつては祖父母や親戚を含む大家族や地域社会の中で子育てができたが、今はひとり親家庭の増加、子どもの貧困、児童虐待が社会問題となり、物事の善悪を判断して子どもに教えることができない親が増えている。>

 

この「かつての・・大家族」というのは、いつのことでしょう。戦前、家制度を確立させる過程で形成されたかもしれませんが、それは江戸時代以前には庶民の中ではほとんどなかったのではないかと思っています。地域共同体的な存在が強力に秩序維持を担っていたと思われますが、それは江戸時代に生産と生活が一体となって地域共同体といったものが確立していたことではないかと思います。それも現在の大字程度の小さな単位、今で言えば分譲地くらいがひとまとまりだったのだと思います。

 

そういう社会生活・家庭生活の秩序維持を担っていた、ムラといった地域共同体は、近代化の大きな流れの中、農漁村などを除き、ほとんどの社会で生活と職場が分離され、人工的に作られた自治会・町内会などの組織では容易に対応できなってきたと思います。

 

その意味では、自民党の懸念も少しは理解できます。もう一つ指摘されている点は驚きます。

 

<党の食育調査会で貧困状態の子どもに地域で食事を提供する「子ども食堂」を視察した際、「いただきます」とあいさつできなかったり、箸を持てなかったりする子どもがいて、危機感を持った。>というのです。どういった危機感でしょうかね。

 

そしてこの事実から、<道徳やモラルを学校教育に取り入れる必要があると考え、道徳の教科化にも取り組んできたが、親や保護者から学ぶべき最低限の生活習慣まで学校で教えることには違和感がある。>そこで、学校教育とは別に、家庭教育支援という形で国が介入することを是認するようです。

 

その内容の中には子どもへの虐待の問題に触れ次のように述べる部分があります。

 

<自分からSOSを発信できず、孤立している親への支援だ。児童虐待問題では児童相談所や警察が家庭に踏み込めない問題が指摘されているが、訪問型の家庭教育支援によって虐待を発見し、加害者となった親の「学び」を支援することで問題を解決することが期待される。>加えて、<貧困による教育格差を心配する保護者に対しては、家庭学習のやり方に関する情報提供などの支援が必要だ。図書館を活用した読書・学習機会の提供や、高校中退者の進学・就労支援と合わせて、保護者の教育力向上につなげたい。>と、いずれもそれぞれ社会的に必要性のある支援策ともいえます。

 

しかし、上記の危機感を抱いたこととどう関係するのか、その危機状態というものをどう改善するかといったこととは直接関係のない議論になっているように思えます。

 

基本的な考えは、そのような支援策の前に、述べている部分こそ支援策の本質ではないかと思われるのです。

 

<子育て支援と家庭教育支援は車の両輪だ。子育て支援は、虐待やいじめから子どもを守る施策など、子どもに対する支援が中心だ。一方、家庭教育支援は、子どもにしつけなどの教育を施す親や保護者を支援するものだ。子どもが抱える問題は、子育てができず虐待してしまう▽いじめに気付かない▽不登校の子どもに向き合えない--という「親としての学びと知識の欠如」と表裏一体だからだ。>

 

この子育て支援と家庭教育支援は車の両輪という考え方こそ、問われるべき問題かと思います。<家庭教育支援は、子どもにしつけなどの教育を施す親や保護者を支援するものだ。>これが<子どもが抱える問題は、子育てができず虐待してしまう▽いじめに気付かない▽不登校の子どもに向き合えない--という「親としての学びと知識の欠如」>という結論は安直すぎますし、飛躍がありすぎます。虐待、いじめ、不登校という子どもの悩みを、「親としての学びと知識の欠如」と短絡的な帰結を持ち出すことこそ問題の本質を理解せず、問題解決を曖昧にする、現在の教育行政(教育委員会を含め全体として)の問題を糊塗することにはならないでしょうか。

 

参考に、<24条変えさせないキャンペーン>で掲載されている自民党の<家庭教育支援法案(仮称)」未定稿(20161020日)>を見ましたが、なにをどう支援するのか明らかでなく、親を含めさまざまな責務を掲げて張り子の虎のような内容です。ただ、行政なり実務ではこの内容が曖昧なものを政治的に利用して、「森友学園問題」で昭恵夫人が涙したという子どもたちのしつけが家庭教育支援という名目でどのように具現化されるか懸念されます。

 

中里見博・大阪電気通信大教授は、これに対し、<教育支援という名の権力介入」と批判します。そして<ベアテ・シロタ・ゴードンさんが起草した24条>をとくに意義あるものとしてとりあげ、<日本の家族の中では女性と子どもが不幸を背負っていると観察した彼女は「個人の尊厳」「両性の本質的平等」を規定し、家制度を完全に否定した。>として、戦前の「家」が国家によって構築された<天皇主権の軍国主義体制を社会の隅々まで行き渡らせるための公の装置だった。>と指摘し、憲法24条は国家の家庭への介入を断固阻止するために、個人の尊厳と両性の平等により家庭が築かれるものとしているともいえるのでしょう。だからこそ、国家が教育支援といった名目で家庭に介入することは24条に抵触する疑いがあるとの立場でしょう。

 

私自身は、中里氏に近い立場ですが、ベアテ・シロタ・ゴードンさんが見聞した日本における女性蔑視の側面には若干ですが違和感があります。とはいえ、24条は不朽の名作といってよいほど、素晴らしい内容です。実態はとてもそうなっていませんが。

 

子どものしつけ、家庭のあり方は、国家が関与すべきではないと思います。むろん恵まれない家庭や一人親、親の一人あるいは二人とも移民ないし外国人など、それぞれの困難な条件に対して、支援する必要性は喫緊の課題でしょう。

 

私は親のあり方こそ、地域力を強め、地域の中で育てていくものではないかと思うのです。むろんそれぞれの家庭の独立こそが基本ですが。地域という生活場面での地理的共通性だけでは、地域力が高まらないかもしれません。スマホなどさまざまな情報交換装置がある中、そういった情報システムを通じての地域力を培うことも重要かもしれません。

 

子どもの日、多くはどこかのエンターテインメント施設に出かけるなど家族で外出し、地域の中で子どもたちが遊ぶ風景は見ることが少なくなったように思います。私の子ども時代と同じ環境はもう戻ってこないでしょう。新たな環境にあった、家族づくり、親と子の関係を見いだすのは、それぞれの家庭が、親が子とともに考えていくのが基本でしょう。

 

そして「しつけ」というものも、その時代、社会の変容によって影響を受けながら、家庭、それぞれが自ら考え、他を意識しつつ、見いだしていくことこそ、本来的ではないでしょうか。儒教的な慣習が絶対視されることこそ危険ではないかと思うのです。

 

今日はこれでおしまいです。