171127 自分が決めること <頭髪黒染め強要>と<型にはまらない生き方>と<愛なき夫と・・>を読みながら
今朝のわが家から見下ろす谷間景観は心安まる思いがしました。霧が深く降りてきて、ほとんど何も見えない。底の方に柿畑の実が最近取られたのがわかる程度ぼやっと見えるくらいです。当たり一面霧の世界。まるで長谷川等伯の「松林図屏風」のよう、というとオーバーですけど。でも以前、等伯の人生を綴る小説を読んだことがありますが、地方から出て大変な努力研鑽を積んで、斬新な画法を生み出した天才画家の一人でしょう。とりわけこの絵は私の好きな一つです。
そういえば、式子内親王の和歌は恋の歌も好まれますが、私は次のような認識できない対象を見事に活写して永遠の景観を歌い上げるようなのもあこがれます。
色々の花も紅葉もさもあらばあれ冬の夜ふかき松風の音
さてと、仕事をいろいろやっているうちに、いつの間にか業務終了時間となり、帰宅準備に入らないといけませんが、このブログを書かないと終われません。30分程度でなんとか書き上げたいと思います。
今朝の毎日の記事を3本取り上げようかと思います。実は日経ビジネスで記事になっていたヴァーチャルリアリティが面白いかと読んでみたのですが、今ひとつぴんとこず、ピーターや高橋源一郎氏の語りの方に魅力を感じたので、こちらにしました。
その二人を取り上げる前提に、いま話題の学校指導のあり方を扱っている<教育の窓「誰のための学校なのか」 頭髪黒染め強要>を少し紹介しておこうかと思います。すでに私の前のブログで取り上げているので、詳細は省きます。
ある生徒の事例を引用します。<埼玉県立高3年の女子生徒(17)は昨年11月の修学旅行前に突然、進路指導担当の教諭から頭髪を黒く染めるか、短く切ってくるよう指導された。頭髪はくり毛色に近い茶色だが、母親と同じく生まれつきで、髪染めや脱色をしたことも、ヘアアイロンをあてたこともない。入学時に頭髪の色を登録する制度があるため、髪の色について担任に相談した際にも「問題ない」と言われていた。
にもかかわらず、進路指導担当の教諭は「旅行先で他校とのトラブルを避けるためだ。風紀を乱しているので、このままでは修学旅行に参加させない」と言い、再三呼び出しを受けて指導された。最後まで拒否したため修学旅行には地毛のまま参加できたが、教諭らから常に行動を監視され、楽しめなかったという。>
なんとも情けない指導状況ですね。それは黒髪統一化といったレベルにとどまらず、あらゆる生徒の身なりから生活全般にわたって、風紀指導という名の下に、学校側が強制しているのですね。それが学校のカラーになる、評判になるということなのでしょう。情けないと思いませんか。
髪の形や色、化粧の有無、衣服から靴、それは軍隊や刑務所で行ってきたことと大きく変わらないのではないでしょうか。個人を尊重し、個人の豊かな感性を育てるのであれば、もっと異なるやり方があるのではないでしょうか。
こういうと風紀指導担当や校長・教頭から保護者多数も、猛反対があるかもしれません。いや、意外と惰性?でやっていて、あるいは横並び式にやっていて、それぞれ重荷になっているので、ようやく重荷がとれたと賛同してくれる方もいるかもしれませんね。ま、まだ少数派でしょうけど。
こういった学校による指導が、大学、さらに就職先で、ほんとに成長の糧となっていると思いますか。ある指導が有効かどうか、きちんとデータで示してもらいたいものです。データばかりを求めることでもないですが、少し考えればほんとそこまでやっていいのと、生徒個々の成長を思うなら、真剣に考えて欲しいと思うのです。
そんな形式的なことより、礼儀や作法ということを大事にするのであれば、そういう指導は別の内面に訴える方法で可能でしょう。また、コミュニケーション能力がひつようとされているとき、個性を殺し、自由な発想を外形から壊していくやり方が有効とは思えません。
この議論はこの程度にします。
<週刊サラダぼうる・MyWayわたしの生き方 型にはまらず自由に 俳優・ピーター(池畑慎之介)さん>の記事によれば、ピーターさんは、まさに自由奔放だった生き様を体現してきて、今後も一人生活を独自に開拓していくのでしょうね。でも実際は大変な軋轢の中で苦労したと思います。でも自分という個性をしっかりとらえ、その個性に忠実に生きてきたのでしょうね。父親が人間国宝とは知りませんでした。母親が寛容な方だったようで、やはり相対立する両親の性格を自分の中でうまく切り盛りして生きてこられたのでしょうか。
<私は一人です。家族は楽しいけどわずらわしくもある。一人なら楽です。寂しいと思ったことは一度もありません。両親の結婚は不幸でした。芸能をやりながら家族を持てば子供が寂しく傷つく。自分の子供に経験させたくないと、家庭を持たないことを決めました。>
すごい覚悟ですね。若い頃から時々TVで見ていましたが、やはり映画「乱」で変わったのでしょうね。黒澤監督の役者を育てる力でしょうか。
<よく「孤独死」と言われますが、一人で生きている人を孤独と決めつけるのは大間違いです。あえて一人でいたいと思っている人もいる。独居老人も、せいせいしているかもしれませんよ。楽しんでいる一人暮らしはいいんです。>
そう、自分の生き方を前向きにとらえることが大事でしょうね。
最後に<人生相談愛なき夫にどう向き合うか=回答者・高橋源一郎>です。この回答が私には少し意外でした。
相談は<・・その後、別の人と結婚し、子供もできましたが、愛のあるキスは今の夫とはしていません。夫は、私が持病で苦労して病院に行ったとき、車から降ろそうともしませんでした。他人からは、ご主人は良い人ですねといわれますが、私はどう思えばいいのですか。(69歳・女性)>というもの。
で源ちゃんの回答はというと、まず<ほんとうには好きではなかった、大切にしてもらえなかった人とどうすればいいのか。「そんな人とは別れなさい」と答えるのも間違いではありません。>といつものきっぱりとした割り切り方を予想していました。
ところが全然違いました。
< パートナーは、自分の鏡でもあるのです。あなたが、夫を不満をぶつけるだけの存在と考えるなら、同じものが返ってくるだけです。
慈しみの感情で接してあげてください。愚かで鈍感なのは、あなたの夫だけではありません。あなたも、わたしも、同じです。残りの時間を豊かなものにするために、ほんとうは同じように苦しんでいるかもしれない、その人に、ひとりの人間として手を差し伸べてください。>
慈悲ですね。仏の心。源さんも、やはり単純ではないですね。残された人生、愛がないから別れればいいと簡単にはいえないこともあります。むろん経済的な理由もあるでしょうけど、それ以上に、お互い、愛がなくても慈しみの心を自分の中で育てることができれば、意外と変わるかもしれないと期待する、のではなく、慈悲とは一方的な行いですね。無功徳ですね。高齢者の立場になると、そういう無功徳の思い、行いこそ大事になってくるように思うのです。難しいですけど、頑張ってみたいです。
私のような仕事をしていると、離婚の相談、というより決まっていて後は法的経済的対応を求めるばかりの人がほとんどです。それでも何度も何度も心の中では行ったり来たりする人もいます。法的解決なんてものは、ほんとの救いになるわけでなく、心はもっと奥深いところに幸いがあるのでしょう。
なんだか今日も趣旨不明の内容となりました。30分が過ぎました。今日はこれでおしまい。又明日。