171108 大畑才蔵考その12 <西山・知野の紀ノ川灌漑論文>と<武井の水田激増>を交差させながら
今日は江戸時代の産業骨格であった農業の持続可能性というテーマについて、すでに簡単に紹介した西山孝樹・知野泰明著<紀の川上・中流域における近世中期以前の灌漑水利の変遷>と、武井弘一著『江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか』の2つの著作を参考にしながら、素描してみたいと思います。
前者を西山・知野論文として、後者を武井著作として、引用しながら、研究者の成果を私なりに「解読」(曲解かどうかはみなさんの見識に依拠します)してみようかと思います。
西山・知野論文は、工学的視点で、江戸時代の河川技術流派の一つ、紀州流とはなにかを追求しつつ、11世紀から18世紀にかけて紀ノ川の灌漑水利の変遷を整理し、ため池を中心とする南北系の用水化から、各支川を横断する東西系の用水化により大規模灌漑を成し遂げた経緯を図式化で明瞭にしています。
他方で、武井著作は、歴史学的アプローチで、土屋又三郎の『耕稼春秋』と田中兵隅の『民間省要』を中心に多数の文献資料を基に、前者では江戸初期の水田拡大期の農業を、後者では江戸中期の水田停滞期の農業を、それぞれ多角的な視点で鋭く考察しています。
さて今日は2時間程度の予定でこの豊富な資料を換骨奪胎とまではいかなくても、私なりの見方で整理してみたいと思います。粗雑きわまりないとすれば、各筆者の作品ではなく、あくまで私の捨象が問題ですので、疑問があれば上記作品に当たっていただきたい。
論述は、簡潔にするため、順序不同で、項目ごととりあえず書いてみて、後で整理する時間があれば、書いてみたいと思います。
まずいわゆる「紀州流」です。西山・知野論文は、明治以降長く議論されてきた関東流・紀州流の対立についての議論を総括して、「治水技術に関して“関東流"は,江戸時代を通じて用いられ,井沢の監白子する河川を直線状にし,場坊の強化・遊水地を除去する“細判流"の特徴は見られず, “紀州流"という枠組みで捉えるならば溜池築堤,用水路開削,湖沼の干拓などに於ける技術があったというものである.筆者らは,この評価に異論はないが,果たして井沢は江戸に於ける治水技術に影響を与えることは決してなかったのであろうか.先ほども述べたが,小出による“紀州綜'の評価は河)11の瀬替という発想を生み出す要素は全くないと述べている.」としつつ、実際に担った、大畑と井澤の足跡を図式化などして、問題の整理をしています。
その紀ノ川上流域から中流域の調査は、中世から近世、近世では応其上人から大畑によるかんがい事業がうまく整理されていて、筆者がその技術の承継を意図していることが示唆されます。中世・近世の灌漑内容は、相当数の図で示しており、労作だと思います。ぜひ上記ウェブ論文を当たって欲しいと思うのです。
そしてまとめとして筆者が指摘する「紀州流」の技術については、次のように治水技術と利水技術を整理すると、前者の技術自体がさほど確立されたものでなく、後者の技術が進化し、関東流に影響を与えたと評価しているかと思います。私もほぼ同意見です。
ではその治水技術についてはどうみているのでしょう。従来の考え方について、「当初,治水面での“紀州流"の特徴は,蛇行している河川を直線伏に直して固定し,沿岸の遊水地を本田にし,乱流するデルタに新田開発をできるようにすることで,乗越堤や二重堤を取り払って谷口から河口まち連続続堤につくりかえるというものであった」としています。その上で、「“紀州流"が井沢によって江戸にもたらされる享保7(1722)年までに本研究の対象地域である紀の川上・中流域の全川にわたって堤防を築堤し,河道を固定した様子はみられない.」として、桛田荘や荒川荘の研究成果を指摘しています。ただ、官省符荘など一部で部分的に堤防の築堤で河道を固定し、新田開発した点を取り上げています。
ただ、私がこの10年間近く紀ノ川沿いを橋本から和歌山まで走っていて、今なお堤防がすべてあるわけでなく、また直線化などといった構造はほとんど見られないことを体験してきた実感からいえば、上記指摘は明治以前の段階について、従前の紀州流解釈に尊敬の念を示した程度かなと思っています。
そして、筆者は<“紀州流"の治水技術の始まりは,「蛇行する河川を直線状にし,谷口から河口まで連続堤につくりかえて堤防の強化・遊水地を除去していく技術」ではなく「遊水地を残しながら,流路の一部を堤防によって固定し,河道と耕地を分離させることで新田開発を進めた技術」であったとも考えられる.>と総括しており、それが正鵠を射ているでしょう。亀ノ川の例を取り上げていますが、これは紀州流の本筋と言えるか疑問です。
次に利水技術については、中世から灌漑技術の発展と継承があり、近世初頭には応其上人がため池灌漑を中心に技術革新をすすめ、江戸中期には大畑が<が主導した小田井に代表される長距離用水路の開削では,サイホンや掛弁といった技術が用いられ,一様の飛隠があった.>と指摘しています。小河川を横断する用水路開発技術や、水盛台による測量技術などが紀州流の基本的な要素となっているのでしょうか。
そして、<そこで培われてきた用水路開削,通水技術,溜池築堤技術が江戸へもたらされ,図-1および図-2で示した二流派の圦樋の構造の差異を始めとする灌漑,利水技術について“紀州流"が“関東流"的手法に変化を与えたと考えられる.>とまとめられています。残念なのは関東流における上記技術との比較が具体のかんがい事業の中で示されていないので、この点はさらに展開を期待したいと思うのです。
と長々と最初の論文を引いてしまったので、もう一つのテーマ(今日の本論)に入る時間がわずかしか残されていません。
近世農業に関する多くの著作では、新田開発の拡大、米生産の飛躍的増大、それが人口増をまかない、経済的に安定した江戸政権の基礎となったかのような指摘がなされることが多いかと思います。まして用水があれば、水田が成立し、下肥や草肥による循環構造が成立し、持続可能な農業社会が成立していたといった議論が人口に膾炙する傾向もみられるように思います。
この点、武井著作は、農業生産の構造を、江戸初期の篤農家土屋又三郎の『耕稼春秋』を基礎にしつつ、見事にその限界を指摘しています。
だいたい、山というと、現在では杉山、檜山とか、楓山など、樹種を中心に表現することが多いのではないかと思うのですが、少し以前までは違っていました。山はまさに多様な生産要素として利用され、名称もたとえば、草山、柴山、篠山、薪山など無数の呼称がついていたかと思います。『耕稼春秋』の農業絵図では、奥山は別にして里山は裸同然で、さまざまに利用されていたことがわかります。「おじさんは柴刈りに」という図柄もあります。草肥を水田の肥料にする、刈敷も普通に絵図に描かれています。
用水を開削して、田んぼに水を入れても、肥料がなければ米はうまく育ちません。畑も同じです。生産可能な田畑をつくるには、用水だけでは足りません。肥料源となる山が必要です。こういった農作業の一面は『才蔵日記』にも丁寧に描かれています。
つまり、草や枝葉の調達を確保していないと、農業生産は用水だけでは限界があります。むろん干鰯などの金肥も代替可能ですが、それだけ農家に経済的余力がないと無理な話です。
そして大畑才蔵を中心に行われた紀ノ川沿いの大灌漑事業は、乾田に大量の用水を提供した点で、すばらしい業績をあげたと思いますが、肥料問題の対応をどうしたか、これははっきりしませんん。その他虫害もあります。
有吉佐和子の『助左衛門四代記』は、紀ノ川下流での庄屋の活躍と苦悩を見事に描いてた小説ですが、そこでも肥料である入会山野をめぐる紛争が激化する様子を的確に蘇らせています。
残念ながら、武井著作の描こうとした新田開発の光と影について、的確に取り上げる時間がありませんでした。次の機会に回したいと思います。
最後に一言。西山・知野論文は、才蔵の灌漑事業を工学的視点で研究され、武井著作は、これを金沢の土屋又三郎、川崎から関東を中心とする田中丘隅の視点を中心に多角的な視点で水田生産のあり方に迫っています。ただ、いずれも百姓としての生き様を示す、大畑才蔵のような近世百姓が自ら形成した近代市民像というものをとらえていない点に少し不満を感じるのは私の独断でしょうかね。
今日はこの辺でおしまい。