たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

ゴミと人の意識 <ドキュメント 東京ごみストーリー1~10>の連載を読み終えて

2017-11-17 | 廃棄物の考え方

171117 ゴミと人の意識 <ドキュメント 東京ごみストーリー1~10>の連載を読み終えて

 

私がゴミ問題を意識した最初は、ちょうど「東京ごみ戦争」と騒がれていた頃だったと思います。ただ、まだ当時は東京港の埋立処分場を訪れたこともなく、たまたま見るTVの画像などでカラスが乱舞する様子やそこに向かうゴミ収集車が立ち往生している状況を気にしつつも、あまり深く考えたこともなかったと思います。

 

その後京都で空き缶のポイ捨てが問題となり空き缶条例が話題になったことで多少意識するようになりましたが、まだ条例の有効性とか適法性とかのレベルであったかと思います。

 

そして私の意識を変えるきっかけは、関係者の法律相談を担当するようになり、そのときその施設の図書室で繰り返し読んだ、弾左衛門に関する文献をはじめ被差別問題に関する文献を目にしたことがきっかけではないかと思います。

 

内容はもう35年以上前ですので、おぼろげな記憶ですが、江戸をはじめ関東一帯の町中がとてもきれいにされていたのは、弾左衛門を中心とする被差別階級の人たちがしっかり清掃等を行っていたからだという趣旨であったかと思います。むろん儒教思想とか幕藩体制の中で秩序維持をするため生活上の規律がすみずみまで行き渡っていたことも、また村の秩序が自律的であったことも別の要素でしょう。

 

維新前後に訪れた異邦人が見た世相は、経済的には貧しくても身だしなみだけでなく町中や村中もゴミ一つ落ちていない清浄さが保たれていたからではないかと思います。

 

弾左衛門の文献を読んだとき、当時の現場作業の人たちだけでなく清掃局職員の多くが差別的な視線を浴びていたのように思います。収集にしても、運搬にしても、焼却施設、処分場、すべて現場で働く人は厳しい環境で仕事をしているのに、それを適正に評価されていなかったと改めて感じたのです。

 

その後東弁の公害環境委員会(当時はまだ公害消費者委員会でしたが)に参加し、たしかゴミ部会という名称だったと思いますが、そこで本格的にゴミ問題を勉強することになったのです。それから30年あまり経ち、東京都内の最終処分場や中間処理施設など多数を見学したり、各地で調査に参加してきましたが、まだまだゴミ問題の本質も理解できず、その解決の道筋もわからないまま、現在はいなかの当地でやっていることは生ゴミはすべてコンポストにして、燃えるゴミの排出減量に取り組みだけでしょうか。

 

この毎日の連載記事では東京都杉並清掃事務所が取材対象ですが、私が取り組んだ容器包装プラスチックの中間処理施設をめぐる公調委での原因裁定やその後の訴訟では杉並区が対象でしたので(いわゆる杉並病事件として長く話題になりました)、なんども訪れて日案リングさせてもらったりしたので、懐かしさと(むろん当時の担当者は退職しているでしょう)、この連載を通じて彼らの心意気を改めて感じさせてもらいました。

 

さてこの連載記事は成田有佳記者が10回にわたって、もっぱら一般廃棄物の収集という清掃事業のほんの一部ではありますが、重要な一部(住民にとっては最も関心の高い部分でしょう)を多面的に取り上げた力作ではないかと思います。成田記者は、もしかしたら杉並病事件を知らない世代かもしれませんが、その点を除けば、清掃事業の実態に迫るいい内容だと思います。

 

ここではその一端を適宜選択しながら取り上げてみたいと思います。まずは夢の島がスタートでしょうか。70年代初頭でしたか、ひどい悪臭などの埋め立て地で、とても「夢」の島とはいえない状況でした。北米やイギリスの埋め立て地を見学したことがありますが、こんなひどい埋め立て地はむろんありませんし、まして都心の一角にあったのですから、まさに公害日本の象徴でした。でも現在の夢の島はすばらしいですね。そして最近の外防最終処分場はメタンガスの臭いなどはあるものの、適正な管理が行われいるといってもよいかもしれません。

 

で、記事は、<ドキュメント東京ごみストーリー/1(その1) 「戦争」経て闘うマルサ>で、夢の島の公害抑制のために<都はごみを焼却処理する清掃工場の建設を各地で計画したが、杉並では住民が反対し、訴訟に発展した。怒った江東区民が「杉並のごみは持ち帰れ」とバリケードを築く騒動に--いわゆる「東京ごみ戦争」だ。>と東京都における杉並区の特異な性格を指摘します。

 

しかし、この試練は、杉並区の行政・住民の意識を高めたと思います。<40年余の時が流れた。杉並区は1人当たりのごみ排出量が23区で最少となり、「収集と福祉の融合」も実践する。>

 

ここから連載で紹介される清掃における現場職員がもつ、あるいはもちうる多様な価値・機能が紹介されるのです。

 

その重要な役割を担うのが「ふれあい指導班」人呼んで「ゴミのマルサ」です。<付近の住民から「ごみ出しのルールを守らない人がいて集積所が汚い」との苦情が入った。杉並清掃事務所「ふれあい指導班」の出番だ。

 彼らは、違反ごみの中から郵便物などを元に「排出者」を特定し、ルールを守るようお願いしに行く。人呼んで「ごみのマルサ」。>

 

私は、東京に居住していた頃、東京都内の分別がまだ3分別で、しかもいい加減な出し方をしているのを経験していましたから、収集担当者に分別についての調査・指導の権限を与える方向で条例を作る必要があると思ったぐらいです。それは当時ではあまりに過激でしょうから、よほど工夫しないと採用されることはなかったでしょう。しかし、このゴミのマルサ方式だと、穏便で、なかなか実践的でいいですね。東京以外でも採用しているところは結構あるかと思います。

 

ドキュメント東京ごみストーリー/3 祭り翌朝、悲しい便乗>は悲しいかな、東京ではありうるでしょうね。私は横須賀の分譲地に住んでいたことがあり、やはり自治会のお祭りでは、役員として祭り参加者が膨大なゴミを出すので、分別ゴミ袋を用意して、終了後に整理したりしていました。横須賀くらいですと、さほどひどい状態にはなりません。でも東京都になると人種のるつぼとまでいえませんが、少なくとも田舎者の無秩序な集合で、杉並区の落ち着いた環境でも駅前となると、無責任な不法投棄が便乗するのでしょう。

 

<壊れた扇風機やさびついたガスコンロ、スプリングがまる見えの椅子、使い古された長机がある。向こうに見えるゆがんだ木の枠は、元は窓枠だったか。隙間(すきま)を半透明の袋で埋め尽くし、ごみの山は大人の背丈ほどになっていた。

 人里離れた不法投棄の現場ではない。ここは東京都杉並区、1日の利用者が5万人を超えるJR高円寺駅前だ。>

 

このような問題の対応は、中国のような監視社会化でもしないと、東京都のような都会では簡単にいかないでしょうね。駅前など特定の多様な人が集まる場所に監視カメラを多数設置することで、多少は予防効果、その後に追跡指導することも許容範囲かもしれません。

 

ドキュメント東京ごみストーリー/4 ペットは家族、別れに涙>も切ないですね。現場の職員の方の苦労・配慮を感じさせられます。この点ペットだけでなく、孤独死の方の場合の火葬場の職員の苦労もうかがったことがありますが、一言では言い表せませんね。

 

<廃棄物処理法は、死んだ動物を「廃棄物」に区分している。ペットも野生動物も死んでしまえば「ごみ」となり、回収や処理は清掃事務所の仕事となる。保健所も引き取ったり捕獲したりするが、あくまで生きている動物が対象だ。動物の死体は鳥インフルエンザなどのウイルス感染や正体不明の病原菌が死因の恐れもある。作業には「細心の注意が必要」なのだ。>

 

命ある生き物、人はもちろん、動物も最後は冥福を祈る姿が人の心なのでしょう。<杉並区では3100円払えば、ペット葬祭の専門業者に委託して火葬するようにしている。飼い主のいない野生動物の場合は区が費用を負担する。>というのです。

 

次は<ドキュメント東京ごみストーリー/5 集積所設置、やまぬ相談>です。

ゴミ集積場をどこに設置するか、これは難問ですね。私も分譲地でその問題を担当したことがあり、その地区というか10戸くらいの世帯で解決できないと、別々にといことを認めていると、こんどは行政費用がその分かかるわけですね。しっかりした分譲地ですと、分譲時点で集積場となる場所の区画を少し低めの価格で設定して決めているかと思います。とはいえ、決まっていた分譲地でも新陳代謝が激しくなると、従来の決まりが通用しないこともありますね。上記の開発業者が決めているような場合、契約なり、協定書なりで定めていることもありますね。とはいえ、集積所の選定とか変更をめぐる裁判もあるわけで、こじれればなかなか苦労する問題です。

 

本来は<「集積所は、そこに住んでいる人々が決める住民主体が基本。それに基づいてわれわれ職員が収集します」>となっています。それが好意で置くのを許容しているような場合、突然、集積場廃止宣言をされるという非常事態になることになりかねません。

 

<廃止宣言のあった集積所も結局、数戸ずつの集積所に分散することになった。杉並区では近年、集積所の設置基準を事実上緩和しており、この4年間で5000カ所も増えた。

 ごみの集積所はその地域社会のありようを映す。「集積所が細分化されたら、ご近所さんと話をする機会も減るので、さびしいです」。>

 

といった、これまでの清掃事務のあり方については、そろそろ考え方を変えても良いのではないかと思うのです。その集積場が分散するコストアップを当該地区で負担させるなり、より効果的な策を提案する時期に来ているように思います。そうでないと、北米のように一戸ずつ収集するようなことにもなりかねません(すべてではないですが)。巨大ポリバケツを夜中に大型収集車が一戸一戸集めていくのです。

 

ドキュメント東京ごみストーリー/6 戸別収集、高齢者に笑顔>の記事は、いいですね。高齢者対策としても、行政コストとしてなんとかやれればと思うのです。担当者は大変でしょうけど。

 

その実態は<ふれあい指導班、人呼んで「ごみのマルサ」。日々の任務は、違反ごみの排出者を特定し、訪問指導するだけに終わらない。江川雅志所長(59)の「ごみを取るだけの時代ではない」の言葉通り、彼らは「福祉の実動部隊」の顔も持つ。マルサ班長の古川勝さん(49)たちは、佐藤さんの依頼にもとづき、照明にたまった虫の死骸を掃除するため訪れた。

 持参した脚立に班員が乗り、ぞうきんでカサを丁寧に拭き取ると、照明は元の明るさを取り戻した。5分足らずの作業。でも、足腰がめっきり弱くなった佐藤さんにはありがたい。「ああ、うれしい」。佐藤さんの笑顔に、マルサたちは「僕らならではの仕事」だと感じた。>

 

そのサービスがさらに進化していくのです。<ドキュメント東京ごみストーリー/7 異変を察知、命助けたい>では、命のセンサーであり臨時救命体ともいえる活動です。

 

<「私は生きる価値がない」と小さな体を更に小さくして涙した1人暮らしの女性。100歳を超えた親と80代の子の老老介護の家庭。孤立しがちな高齢者を見守る難しさを痛感した。

 だから、杉並清掃事務所長として清掃部門に戻ってきた15年、区の上層部に掛け合ったのは、清掃部門の全車両に自動体外式除細動器(AED)を搭載してもらうことだった。

 清掃部門は戸別収集を通じて「異変」を察知できる。倒れた人を見つけるなど緊急事態に出くわしたとき、最低限の人命救助ができれば、行政の見守り体制は厚みを増す。10年の体験から「ごみを取るだけではもったいない」との思いに駆られたためだった。>

 

最終回の今日は<ドキュメント東京ごみストーリー/10止 偏見を越えた「誇り」>です。

 

清掃職員に対する偏見は、以前はかなり強烈だったと思います。最近は表面的にはなくなりつつあると思いますが、それでもまだ残っていると思います。成田記者は次のようにその深刻な実情を記事にしています。

 

<人が生活する上で生み出されるごみは、臭くて汚い。そこに職業差別が生まれた。

 東京23区の収集作業員を都が一括採用していた時代。自宅から遠い勤務地に配属する慣習があった。近隣に職業を知られると、いわれのない差別や偏見に家族が巻き込まれるのではないか、子どもがいじめられるのではないか。そんな不安があった。家族にさえ仕事の内容を隠し続けた人がいた。事務職を装って背広姿で出勤し、定年を迎えた人がいた。>

 

でも私のようにゴミ問題を30年以上取り組んできた一人としては、ゴミの専門家は収集する担当者です。彼らこそ、分別の意義、内容を理解しているのですから、彼らによる適切な指導にしたがってゴミを分別排出する責務が一人一人にあると思うのです。こういうと自分たちは住民でサービスを受けるのが当たり前として、分別は行政の一方的な負担の強制ととらえる人もいるかもしれませんが、それは結局余分の行政負担をして適切な行政サービスに予算が回らないことになると思うのです。

 

彼らこそ環境行政の先端を走る人たちですし、そうなって欲しいと思うのです。そして高齢者を含む困っている住民に最も身近に、日々対面できる行政パースンでもあるわけで、自治体としては彼らの活動を誇りなるような仕組みを立ち上げて欲しいと思うのです。

 

記事は最後にある環境教育の場面を紹介しています。

 

<杉並区にある保育園に、車体の側面が透けて見える特別仕様のごみ収集車がやってきた。園児たちは目を輝かせた。

 降り立ったのは杉並清掃事務所ふれあい指導班、通称「ごみのマルサ」の12人。この日は子どもたちへの環境教育が任務だった。リサイクルをテーマにした紙芝居、ごみの分別や収集車への積み込み体験。班員たちは子どもの目の高さまでかがみ、笑顔で話しかけた。「僕らが楽しく振る舞わなきゃ伝わらない。おうちにこの話を持ち帰ってもらいたいですからね」。>

 

私たち大人と言われる人たちは、子や孫から、こういった教育を受けた知識を学び、清掃職員に対する意識を変えていく必要を感じています。

 

今日はこれでおしまい。