たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

病気と死への対処 <「幸せの中で死ねる」>を読みながら

2017-11-20 | 人の生と死、生き方

171120 病気と死への対処 <「幸せの中で死ねる」>を読みながら

 

最近になって、下腹部に痛みを感じています。こういう痛みは長く経験していなかったので、少し不安になります。昔、何度か強度の痛みなり、混濁なりの症状が続き、そういうときは死の影が思い気分にさせられたように思います。今回はさほどのものではないですが、多少は死を感じてしまいます。死はいつでも突然やってくるものと思っていても、よく考えれば、まだ死への旅立ちのための、「立つ鳥跡を濁さず」にはほど遠い状況にあることをつくづく感じてしまいます。

 

自分が死んだとき、残された者が困らないように、何をどうすれば良いかは一応、法的な側面や経験的なことで、わかっているつもりです。とはいえ、全部対処しておかないといけないかというと、ある意味ではどうでもいいことかとこの頃思うことがあります。わずかな遺産の処理なんてのはたいした話ではない(というと公正証書遺言の相談などではこれが中心なのですが、人は人と割り切っています)。葬儀や遺骨の処理もさほど気にするほどの事柄ではないというのは家族はわかっているでしょう。自然の死こそが本来といのも理解されていると思っています。ただ、状況によっては難しい判断を迫られる局面があるかもしれないとも思っています。

 

法律家が好きな議論の場合分けをしてそれに応じた対処といった想定は、具体的にはまだできていません。意識のあるうちは、そのときやればいいと思いつつ、判断能力に問題があったり、意識がはっきりしない状態だと、どうなるか、ここは事前に対処しておく必要を感じつつも、まだできていません。

 

それよりも物理的な問題として、手持ちの物件をどのように処理するか、いずれ仕事を退く時期がくるでしょうから、それまでに徐々にやれば良いとおもいつつも、一向に進んでいません。それが気になりました。

 

そういうとき今朝の毎日記事<週刊サラダぼうる・女の気持ちをたずねて北九州市小倉南区・高山ひろみさん>は、松田幸三記者が<「こんな幸せの中で僕は死んでいける。ありがたいな」>という夫に最後まで付き添った妻の話を取り上げているのを読み、幸せを感じることができる死は人それぞれながら、これこそ生きがいのある生き方だったのでしょうと思ってしまいます。その記事の一部を引用します。

 

<末期がんの夫を自宅でみとった。医療スタッフが毎日1時間来たが、残りは家族がみた。衰弱し、あちこちが痛いと訴える。やがて夫はお世話になった人を呼び、感謝のあいさつをした。最期は私が手を握り、65歳の人生を終えた。「お前と結婚して良かった。ありがとう」と言ってくれた。>

 

そして夫は、死に直面してすべて自分で決めていったと言います。

 

<葬儀で配られたあいさつ状「最後の日によせて」・・・を作り、葬儀場や弔辞を読む人もすべて自分で決めていました」>

 

<14年7月「治療の方法はなくなりました」と医師から告げられた。緩和病棟、ホスピス専門施設、自宅に帰る、の三つの選択肢を示された。「家に帰ります」。>と夫が迷わず選択。

 

自分の仕事を継続しながら、仕事の技術、継承を自ら行っています。<自宅の畳部屋で横になりながら、仕事が気になる。体調が良いと自宅に隣接する歯科技工所の従業員2人に技術を伝えた。得意先の歯科医院を従業員と回って自らの病状を語り「こいつが後継ぎです」と紹介した。>

 

葬儀場も自ら選び<「自由葬」と決めた。>というのです。

 

むろん尊厳死協会が推薦するような方法で、<「いっさいの延命治療をしないでください」とのリビングウイルも書いた。「モルヒネなど痛みをやわらげるケアはありがたくお受けします」と加えた。>

 

とはいえ自宅で終末期を過ごすと言うことは、家族の負担は大変です。<「夜もトレーナーとジーパンで夫の横に寝ていました」。「お母さん、トイレ」と言われるとおんぶして連れていく。湯船にも入れてあげた。「58キロあった体重は最後は33キロにまで落ち、おんぶも軽くなってきました」>

 

私の母も父の自宅でのみとり介護を2年間続け、顔形が変わってしまったことを思い出しました。もう30年前のことで、訪問看護というシステムもない頃ですから、今思うとよくやったなと自分の母ながら感心します。父は発語もできず意識もほぼない状態でしたので、心の通い合いは夫婦でないとわからないと思いました。

 

この夫婦の場合はその意味で幸せですね。<それでも自宅での二人の時間は貴重だった。「抱っこして寝てくれ」と頼まれ、そうしてあげた。「自宅でないとできないでしょう」とひろみさん。「あんたと結婚して良かったよ」との言葉は心に染みた。>やはり言葉を交わせるということは幸せを実感しやすいでしょう。

 

<「私が死んだときに教会の納骨堂に一緒に入れてもらうようにしています」とほほ笑んだ。>ということですから、遺体・遺骨の処理については妻に委ねたのでしょうか。

 

ところで、ここまで記事を長く引用したのは、これが現代の幸せな死のあり方の一つかと思いつつ、やはり別のあり方を考えてみたいと思うのです。

 

時折このブログの中で、私は空海や西行などの死の作法を取り上げてきたというか、願わくは・・のような気持ちを表してきました。

 

今日は寺林峻著『空海 高野開山』を引用しながら、空海がとった永遠の途を少しだけたどってみたいと思います。

 

嵯峨天皇の勅許を得て816年高野開山を果たした後、空海は2人の弟子に高野山道場の建立を委ねて、高野山を離れて都を中心に真言密教の確立に努めていました。そして830年に病気で体調を崩した頃、続く淳和天皇から求められた真言密教の経典・十住心論を完成させ、淳和天皇の理解を得て、ようやく832年春には高野山に再び登り、その開講を始めています。それ以降空海は、835321日まで2度の下山を除き、高野山でまるで自宅での終末期のみとりを自ら断行しています。現在の奥ノ院を流れる御殿川(おどかわ)のたもとに2坪の禅定の間を作らせています。そこで最後の言葉でしょうか次のような言葉を弟子に発しています。

 

<「どうか、みんなも喜んでほしい。わたしはようやくにして生死を自在にすることを得た。鳥にでも風にでも、行く雲にでも流れる水にでも、いつでもいのちを託すことができる」>と。

 

その空海は、穀断ちを、まず5穀、次に10穀、最後には水も断ちました。その過程の中で、東寺、金剛峯寺など主立った寺の継承者を決めています。また2度下山したうち一度は比叡山に出向き、最澄亡き後の叡山の盛況ぶりを弟子たちに見せています。また、もう一度は再三にわたり上京を求めた淳和天皇に、実慧による真言密教による宮中行事・後七日御修法を実施させています。

 

見事でですね。空海を手本とするといったことはありないことですが、こういう作法もあるのかと、常々感心しています。とはいえ、現代の死に直面する人々の困惑と落着はなにか欠けているのではないかと思うのです。より多様な考え方を議論する機会が増えることにより、より安らかに平穏に対処することができるのではないかと期待しています。

 

今日はこの辺でおしまい。