たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

心に潜む偏見 <LGBT・・・性同一性障害の僧、大阪に駆け込み寺>を読みながら

2017-11-07 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

171107 心に潜む偏見 <LGBT・・・性同一性障害の僧、大阪に駆け込み寺>を読みながら

 

10年のあるとき、高野山大学で、仕事である僧侶とお会いしました。そのとき初めてその外観や言動を見て、一瞬戸惑いました。たしか男性のはずだが、この方はと困惑したのを記憶しています。

 

高野山にも尼僧がいます。むろん町中で見かける僧侶はほとんどが男性です。高野山大学には<高野山専修学院>があり、<数ある真言宗の修行道場の中でもとりわけ高い評価を受けている僧侶の養成機関です。毎年80名近い修行僧が集まり、1年間共同生活をしながら勉強や修行に励んでいます。>私もなんどか外から外観を見たことがありますが、道場らしい雰囲気を醸し出しています。その中に<尼僧部>があり、<高野山の尼僧(女性僧侶)の修行道場です。>とのこと。前者は僧侶の養成機関ですが、後者は尼僧がさらに修行する道場となっています。いずれにしてもそれ以外では、尼僧が高野山で活動する場は少ないように思います。

 

だらだらと僧侶と尼僧の話をしてしまいましたが、いずれも外観で識別できますね。そもそも仏教伝来は日本人では尼僧が最初に担ったことは有名ですね。で、なぜか高野山ではいつからか(空海がそうした?)女人禁制が維新まで続きましたね。

 

ともかく僧侶は、男性と女性で異なる寺(善光寺は例外)で、修行から一貫して異なる道を歩むことが前提にあるようですね。

 

私の心の深奥にも、そんな性差を根付けてしまっているように思うのです。それが冒頭の困惑に出たのでしょう。

 

その方が今日の毎日朝刊和歌山版で<LGBT「駆け込み寺」 終活相談や結婚式 性同一性障害・高野山の僧、大阪に計画>(ウェブ情報は10.28東京版)と篠崎眞理子記者が取り上げた僧侶でした。

 

記事によると、<性同一性障害の僧侶、柴谷宗叔(しばたにそうしゅく)さん(63)が、性的少数者(LGBTなど)のための寺「性善(しょうぜん)寺」を来年度中に大阪府寝屋川市に建立しようと準備を進めている。仏教の勉強のため、51歳で会社を辞めるまでカミングアウトできず、苦しんだ経験を持つ柴谷さん。子供を持たず、老後に不安を抱えることも少なくない性的少数者の「終活」相談など「LGBTの駆け込み寺」を目指す。>とのこと。

 

男性と女性の違いを外観で識別し、決めつけることの問題意識はあっても、現実に突然、意外な場所で直面したとき、自分の素質が曝露されますね。わたしの内心の困惑は、柴田氏は穏やかに迎えてくれましたので、事なきを得ました。

 

この記事によれば、柴田氏は51歳まで苦しみながら読売新聞記者として活動していたのですね。記者の場合も当時は(今でも?)ほとんど理解されていなかったのではないかと思います。記者クラブは編集部も含め、外に向かっては差別禁止や公正さ、開示を求めたりしますが、喫煙にしても男性優先にしても、内部のブラックな壁は厚かったのではと思います。

 

<遍路の途中、装束が男女とも同じことに気付いた。「男性を演じる必要、ないんじゃないか」。心がふっと軽くなった。>遍路は奥深いですね。「同行二人」自体、孤独と救済を的確にすくい取っているようなキーワードです。それに加えて男女同じの装束も、意味があるのでしょう。

 

<「女子トイレを使ってもいいですか?」。間もなく大学院の職員にカミングアウトした。人生初の経験。その後、僧侶となり、10年に性別適合手術を受け戸籍上の性別を女性に変更した。高野山真言宗も理解を示し、僧籍簿の性別変更も認められた。>

 

高野山真言宗も懐が深いですね。私のように高野山の内紛や各地での紛争を歴史的にフォローしていると、真の宗教的な意義が見えてこない面があります。柴田氏の脱皮というか、進化というか、今後の「駆け込み寺」にも期待したいと思います。

 

人は生きていく中で、さまざまな差別化を図る傾向を一方でもっていると思います。他方で、公正さ・平等を常に大切にしようという心を持ちながら、その相克の中で、自分なりの選択をしていくではないかと思うのです。聖徳太子は仏の前にはすべての人が平等といったとか。差別する心を憎むというか、そういう意識をいかに抑制して生きていけるか、私も後残された人生を少しは近づきたいと思っています。

 

そんな気持ちからつい、この記事を取り上げました。

 

今日はこの辺でおしまい。


地域を元気に楽しむ <フォトロゲイニング>と<大分の村八分是正勧告>を見聞して思うこと

2017-11-07 | 心のやすらぎ・豊かさ

171107 地域を元気に楽しむ <フォトロゲイニング>と<大分の村八分是正勧告>を見聞して思うこと

 

今朝、アメリカ・テキサスで再び起こった銃乱射事件の報道を少しフォローしましたが、信仰深い義母と激しい口論をしていたといった断片的情報だけで、なぜ義母通っていた(その日はいなかった)教会で無差別に乱射して26人も死亡させたか、よくわかりません。CNNなどのニュースは見ていませんが。

 

ところで、この殺戮場所、サザーランドスプリングは、ヒューストンからさほど離れていないところです。ヒューストンと言えば、ここを本拠にするヒューストン・アストロズがリーグ戦、WC戦の激戦を制し、見事なほどの優勝を飾ったのはわずか数日前の出来事。とりわけ私が注目したのは3番打者・ホセ・アルトゥーベ選手です。身長1m67cmしかない小柄で、2m前後の巨大なピッチャーから投じられる剛速球をものともせず、打ち返すのは刺激的でした。

 

でもその感激は、この乱射事件で吹っ飛びました。再びアメリカ社会が内包する地域社会や家族、個人の中にきわめて危険な亀裂、すぐにでもマグマが爆発しそうな状態にあるように感じてしまいました。アメリカ自体、地域コミュニティーがさほど形成されにくい風土を形成しているように思います。移民社会というだけでなく、mobile societyです。多くの人が次の新たな進展を求め、今住むところは一時的と考える傾向にあると思うのです。自宅に表札の代わりに通り名に続く番号という無機質なものが掲示されているだけです。そこには匿名の地域で、しかも一時的な社会を想定しているように思えるのです。むろん地域によっては違うのでこれがすべてに当てはまるわけではないことはもちろんです。

 

そして銃社会のアメリカでは、こういった乱射事件のおそれに対しては、銃規制の強化より、近隣が銃を持って対抗したから、被害の拡大が防げたという論調が本流として定着しており、地域は個人、個人が武装して自衛する中で、平和が保てるという社会づくりをしていることを感じます。そのアメリカと国際関係で共同することの危険は十分に認識しておいて良いでしょう。トランプ大統領を歓迎する政府・メディアの様相はある種リスクを伴っていると思っています。

 

もう一言、今朝のNHKでは、トランプ政権の移民規制により、シリコンバレーで高い成長力を誇っているICなど先端技術を支えている多様な移民の人たちが、カナダを含む移民に積極的な国への移動が少しずつ始まっています。移民先候補のトロントは昔から他民族社会として成立し、私も四半世紀前訪れましたが、まさに多種多様でした。ただ、冬期は平気でマイナス20以下になる激寒で、中間層以上は大抵フロリダにセカンドハウスをもっています。そんな厳しい気象条件のところに、シリコンバレーのような快適環境から移動できるかは一つ問題でしょう。裕福になれば、2つの居住地をもつのかも?

 

と長々と本題と直接関係のない、話題になりましたが、ある意味ではなにか通底するところがあるように思って、筆がそちらに向いてしまいました。

 

で、本題で取り上げる一つが、毎日記事<大分県弁護士会「村八分やめなさい」人権侵害の是正勧告>です。これは驚きでした。いまなお村八分が実施できるほど、村落共同体的なものが強固に残っているのかと。

 

ただ、この是正勧告がまだ弁護士会のホームページにアップしていないので、内容がよくわかりません。こういう重大な問題について、即時性が要求されることから、改善を求めたいと思いますね。業者任せと言ったことではすまされないでしょう。

 

ともかく尾形有菜記者の記事では<弁護士会によると、男性は母親の介護のため、2009年に関西からUターンしたが、11年ごろ、農地開拓の補助金の支払われ方に疑問を呈し住民とトラブルになった。母の死後の13年、集落は会議を開き男性を自治会の構成員に入れないと決定。その後、男性は豊作祈願などの行事の通達をしてもらえなかったり、市報が配布されなかったりしている。>で、<弁護士会によると、村八分に関する勧告は県内で3回目。>といのですから、再び驚きです。

 

上記記事からは、<農地開拓の補助金の支払われ方に疑問を呈し住民とトラブルになった。>ことを契機に、集落が上記決定をし、弁護士会の仲介があっても、<集落が「構成員として認めない」との態度をとり続けた>ということです。

 

私は見出しを見たときは、Iターンなどで、新規参入者が集落の共同作業とか、寄り合いを拒否して、自ら共同体への参加を拒む姿勢をとっているのかと思ったのですが(改正農地法の通達ではその当たりを配慮)、そうではなくどうも補助金問題がかかわるように思えます。

 

農林漁業に支払われる補助金が適正であるかは、これまで十分にチェックされてきたとは言いがたいと思います。都会生活をしていると、補助金事業に直接目に触れることはさほど多くないですが、地方では日常茶飯事です。それが適正でないような外観とか、疑いあるとき、問題提起すること自体がはばかれる雰囲気があるかもしれません。

 

政治家・行政・一次産業、それに建設土木業など、関連者が地域では顕在化しませんが、強いネットワークをつくっているように思えます。それが健全な地域社会を今後も作っていけるでしょうか。未来の子どもたちに継承されてきた地域の遺産を健全に引き継ぐことができるでしょうか。いま地域が試されているように思うのです。この記事だけで勝手な推論ができませんが、村八分という、ほぼ忘却の彼方に消え去ったと思える陰険で強靱な秩序がもしいまなお力をもっているとすると、これにしっかり対峙しないと、集落だけでなく、地域の環境は廃れていくばかりではないでしょうか。

 

話変わって、今朝のNHKおはよう日本で、「フォトロゲイニング」が紹介されていました。この公式サイトがあるので、その定義を引用すると<地図をもとに、時間内にチェックポイントを回り、得点を集めるスポーツです。チームごとに作戦を立て、チェックポイントでは見本と同じ写真を撮影します。チェックポイントに設定された数字がそのまま得点となり、より合計点の高いチームが上位です。>ということです。

 

NHKを見ていて、ちょっとオリエンテーリングを思い出しましたが、山の中ではなく、まち全体を対象にし、目標地点をまちの名所旧跡など注目すべき場所を選択しているところや、おおむね普通の道路を歩くことなどに相違点を感じましたが、なかなかいいアイデアと思いました。

 

こういった目標地点を選択する際、関係者は地域の歴史や風土・地形について学ぶことができ、参加者も地域をよく知るきっかけとなるように思います。

 

いま当地橋本では、前畑秀子を主人公にNHKドラマ化をはかる運動を行っていますが、それは「頑張れ」という標語や、20年オリンピックとの関係で、意義深いとは思います。

 

でも当地橋本のこととどう関係するか、そのコンセプトがよく見えてきません。単に前畑が生まれ、紀ノ川で水泳の鍛錬をして成長したというだけではないとは思いますが、それ以上の情報が伝わってきません。

 

地域ぐるみで新たな文化を発掘する、創造するという運動として、前畑がんばれを旗印に、たとえば、フォトロゲイニングなど多種多様な事業によって、がんばる住民活動につながらないと、地域共同体の新たな活気や総合力を生み出すことにつながらないと思うのです。

 

フォトロゲイニングも、単純に今ある名所旧跡などを対象とするのではなく、その価値を現代的に想像し、それぞれの拠点を結ぶラインにある種の意味合いを持たせるロード特性を生み出すことも必要ではないでしょうか。

 

ある種の起爆剤を投じれば、頑張る人はでてくるように思うのです。たとえば、当地の名産の柿栽培は見事です。それもまた対象として演じられるかもしれません。その頑張りは個々の人の中に潜在的にあるように思うのです。それを引き出すことが大事かなと感じています。

 

村八分のような排除の論理ではない、集落を一体化し、また外とも結びつくような事業を展開してもらいたいですね。

 

今朝はこれでおしまい。