たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

寺・僧侶の今様 <「梅旧院」脱税 納骨堂担保に多額融資><京都和婚>などを見てふと思う

2017-11-01 | 公共事業と多様な価値

171101 寺・僧侶の今様 <「梅旧院」脱税 納骨堂担保に多額融資><京都和婚>などを見てふと思う

 

数日前でしたか、ニュースで京都のお寺さんで最近広がりつつあるは結婚式場・お泊まり付きが話題になっていました。しかも著名なお寺で、本堂はもちろん、宿泊する部屋も風格ある庭に面しているということで、これはなかなかのものでした。

 

私が京都の滞在していた時代、東山山麓に住んでいましたので、詩仙堂は散歩コースでした。その見事な庭園を前にして一時を過ごすのがなによりも代えがたいものでした。観光客が少ない時を選んでいくこともできましたので、ほぼ一人で対峙することもできました。

 

そういった庭園のあるお寺はかなりありますが、たいてい人が多かったり、あるいはそれを嫌って閉ざしていますね。

 

それが自分たちだけの部屋として提供されるのですから、それは信仰心が薄くても、最高の一時を味わえるのではないでしょうか。都心の最高級ホテルでは、いくら豪華な部屋の作りであっても、庭が立派でも、自分たちの部屋とかけ離れた空間でしょうから、高価な割には、日本的情緒を心から味わうのは容易でないでしょう。ま、若い方はそんな日本情緒よりも豪華さにあこがれる方が多いかもしれないので、それはそれでバランスがとれているのかもしれません。

 

ただ、お寺や僧侶が葬式仏教とけなされ、まるで死者をのみ取り扱うというか、そういった場所といつしか固定観念ができあがってきたようにも思えます。京都や奈良、あるいは鎌倉のお寺のように、観光名所として著名な場合は入場料などをとっても多くの人が訪れますが、普通のお寺だとむずかしいでしょうね。

 

この和婚の場合も含め、お寺をさまざまな現代の檜舞台的に使う考え方は、斬新な感じもしますが、本来、お寺は多様性があってしかるべきではないかと思います。その意味で、こういった取り組みは賛成したいですね。

 

ちょっとウェブサイトをみると、<京都和婚>とか<あこがれの京都で結婚!挙式OKな歴史的建造物・寺社仏閣まとめ>とか、いやいや各地でも類似の企画があるようです。お寺・僧侶の多様性、現代的意義を見いだす取り組みかと思います。ただ、結婚式を派手に多額の費用をかけるということ自体は、そろそろ地球環境を考えて見直してみてはとは思います。

 

次いで言うと、教会での結婚式は以前からわが国でも利用される方がいたかと思いますが、ついマルチン・ルターによる宗教改革を思い出します。キリスト教の信仰において教会が必要かという本質的な問題を投じて、プロテスタントを生み出す発端になったと言われていますね。私自身は半世紀近く前にそういったことを少し勉強したように思うのですが、いつの間にかルターの名前も忘れていたら、先月の毎日新聞の企画で500年記念を祝う連載があり、つい思い出しました。

 

と、なにか脈略もなく前置きが長くなりましたが、資源・人材があれば、お寺・僧侶も現代の無宗教時代?の中で、生き抜くことができますが、今朝の毎日記事<「梅旧院」脱税納骨堂担保に多額融資 逮捕の社長、宗教法人に>はなんとも悲惨な例ではないかと思ったのです。

 

都心では墓不足です。信仰心があまりなくても、死んだら墓に入る、その墓を求めるのも執着でしょうか。いずれにしても普通の墓は高額です。それに変わるものとして納骨堂、しかもマンション型の納骨堂ビジネスは一つの解決策として増大しているようです。

 

でもお寺・僧侶にはそのような経営の才覚は持ち合わせていないのが普通です。本来、そうあってはならないでしょう。法然、親鸞、日蓮、一遍、栄西、道元と宗教改革ともいうべき宗教の大衆化を担った宗祖は、おそらく一度も経営的な事業を行おうとしたことがなかったのではと思うのです。ま、庇護者がいたことは確かですが。

 

普通の僧侶・住職は、やはり生活をしていかないといけない。土地も資産も、檀家もないか、乏しい。となると、石材店や経営コンサルタントといった人に頼ってしまうのでしょうか。

 

でも悲しいですね。お寺にとって基本財産ともいうべき納骨堂を担保にして融資を受け、しかも最後には5億円もとなると、にっちもさっちもならないでしょうね。首根っこを融資した脱税業者に握られてしまうことになるのでしょう。

 

ここに80年代から、いやそれ以前からかもしれませんが、宗教法人の運営管理の深刻な問題がいつまでも解決されずに残っている原因があるように思うのです。90年代に当時の厚生省が法改正を検討していましたが、結局、些末な改正にとどまり、いまなお問題をかかえています。

 

それでも今回のような問題も、行政が監督をしっかりしていれば、実質的なオーナーが跋扈するような事態にはならなかったと思うのです。納骨堂を担保に借り入れを行うことは

 

宗教法人法はその点の配慮はしています。

(財産処分等の公告)

第二十三条 宗教法人(宗教団体を包括する宗教法人を除く。)は、左に掲げる行為をしようとするときは、規則で定めるところ(規則に別段の定がないときは、第十九条の規定)による外、その行為の少くとも一月前に、信者その他の利害関係人に対し、その行為の要旨を示してその旨を公告しなければならない。

一 不動産又は財産目録に掲げる宝物を処分し、又は担保に供すること。(一部省略)

 

(行為の無効)

第二十四条 宗教法人の境内建物若しくは境内地である不動産又は財産目録に掲げる宝物について、前条の規定に違反してした行為は、無効とする。(一部省略)

 

今回のような担保提供は公告しないといけませんし、していないと無効になります。また、所轄官庁に藻財産目録を提出しておく必要があります。

 

ところが所轄官庁は、お寺について、信仰の自由という憲法上の保障があることや、戦前の弾圧の反省もあってか、どちらかというと控えめです。むろん消費者被害が発生するような場合は動くでしょうが、この担保提供だけだと、内部問題ともいえるので、檀家でも問題にしないと、わからないのが実態でしょう。

 

はたして現在の墓地埋葬法において、墓地経営主体を自治体ないしは宗教法人としていることが、今後も成り立ちうるのか、検証し見直しを検討する機会がきているように思うのです。

 

資料整理の仕事が長引き、ブログを書く元気がなかったこともあり、少々疲れてしまいましたので、今日はこの程度でおしまいです。

 


人と触れあう <認知症対応とユマニチュードへの期待>

2017-11-01 | 心のやすらぎ・豊かさ

171101 人と触れあう <認知症対応とユマニチュードへの期待>

 

昨夜NHKBS1だったと思いますが、認知症の将来と今後を取り上げる中で、「ユマニチュード」が行われ、劇的な変化が見られました。

 

残念ながら、この番組をきちんと見ていないかったので、内容把握が正確でないと思い、NHKの番組を探しましたが見つかりませんでした。

 

それでウェブ情報を参考に少しだけ取り上げます。

 

誰もが学べ、実践できるユマニチュード。5つのステップで患者の心に近づく>では、この開発実践を行っているフランス人・ジネストさんがその由来、コンセプト、システムを話しています。

 

<、『生きているものは動く。動くものは生きる』という思想があります。ですから、この世界に入ったとき、大変なカルチャーショックを受けたのです。例えば、ベッド上で行われている清拭や、ケアを目的とした拘束などといった“不動”は、人の健康を退化させるのに、と」

 

その信念はまさに人間本来のあり方を追求するものです。<ユマニチュードの特徴は、「最期の日まで人間らしい存在であり続けることを支える」という哲学と、それに基づいたテクニックにある。「新たなメソッドを確立できたのは、既成概念のないまっさらな状態で発想してきたから。そして、先立つ理論があったわけではなく、多くの失敗を経た現場の経験から生まれたメソッドだからこそ実践的なのです」とジネストさんは語る。>

 

言葉の壁、文化の壁が日仏で大きいのではないかと不安があるはずですが、<、「日本にやって来て実際にケアをしてみると、自分の手を握ってくれる人、キスを返してくれる人は大変多く、日本でもユマニチュードは有効だと思えました。>私がNHK番組でその実際を見て、そのとおりと思いました。

 

その方法はよりシステマテックです。<ユマニチュードでは、前述した〈見る〉〈話す〉〈触れる〉〈立つ〉といった要素をバラバラに実践するのではなく、“話しかけながら相手に触れる”といったように、常に2つ以上の要素を組み合わせて行い、さらにケアの全てを「心をつかむ5つのステップ」という一連のシークエンス(一続きのもの)のもとに行っていく。>

 

このことを本田氏が解説して<「5つのステップは、①出会いの準備、②ケアの準備、③知覚の連結、④感情の固定、⑤再会の約束、から構成されます。5つの段階のなかで、清拭などのいわゆるケアを実施するのは3番目のステップで、その前には、自分の存在を知らせる〈出会いの準備〉をし、ケアの後には、『きれいになって気持ちよかったですね』と語りかけるなどポジティブな感情を伝え、次回へとつなげる締めくくりをするのです>というのです。

 

さらに具体的なケアの場面での具体化を展開しています。<ケアの場面においてはどうでしょうか。私たちは、ドアをノックすることはあっても、相手の反応を待たずに布団をはがし、入室した数秒後にはおむつに手をかけてしまっていることはないでしょうか。これでは、コミュニケーションにおける重要な手順である①②をとばして、いきなり③のケア行為に入ってしまっています。>

 

で、私が昨夜のNHK番組で見たのは、ジネストさんが患者ないしは利用者に具体的に行う内容です。ある意味とても自然で、柔らかい対応です。まるで赤ん坊に接するような。

 

ジネストさんに会う前は、怒りっぽく、数人の同種の方がテーブルを囲んでいるのに、その人たちを無視して、一人大声で怒っているのです。その険悪な表情は人を寄せ付けないものでした。

 

ところがジネストさんが、車椅子の彼女の前に膝をついて座り、目を直視し、語りかけながら、体に触れるのです。すると彼女の表情が怒りがなくなり打ち解けたリラックスしたように変化が見られました。さらに立ちましょうとジネストさんが言うと、なんと彼女は立ち上がろうとするのです。支えながらでも立ち上がりました。それを見て、いつも介護している方でしょう、泣き崩れました。うれしかったと思います。

 

それは彼女だけでなく、ジネストさんが試みるユマニチュードは、多くの人に効果が現れていました。

 

それまでベッドで寝たきりの方に、体位変換などを行うとき、安全に行うことが注意されますが、最初に声かけをしてもすべての作業は黙って行うのが普通だと思います。ところが時ネストさんは、足を上げる、体のどこに触れる、など一つ一つの動作について前もって言葉をかけるのです。まさに人に対する接し方、触れあい方ではないかと思うのです。

 

むろん終わった後も声かけをするのですが、患者の表情が一変します。そして立ち上がりましょうというと、無理にでも立ち上がろうとするのです。その方はその後、自宅に帰り、簡単な歩行訓練サポート器具をつかって、すでにある程度の歩行ができる状態になっています。なによりもその表情がすてきです。

 

ジネストさんの方法は唯一絶対ではないと思います。でも人と接する介護のあり方として、あるいは認知症予備軍の方、すでに認知症初期の方、さらに悪化している方、それぞれに応じて、本来あるべき対応の軸を示しているように思うのです。

 

多くの方は、家族の中に認知症の症状のようなものが見られても気づかなかったり、悪化して突然徘徊したり、怒りを発散したり、すぐに忘れてしまったり、あるいは家族の識別ができなくなったり、発語がなくなったりすると、どうしようもない、とあきらめて本来の人としての対処を少しずつ失ってしまっていないでしょうか。

 

少しでも変化に気づいたら、いや気づく前でも、ユマニチュードを理解してその中で、症状に応じて利用できるものはそのまま、あるいは応用して実践してみることで、人間関係がうまくいったり、さらに認知症状の発現が遅れることが期待できるのではないかと思うのです。

 

認知症状は、発症まで四半世紀かかると言われています。アスベストは長いと半世紀の場合もあるようですが、それに比べればより短いと思いますが、いずれにしても長期間かけて潜在的な、いわば時限爆弾を抱えているのですから、それはだれもが直面する課題で、まさに死に匹敵するくらい確実性が高いものです。

 

それへの対処は、ある意味、以前、触れた五木寛之氏の「玄冬の門」のごとく、生まれる段階と、死ぬ段階とほぼ同じ状態を前提に、対処するという自覚があっても良いのかもしれません。

 

赤ん坊がいくら泣き叫んでも不機嫌でも、文句を言う人はいないでしょう。言葉を発せられないことも当然、歩けないのも当然です。でもだれもがいかに優しく接して触れあい、その笑顔を求めるのではないかと思うのです。私もユマニチュードのメソッドや精神を学んでみたいと思うようになりました。

 

と同時に、わが国の各自治体が、それぞれ競って、こういうシステムを導入する方向で舵を切ることを競い合うことができないか、そういう自治体の出現を期待しています。わが町は、高齢者が健康で、認知症の方も笑顔で歩いていることを標榜するようなそんな町を・・

 

なお、ウィキペデアでは、<ユマニチュード(仏: Humanitude)>について、<包括的ケアメソッドのひとつ[1]。ひろく用いられているが、特に高齢者と認知症[2]患者において有用とされている。ユマニチュードとはフランス語で「人間らしさ」の意[

ユマニチュードではまず評価を行う。

  1. 回復を目指す
  2. 機能を保つ(悪化しないようにする)
  3. 共にいる(そばに居て、穏やかに死を迎える)

といういずれの 段階にあるのか、評価する。

ケアの実施にあたっては

  1. 見つめること[2]
  2. 話しかけること[2]
  3. 触れること[2]
  4. 立つこと[2]