たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

災害にどう向かい合うか <九州北部豪雨 半年、爪痕深く>などを読みながら

2018-01-06 | 災害と事前・事後

180106 災害にどう向かい合うか <九州北部豪雨半年、爪痕深く>などを読みながら

 

半年前の九州北部を襲った異常で急激な豪雨による災害もまた甚大な災害をもたらしました。当時は、その原因についてめずらしく連続して書いたことを思い出します。災害列島日本は、いつの世にもどこでも災害が起こりますね。

 

明治維新の幻想を取り上げる論の中には江戸時代の循環社会や平和で安定的な社会を見直す議論も少なくないと思います。私もそのような見解に一定のシンパシーを持たないわけではありません。でも江戸時代はまだまだ自然の脅威に対して脆弱であったと思います。

 

日照り・飢饉・洪水氾濫・地震・噴火から人為的な火事も含め、頻繁に起こっていたのですから、忍耐強い人間性が形成されていたのではないかと思うぐらいです。こういった自然災害や火災などに対して江戸幕府や各藩がどのような対応を行ってきたかも興味深いテーマですが、それは別の機会にしたいと思います。

 

現代の状況に目を向けたいと思います。

上記記事では、<福岡、大分両県で関連死1人を含む40人が犠牲となり、2人が行方不明のままの九州北部豪雨は5日、発生から半年となった。被災地では、濁流が集落を襲った爪痕がいまだ生々しく残る中、犠牲者の冥福を祈って、花を手向けたり、手を合わせたりする遺族や被災者の姿があった。>

 

何よりも犠牲者の冥福を祈ることでしょう。身近な人を失った喪失感は容易に回復できないことは誰しも長く生けていれば経験の数も増えますが、それに加えて自宅や働く場所、親しんできた生活環境をも同時に失うことはさほど経験できることではないでしょう。

 

普通このような災害に備えることは一般論としては頭の隅にあることでしょうが、真剣に予防策も、万が一被災したときどう対処するかまで具体的に想定して生活している人はほとんどいないでしょう。それは行政側としてもさほど大きな違いがないかもしれません。

 

最近ようやく洪水や津波などを予期して対応する体制が少しずつ具体化してきましたが、まだそのシミュレーションも実践に対応できるまでのデータも制度設計もできていないと思います。

 

他方で、九州北部豪雨でも、これまでの気象庁予測システムの予想を超える異常事態が想定外のスピードで累積的大量豪雨が発生しているのですから、上記の既存データを活用したシミュレーション自体がまだ実効可能性が乏しい中、このような異常事態にはまったくお手上げ状態でしょう。

 

その意味では、江戸時代の災害状態と幕藩体制が対応したこととさほど大きな違いがないかもしれません。まだ江戸時代の人々の場合はいついかなるときに異常な自然災害が起こるかわからないと思いながら生きていた分、災害に対する対応力があったかもしれません。

 

火災があってもすぐに簡易な家をみんな建てていくことが当たり前であったかもしれません。洪水で家が流されることも覚悟していたので、簡易な家が多かったでしょうし、すぐに建て直して住み続けることもできたのかもしれません。氾濫原に住んでいることを、その土壌豊かさを享受しつつ、危険性を感知していたのではないかと思うのです。

 

ところがわが国は近代化して都市計画制度も西欧から形だけ導入しましたが、土地利用可能な都市計画区域の中で、重要なハザード地域を外す(あるいは制限する)ことまで思い至らなかったようです。

 

よく言われる所有権絶対思想が強かったのでしょうか。たしかにその側面はあったと思いますが、わが国の「民主主義」の出発点が地租を高額納める地主のみが選挙権を持つといういわゆる制限選挙制に問題がこの思想をわが国特有のいびつな形にした要因の一つだと思うのです。

 

所有権のあり方を学ぶ機会を社会生活や教育を通じて学び経験する機会もなかったように思うのです。江戸時代は、その意味では地域所有権的な形でそれぞれの形態を村社会を通じて形成し子どもの頃から体験して学んでいたのではないかと思うのです。

 

でこのようないびつな所有権思想は、氾濫原と指定すると、あるいは土砂崩壊危険地区などと指定されると、土地の評価が下がるとして、とても国会でそういった法案が通らない状態となっていたと思うのです。むろんこれらの制限立法をしようとする動きは戦後多くの災害を経て起こったわけですから、その時点では男性も女性も、大地主も小地主も、借家人も借地人も、だれでも選挙権をもつわけですから、さっきのような議論は通用しないともいえます。

 

しかし、戦前までに作られた法令は、制限選挙の基で、地主に有利な形で作られてきたものであり、多くの人は所有権のあり方について学ぶ機会をおそらく100年近くは失っていたように思うのです。農地改革で示された当時の国会(帝国議会でしたか)の偏向性は明白ではないかと思うのです。

 

前置きが長くなり申し訳ないと思いつつ、少し触れておきたくなって、脱線しました。

 

元に戻って、現在の復旧・復興についてどうなっているかについて、毎日記事大分版は<九州北部豪雨半年 「改良復旧」「創造的復興」を 日田市、5年間の計画案発表>と日田市の計画案を紹介しています。

 

朝倉市の被害が甚大だったと思うのですが、被害が大きいと復旧・復興計画も時間がかかることは予想できます。

 

さて計画案は<18年度を「復興元年」と位置づけ、被災者の速やかな生活再建に向けて施策を展開するとともに、「次の災害に備える」ことを基本に原形復旧にとどまらず防災機能を高める「改良復旧」「創造的復興」に取り組む。>

 

計画案の農業分野については<九州北部豪雨による農地・農業用施設の被害状況は、農地が1609件(被害額19億700万円)、農業用施設689件(18億4400万円)に上る。これを受け、被災農地の大区画化、水田の畑地化、新たな園芸リース団地の整備など生産基盤の強化を進める。その際、集落営農組織などに農地を集約することで、経営効率化や事業に伴う農家負担の軽減を図る方針だ。対象地区は大鶴、小野、朝日地区。>

 

効率化・生産性拡大がこの機会に本格化しようというのでしょうか。

 

被災者支援については<被災者支援では、みなし仮設住宅などへの避難者が今も66世帯、175人いることを重視。住み慣れた地域で引き続き暮らしたいという希望も多く、安価な家賃の市営住宅建設や住宅分譲地の造成による「地域内移転」を支援する方針だ。>

 

将来的な予防策としては<自主防災体制の強化と見直し、災害ボランティアのネットワーク化、流木をせき止めて水だけを流すスリットダム新設、>と、私が関心をもった流木への対処策を取り上げています。

 

この流木対策については、森林の荒廃状態についてはメスを入れていませんが、林野庁に対応を委ねているのでしょうか。あるいは日田市の場合は林業が盛んで、治山対策としての間伐も相当実施されていると言うことでしょうか。朝倉市の山林での土砂崩壊、流木流出が多かったような印象を受けたので、その当たり実際のデータを踏まえて計画案を示してほしいものです。

 

このほか重大な論点が指摘されていました。

毎日の別の記事<九州北部豪雨半年 柿農家の決意 その甘み守り抜く 自宅全壊、移住すれども>です。

 

日田市の計画案は「地域内移転」を支援する方針が基本のようでした。でも住民はそこで悩むでしょうね。

 

<昨年7月の九州北部豪雨では、大量の土砂や流木が集落に流れ込んだ。全半壊の家屋は自治体の調査が進むにつれて増え、福岡、大分両県で1400棟を超える。5日で豪雨から半年。自宅を流された被災者らは、地元に残るか、離れるかの岐路に立つ。福岡県朝倉市の柿農家の男性は移住を決断する一方、地元のブランド柿を続けていくと決めた。>

 

その男性は<同市杷木志波(はきしわ)の平榎(ひらえのき)集落に自宅があった日野博さん(53)。豪雨当日、自宅の裏を流れる川が増水し、敷地内に濁流が流れ込んできた。危険を感じ、近くの住民と高台の倉庫に避難。木造2階建ての自宅はあっという間に濁流にのみ込まれた。>

 

彼は悩んだ末、自然災害の怖さと、柿農家としての誇り、伝承を考え、行政の対応を待たず自分に合った計画を進めています。

 

<地元に残って柿づくりを続けたかったが、川沿いでは「またいつ何が起きるか分からない」と考える。みなし仮設の入居期限は2年で、その間に川の整備などが間に合うとも思えない。集落の37世帯約70人で集団移転する話も進んでいない。

 「復旧を待っていたら年をとってしまう」と、生まれ育った地元を離れる決断をした。柿づくりへの情熱は変わらず、柿畑に通えるように隣接するうきは市で中古住宅を購入することにした。>

 

彼の場合は自ら作り上げた柿の評価を信頼したのでしょう。

<柿畑の大部分は被災を免れ、豪雨後も東京の高級ホテルの発注に応じられた。杷木志波の中でも山あいに近い平榎集落の柿を「奥志波柿」と名付けて仲間とアピールしていく。>

 

自分が住み続けてきた小さな空間は、親しい人たち、あらゆる息づかい環境が身体になじんでいるでしょう。でもそこが、日本という災害列島にあり、温暖化の影響でいついかなる異常事態が生じるかわからない今日、絶対安全な場所はないと覚悟することも大事かなと思うのです。

 

彼の場合生産拠点が洪水に対して安全なところであったことから、住む場所を別に選んだという選択は勇気がいったと思いますが、有効な判断とも言えるように思います。

 

わが国の河川は、ほとんどが明治維新まで、いや戦後初期までは氾濫を繰り返してきたわけで、治水目的のダムや堰など多様な防御策で一定の洪水は抑制できる状態にきていると思いますが、自然の脅威はやはり人間の力を超え続けると思うのです。

 

その意味では今後の土地利用のあり方自体を大幅に変えるだけの意識の転換が必要ではないでしょうか。人工的手段で自然の猛威を封じ込めることは無理だと思います。ハザードの程度をデータを精密にして、何段階かに区分して、早期に危険を察知して回避する方策を優先することを検討してもらいたいと思うのです。

 

うまく整理できないまま、書いてしまいました。また別の機会にまとめてみたいと思います。また明日。