たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

シェアと所有の未来 <時代の風 シェア経済の拡大 新時代に合う柔軟さを>を読みながら

2018-01-21 | 不動産と所有権 土地利用 建築

180121 シェアと所有の未来 <時代の風 シェア経済の拡大 新時代に合う柔軟さを>を読みながら

 

社会には様々な需要が次々と起こり、それに応じて供給サイトも多様な仕組み・サービス・物資を提供する、そういうことで次第に世の中は変わっていくのでしょうね。行く川の流れも実は同じ水は一つとしてないのでしょうが、同じに見えるのも不思議なものです。私たちの日々もたいして変わっていないようで、大きな変化を秒単位、あるいはその何千分、何万分の1秒で、なにかが変わっているのかもしれません。

 

その仕組みもそれに応じてわずかずつかもしれませんが、変わっていて、それでいてあまり変化がないように見えるのかもしれません。マスコミではニュースを取りあげたり、強調する必要があるのでしょうけど、さほど大きな違いがないのかもしれません。

 

そんな事をふと思いながら般若心経に思い至るのです。

 

今朝の毎日記事<<時代の風シェア経済の拡大 新時代に合う柔軟さを=元総務相・増田寛也>を読みながら、そんなことをつい考えてしまいました。増田氏の趣旨とは違うのですが、私にはそう感じてしまいます。

 

ところで世の中の変化に合わせて新語もどんどん生まれますね。「シェア経済」ですか、わかったようなわからないような用語です。

 

記事では<シェアリングエコノミー(シェア経済)が急速に市場を拡大している。シェア経済とは個人が持っている資産や、時間、スキル(技術)などを個人間で貸し借りする経済活動だ。>

 

この説明だと、これまでの社会でも同様の仕組みというか利用はあったように思うのです。が、個々で取りあげているのは次のようなケースのようです。

 

<空き部屋を旅行者に貸し出す民泊サービス仲介大手のエアビーアンドビー、空き時間に自家用車を使って利用者を希望する場所まで送り届ける配車サービスのウーバーなどが代表的である。>

 

いずれも所有を前提に、利用の新たな形態であることは確かですね。そもそも所有観念が近代的所有権といった観念で独占的支配権、排他的権利みたいな特殊なものを生み出したところに、問題が発生する要素があったのかもしれません。

 

ともかく「シェ経済」の拡大はとどまるところがない状態みたいですね。その背景にネット・スマホの普及が支えているようです。

 

<シェア経済が可能となった背景には簡単にインターネットに接続できるスマートフォンの普及がある。貸主は遊休資産などの活用により収入を確保し、借り主は所有することなく利用ができるというメリットがある。ネットを利用することでグローバルにサービスを提供することが容易であるため、豊富な資金を持たないベンチャー企業が参加しやすいとも言われている。>

 

従来のホテル、レンタカーとの違いについて、次のように指摘しています。

旧来の貸すサービスは、企業によるサービス提供で、<質は、各種法規制と企業(ホテルなど)への信頼で確保されている。>これに対し、<シェア経済は、個人と個人との間のシェアで企業は仲介的存在となり、所有権の移動もない。一方で、個人同士の場合、誰が泊まるのか、どんな部屋なのかといった不安がある。しかし、実名で取引をし、利用者がお互いをレビュー(評価)して、その結果を共有する仕組みがあることで信頼感を高めている。これはスマートフォンの普及によって可能となった実に合理的な仕組みである。>と。

 

このような比較論からの考察は、わかりやすいといえます。ただ、増田氏が従前<「物を所有する」ことがステータスだった>とか、・・マイカーやマイホームが一つの目標だった>として、これに対して、若い世代は所有に淡泊で、<「いつまでも所有し続ける」時代から「必要な時だけ利用する」時代への変化の象徴が民泊やライドシェアの隆盛であろう。>という説明まですると、ちょっとはてなと感じてしまいます。

 

たしかにライドシェアは若者意識の変化として理解できますが、マイホームの話しと民泊の議論はつながらないでしょう。ま、そんな細かい議論をするのが本題の趣旨ではないので、この程度にします。

 

この後民泊の魅力に言及している点は、ごもっともで、これまでのホテル泊はもちろん、民宿といわれた形態でも提供できなかった新たな旅の醍醐味を味わうことができる、魅力でしょう。そういえばすでにヨーロッパではグリーンツーリズムという形態で、90年代くらいから普及している方法が先駆けかもしれません。

 

EUの環境政策にも適合する形で、補助支援があったと学んだ記憶がありますが、もう四半世紀も前の話ですので、その制度内容も曖昧です。

 

いまは民泊と地域創生?とのハーモニーとして民間だけで独自に展開しているようですが、環境政策として、また農業・林業・漁業など一次産業の新たな展開として、また地域の歴史的・民族的な復興として位置づけてもいいのではないかと思うのですが、そういった施策はまだあまり聞きません。おそらく各地で地道に長くやってきたところもあるのでしょう。それをネット・スマホを通じて、全国展開というより、世界中に情報提供することができるとさらに意義ある物になるように思えるのですが。

 

観光という概念が、従来の名所旧跡を訪ねることから、心を癒やしたり、個人的な精神の豊かさを味わうことになりつつあるように思うのです。伊勢参りや富士講といった型どおりにはまらないのが人間の本性でしょう。西欧文明から輸入した「観光」も西欧で作られた「国立公園」「世界遺産」といった場所が持つ貴重な価値にのみ着目するのではない、日本特有の、あらたな観光概念が求められているのでしょう。

 

ちょっと民泊に肩入れしすぎて、本来のシェア経済と所有の問題から外れてしまいました。

 

増田氏はこの関連で新たな用語「コト消費」を使って興味深い指摘をしています。

<「モノ消費」から「コト消費」への動きである。世の中にモノがあふれて差別化が難しくなり、異次元の体験など、新しくコトを提案することが利用者の心をつかむようになった。民泊も安く泊まる手段とだけ考えるのではなく、異次元の体験と組み合わせたメニューを提案することで、魅力は格段に向上するだろう。>

 

「コト」の提案とか消費といっても、あまりぴんときませんね。それを次のような例で明らかにしています。

<国内では、農村部での収穫体験や収穫した野菜、果実を使った郷土料理と組み合わせたり、都市部では近所の特色あるお店を紹介したり、商店街全体で迎えいれたりすれば、利用者に地域の新たな魅力が伝わる。観光庁の調査によれば、昨年の訪日客は2800万人を上回り、今年は3000万人を超えるという。地方には異次元体験メニューの素材が豊富にある。地方創生の有力な武器となろう。>

 

異次元体験メニュー、それがコト消費なんでしょうか。物を消費する時代は終わった、物語とか、日本人がこれまで培ってきたよくいう「おもてなし」を多様な現場で体験してもらうことを指しているのでしょうか。それにしても、内容はなぜか、物が主題になっているようにも見えますね。日本人はやはり物が好きなのでしょう。

 

だいたい海外でお土産物といっても、だいたい定型化していますね。先住民が作ったと思われる物でも、欧米人が作っているというものも少なくないです。それに比べ、わが国は江戸時代の各藩がお国自慢、富国強兵を地産地消ではかったように、どこにいってもその土地自慢の物があります。そういった地域の魅力については、われわれ日本人でも知らないことがほとんどではないでしょうか。

 

またまた脱線していていきました。私のテーマは所有とシェア経済です。もし増田氏が指摘するように、本当に所有の意識が薄らぎ、シェアの意識に多くが変わっていけば、経済構造も、社会も大きく変わると思います。

 

土地建物の所有意識は、わが国ではとりわけ大きいと思います。かりに自宅を所有するとか、そのために長期のローンを支払う負担に悩まされるとか、そういうことがあまり重視されなくなれば、紛争がかなり少なくなるように思うのは軽率な理解でしょうか。

 

ライドシェアのように、いわゆる動産についてのシェアはどんどん普及するでしょう。さらに短期な住居のシェアも増えていくと思われます。しかし、自宅を所有しない、田畑や山林を所有しないという方向性は、今のところ、厚い壁に阻まれているように思うのです。

 

そもそも所有権の構造や意識は、時代によって変わってきたと思います。いま求められているのは現代的な所有権構成ではないかと思うのです。不動産について所有権の溶解というか、シェア的構成が生み出されると、とても興味深いと思うのですが、まだ一富士二鷹三茄子に近い話しですね。

 

一時間となりました。そろそろ本日はおしまい。また明日。


画像鏡と紀ノ川その2 <橋本市隅田が都に向かう港で、都の一部だった?>

2018-01-21 | 古代を考える

180121 画像鏡と紀ノ川その2 <橋本市隅田が都に向かう港で、都の一部だった?>

 

今日はいい日和です。昨日は和歌山市まで往復したため、どっと疲れてしまいました。車を乗るのは今のところ苦しみに近い状態ですので、長時間はとてもきつい状態です。

 

久しぶりに事務所の花を変えて雰囲気を新たにしました。こういった春のような日和の時は花々はとてもかっきがあって(あるように見えてでしょうか)気分がいいです。

 

ところで、このテーマをどう進めていくか、まだ構想もありません。で、今日はいろいろ雑務をしていて、NHK囲碁トーナメントの時間まで一時間を切ってしまっています。ここまで書いて、すでに30分しかありません。ま、今日もざっとしたスケッチというか、スケッチにもならないメモになりそうで。

 

今朝の事務所までのドライブでは、「妻」(つまと呼びます、今後、このシリーズでも登場させようと思っている地名です)の一歩下流に応其上人が架橋したという橋から名前をとった「橋本」になりますが、そこから紀ノ川沿いを車で少し走りました。地名で言えば、「東家」(とうげ)、「神野々」(このの)、「岸上」(きしがみ)です。

 

私がこのテーマで依拠する書籍は相当あると思いますが、まだ整理ができていませんし、とりあえず和歌山出身で紀ノ川の意義にとくに踏み込んだ記述をしている日根輝己著『謎の画像鏡と紀氏』を中心に語っていきたいと思います。

 

日根氏は、紀ノ川沿いの地名が魏志倭人伝で取りあげられている邪馬台国以外の国や地名と、この地域の地名の類似性を指摘しつつ、それが朝鮮半島の言葉に由来するのではといった指摘もされています。

 

隅田八幡画像鏡(日根氏はそう呼称しています)については、長い議論の蓄積をも参考にしながら、詳細な分析を加えていますが、まだその内容には入らないで、大ざっぱなアウトラインの一部を取りあげたいと思います。

 

興味深いことは、「隅田は畿内だった」という見出しで、さらに論を進め、古代では隅田に国際的な港津があったとするのです。その前提として、上町台地の東側はまだ湖ないし葭原の湿地地帯で大和川も中小河川に枝別れてして、とても河川交通も陸上交通も困難であったと考えているようです。私もこの考え方に古代の地形景観に適合するのではないかと考えています。

 

他方で、古代のヤマト政権の本拠地、桜井市の三輪や纏向、飛鳥周辺までのコースはどうだったかについて、日根氏は、渡来人が紀ノ川河口から遡り、隅田で上陸し、大和に入ったというのです。魅力的な見解です。

 

ただ、なぜ隅田なのかは、あまり明白な説明をしていないように思います。隅田八幡宮とそこにあったと伝承される画像鏡が都の一部があった根拠のように思われているようです。

 

たとえば、古代の隅田という地名が中世の隅田党が活躍した時代(隅田荘など一定の資料があるようです)とその領域が同じだったかはわかりません。ただ、少なくとも律令時代には条里制が広範囲で実施され、今なおその一部が残っていますので、古い歴史を感じます。

 

そしてなにより大化の改新の詔では、畿内(王都の範囲)で、「南は兄山以(せのやま、背山)以来」となっていることが日根説の大きな根拠の一つとなっています。むろんこの大化の改新の詔がほんとにそのように発せられたかは、議論があるように思います。「大化」という元号は当時使われていなかったことはかなり有力な意見でしょう。またその詔が具体的に実現されたか、されたとしてもかなり時間をかけて行われているようですので、この畿内ということだけを根拠にするわけにはいかないかもしれません。

 

ただ、いずれにしても、隅田を含む紀ノ川以西、笠田までも、畿内というのが正しいとなると、なぜそういう詔を発したか、それだけの当時、権力中枢に占める力が隅田などにあったことになるのかもしれません。

 

ただ、日根氏は隅田で上陸して、そこから陸路を大和に向かったというのですが、はたして地形的に成り立つのかは若干疑問を感じています。

 

私はカヌーイストですので、どんな川でも下ることを一応考えます。しかしそれは若い時代、いまはその意欲を欠いてしまっています。それはともかく、紀ノ川の隅田付近から妻付近までは、見事な河岸段丘で、水面から垂直に近い状態で両岸に段丘が広がっています。しかもその区間は川幅が狭く、昔の水量があった頃なら相当の流れが強かったと思うのです。

 

私は先住民の地域などに護岸設備のない岸辺に船で訪問したことが何回もあります。荷物がわずかならたいしたことではありませんが、上記のような段丘構造の岸辺であれば、まず接岸する場所としては選ばないように思うのです。高低差は10mくらい水面からあると思います。仮に接岸できても、多くの荷物を運ぶのは大変です。

 

当時の土木技術、船の接岸技術がどの程度かわかりませんが、あまり合理性のない場所選択に思えます。

 

というのは、大和に向かう現在の国道24号線、さらには飛鳥地方に抜ける脇道は、いずれも五條市から北方に向かっています。五條市付近になると川幅が広くなり、段丘構造もさほどのものでなく、接岸も容易だと思いますし、陸地に上がるのもさほど苦労しなかったのではないかと思うのです。

 

この点では、私は五條市に軍配を上げたいと思っています。ただ、応其上人が築いた架橋で生まれた橋本という場所は、橋は数ヶ月で流れてしまった後は渡し船で紀ノ川を横断していました。そして橋本川という支流の河口に代官所を設け、多くの川上船(帆船)が紀ノ川河口から物資が運ばれ、上流の五條市辺りからの物資との物流の中心地として江戸時代栄えることになりました。

 

それはこの橋本川河口付近は着岸も容易でした。そしてそのわずか上方の高台には陵山(みささぎやま)古墳という紀ノ川沿いで最大ともいえる円墳が残っています。その名称といい、場所といい、興味深いところです。この続きは明日とします。