たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

研究者の倫理性 <京大iPS論文捏造 山中所長、チェック体制「形骸化」>などを読んで

2018-01-23 | 企業・事業・研究などの不正 適正な支援

180123 研究者の倫理性 <京大iPS論文捏造 山中所長、チェック体制「形骸化」>などを読んで

 

山中伸弥京大教授が登場するNHKの「人体」シリーズは毎回楽しみにしています。山中氏の誠実な受け答え、少しふざけた姿勢のタモリとのいい組み合わせで、さまざまなゲストと、最先端のAI技術などを使って医学アプローチをしていて、企画内容のよさはもちろんそれぞれの人柄も大いに盛り上げる要素となっているかと思います。

 

山中氏の先端技術にかける情熱は普通の医学研究者にないものがあり、たとえばファンディングのためにマラソンに参加するのも、NHK番組に出演するのもその一貫ではないかと思うのです。

 

しかし、残念ながら、その山中氏が所長の京大iPS細胞研究所で、研究不正が起こりました。その一連の記事を紹介しつつ、私なりの感想を述べたいと思います。

 

今朝の毎日は一面に<iPS論文データ捏造 撤回申請>、社会面には<京大iPS論文不正再生医療 金看板に傷>や<山中所長、チェック体制「形骸化」 研究内容、確認不十分>の記事が大きく掲載されました。

 

事件の概要は<京都大(京都市)は22日、京大iPS細胞研究所の山水康平(やまみずこうへい)・特定拠点助教(36)が昨年2月に発表したヒトのiPS細胞(人工多能性幹細胞)に関する論文で、データの捏造(ねつぞう)・改ざんがあったと発表した。論文を構成する図や補足図に計17カ所で捏造と改ざんがあり、論文の主張に沿うよう有利にデータが操作されていたという。>

 

具体的な不正の内容はデータまでは掲載困難でしょうから、要旨次の4項目とされています。

<(1)遺伝子の働きを示すデータ捏造と改ざん

(2)遺伝子が働いた効果を示すグラフ改ざん

(3)できあがったとされる「関門」の透過性を示すグラフ捏造と改ざん

(4)「関門」の排出機能を示すグラフ捏造>

 

その研究不正の論文は<ヒトのiPS細胞から、脳血管細胞を作製し、血中の薬物や有害物質が脳に入るのを防ぐ「血液脳関門」の機能を持つ構造体を作製することに成功したとする論文。山水助教は筆頭・責任著者だった。昨年2月に米科学誌「ステム・セル・リポーツ」の電子版に発表され、3月に同じ科学誌に掲載された。>ものです。

 

不正の具体的な内容として、<iPS細胞から作った脳血管内皮細胞で、細胞に特有の遺伝子が働いているかどうかを解析し、論文では有意に高いことが示されたが、研究室に残されたデータではその結果は出なかった。>と指摘されているわけですから、データの偽装としか言い様がないと思うのです。

 

ところが、<脳血管細胞の作製には成功していなかったとみられるが、京大の聞き取りに対し、山水助教は「論文の見栄えを良くしたかった」と話しているという。>これがその通りだとすると、山水助教はまっとうな研究者としての資質を欠いているように思えますが、どうでしょう。

 

山中氏主宰の研究所のチェック体制に問題があったかどうかですが、最先端の管理を行っていたようです。

<同研究所は、不正防止のために研究内容を厳しく管理する体制を敷いている。3カ月に1回は全研究者の実験ノートを確認し、論文を発表する場合は元データや画像などの提出をルール化している。湊長博副学長は「全学レベルで見ても、きちんとやっていただいていたと思っている」と説明する。>

 

たしかに実験ノートや元データ・画像の提出をルール化している点は評価されていますが、次の話を聞くと、底抜けのような印象を受けます。

<ただ、提出させるだけで詳しい内容までは確認しない体制になっており、実際には100%の提出実績に至っていない。山水助教のノートの提出率は86%だったが、かなり高い割合で、問題の論文についてもデータや画像を全て提出していた。>

 

この点、山中氏は<問題発覚後に初めて山水助教のノートを確認した山中所長の目には、不十分な内容に映った。「詳しく見ていればかなりの部分を防げたかもしれない。厳しくやってきたつもりだったが、形骸化していた」と不備を認めた。>とされていますが、全部提出させて、全部目を通すことができるか、また、できたとしてその不正を発見できるかとなると、かなり危うい状況ではないかと思うのです。それは昨年連続して発生したさまざまなメーカーにおけるデーター不正とは格段にレベルが違う問題ではないかと思うのです。

 

再発防止策として直ちに提案されたものがありますが、疑問です。

<同研究所は今後、ノートを100%提出させ、内容まで踏み込んだ管理を徹底することで、再発防止につなげたい考えだ。>

 

この点、<ただ、論文の元データは膨大なため、全てをチェックすることは難しい。湊副学長は「最終的には個人のマインドの問題だ」と語った。>というのが実感でしょう。

 

現在の最先端技術は、きっとそれぞれの分野の中でさらに精細化しすぎていて、隣の人は何する人ぞといった状態に近いのではないかと思うのです。

 

実際<今回の論文には、山水助教が所属する研究室の教授も含めて10人の共著者がいたが、不正に気づくことはなかった。山中所長は「生命科学は非常に高度化しており、全てのデータを全員の著者がチェックはできない。今回のような不正は見抜けないと思う」と険しい表情だった。>というのですから、これこそ不正の根深い温床があると、他人のチェック体制だけでは有効に機能しないように思うのです。

 

論文不正に詳しい九州大生体防御医学研究所の中山敬一教授(分子生物学)の話はよく理解できるものです。

<任期付き助教による不正だが、任期制度は元々、研究者の評価を公正に行うために導入され、一定の成果を上げている。一方で、研究成果を求められるプレッシャーから研究者が不正を行ってしまうことがある。>

 

今回の研究不正は、先端科学の発展を促進させようという事業の一つで起こったものだったかと思います。一定の期間に研究成果を出すことで補助金を受給しているのだと思われます。その意味では補助金の不正受給ともいえる事案ではないかと思います。

 

かように成果だけを求め、任期付きの研究者に関与させる、競争主義は、安倍政権の目玉かもしれません。(安倍政権の具体的な施策の内容かはチェックできていませんのでその可能性という意味で指摘しておきます)

 

他方で、気になるのは、このような名誉ある研究に参加する研究者のマインドの問題です。山水氏は倫理性ということについて、どのような教育を受け、あるいは成長過程で身につけてきたのでしょうか。単に成果だけを求めて、名誉だけを求めて、この研究所に入所したのでしょうか。「見栄えを良くしたかった」というのが彼の真の答弁であったら、情けない話しです。

 

もしそうだとしたら、あまりに低質な倫理観ではないでしょうか。山中氏は責任感も強く、誠実で強い信念を持ち、そして同僚・部下のスタッフに対しても高い信頼感を抱いて接してきたのではないかと思います。しかも彼はノーベル医学・生理学賞受賞した国民的栄誉を誇らず、真摯に研究に取り組んできた人と思います。

 

もしその研究所に入所して研究したいと思うのであれば、その所長の名誉が傷つくような恥ずかしいことをするような気持ちには到底なれないように思うのですが、それは倫理観以前の問題のように思うのです。

 

すでにそれぞれの研究内容は、他の同僚著作者や先輩研究者であっても、容易に理解できるものでないことは、STAP細胞の事例でも上司・同僚ですら見逃していますね。

 

山中氏がいくらすべての論文、ノート、データ・画像をチェックしたとしても、それ自体どだい無理ですが、発見できることは容易でないでしょう。だいたい山中氏にそのような個別チェックを求めること自体、彼の多様な才能をそいでしまいますし、無理な話でしょう。

 

研究不正の温床は根深いと思われます。小手先の対応では、再発は免れない状況なのでしょう。改めて現在の研究不正を防ぐガイドラインなりを見直すのも大事なことですが、最後は研究者個々の倫理性について、研修強化を図ることを真剣に考えてはどうかと思うのです。

 

今日はこれにて終わり。また明日。


画像鏡と紀ノ川その4 <日根氏の「銘文を読む」>と海上交通を支配した神功皇后伝承の脈絡を考えてみる

2018-01-23 | 古代を考える

180123 画像鏡と紀ノ川その4 <日根氏の「銘文を読む」>と海上交通を支配した神功皇后伝承の脈絡を考えてみる

 

わが国の古代歴史において著名な人物は、皆さん八面六臂の活躍を示されています。日本武尊は日本各で破天荒の活躍をしていますね。聖徳太子も神がかりの才能を発揮しています。少し下りますが空海は当時の世界の中心地、唐で、またわが国で比類のない活躍が伝承されています。それに劣らないのが神功皇后です。

 

で、その実在性に疑いをもたれたり(空海は別ですが)、さまざまな人の時代を超えた業績を一人に凝縮されるといった伝承ならではの有り様を感じることがあります。神功皇后こそその典型のように感じて、とても興味深い存在です。

 

わたしが神功皇后を身近に意識したのは、瀬戸内海の潮待ち港、鞆の浦にある神社を訪ねたときが最初です。その港の一部を埋立架橋するという埋立免許差止訴訟(略称・世界遺産訴訟)を提起する弁護団の一人として、景観調査の一貫で、町並みを散策しているとき、地元の沼名前神社(ぬなくま)の鎮座由緒に、神功皇后から身につけていた鞆を賜ったということが書かれていたのです。でも当時は神功皇后と聞いてもあまり心に響きませんでしたが、住民の多くが意識していたのでずっと心の奥底に残っていました。

 

それから少し時間が経ち、当地にやってきて古代に関心を抱くようになり、隅田八幡画像鏡を知るようになり、神功皇后が突然、なにか心に響くものがありました。

 

神功皇后に関わる各種の書籍を読んだり、隅田八幡画像鏡についてもいろいろ渉猟しているうちに、適当に読んでいるせいもありますが、訳がわからなくなっているのが現在の状態です。紀ノ川の歴史風土にも関心があるので、その辺りを軸に少し整理しようかと思っているとき、以前読んだことがある日根氏の著作が一見、わかりやすく感じ、この中の一冊を手がかりに一歩踏み出してみようかと考えたのです。まだ霧にむせぶ中を進む視界不良の航海ですので、どこに行き着くかわかりません。

 

さて今朝は日根氏の「銘文を読む」を中心にして、神功皇后との関係を少し考えてみたいと思います。

 

隅田八幡画像鏡について、日根氏は詳細にその画像の一つ一つ、形状、全体の外観、材質など、緻密に観察していますが、それでも問題の核心は「銘文」としています。それはそうでしょう。この銘文が高橋健自氏によってわが国最古とされ、当時の大王の比定まで言及されていくわけですから。

 

日根氏は、銘文の最初に書かれた「癸未年」の年が議論されていることを取りあげ、西暦383年から623年まで、干支の60年周期にそった可能性を取りあげ、道教思想や当時の歴史的事実を踏まえて、503年説を妥当としています。ここの議論は別の機会にできればと思います。

 

さらに進んで、固有名詞に着目し、人名、地名について、いずれも日本書紀による当てはめでは妥当せず、中国の文字資料・国史の倭王名とも一致しないとして、次の章で「銘文は吏読(いどう)だった」の中で、当時の東アジアでは漢文が国際表記で、百済を含め朝鮮半島三国も、万葉仮名に類似した独自の吏読という表記方法をとっていたとの見方です。

 

先住民の世界を少し歩いていると、彼らの言語文化は文書より口承ですので、どうしても文書は先端文化を導入して渡来してくる西欧人の言語によってしか古い時代の文書が残っていませんね。6世紀頃まではわが国や朝鮮半島も、そういった時代であったとの理解はもっともと思うのです。

 

で、「万葉仮名では読めない」と箇所では、昨日取りあげた、小林行雄『古語』でも万葉仮名の読み方ですので、ふりがながついていない箇所が多いというのです。吏読である以上、それに応じた読み方となるわけですね。

 

さらに固有名詞についてのこれまでの通説に異論を唱えます。

 

たとえば、次にように個別に問題を指摘します。

「男弟王」も「おと王」と読んで、誇が「男大逃」である継体天皇をあてる人が多いのですが、岩波書店門日本書紀』の頭注でも「音韻の点からみて難がある」としています。「男弟」は「おと」しか読めないというのです。「今州利」にもフリガナがうたれていません。

地名や人名でフリガナがうたれているのは、意柴沙加(おしさか)宮、斯麻(しま)、開中費直(かわちのあたい)、穢人で(えひと)すが、問題ないのは上の二つで、開中、穢人にも疑問符がつきます。読める漢字よりも読めない漢字の方が多いわけで、これを万葉仮名とするにはかなりムリがあるようです。

 

このような解釈に一定の合理性があると思うのですが、あまり議論が深まっていない印象もあります。

 

私はこの言語の解釈論がまだ理解できていないこともあり、一歩退いて、次のような見方ができないかと考えています。

 

この人物画像鏡の銘文では、おおむね斯麻が武寧王であることは異論がほとんどないのではないかと思います。日根氏は「武寧王陵から墓誌石がでて、諱が斯麻で、四六二年に生れ、没年が五二三年であったことがわかって、斯麻=武寧王説は一気に有力になり、癸未五〇三年説が大勢を占めて現在に至っています。」と述べています。

 

で、その百済の武寧王が長寿を念じて発注して製作されたのが人物画像鏡であることは銘文で明らかですので、その製作が日本人によって行われたり、日本で行われたりというのはあり得るかですが、別段の事情がない限り、それは認めがたいように思うのです。

 

さて製作を担当したそれぞれを特定するのも大事ですが、これはさておき、武寧王は送り主ですが、その前に、二人の名前がでています。「日十大王」と「男弟王」とありますが、前者は大王となっているにもかかわらず、その特定が明確でありません。後者の男弟王について継体王とする比定することに日根氏の見解では語音などから疑義が出されています。

 

なぜ武寧王が王という名前を記さず、その前に、大王と王を置いたか、そこに3者の関係を物語る背景を考える必要があると思うのです。

 

そして日根氏はこの後に、「神功皇后の記憶」という表現で、「紀伊國名所圖會」の記載を引用しています。

 

「寺僧伝えて神功皇后三韓を征したまへる時、かの土の人、皇后に献れる鏡といふ」としるしています。

 

神功皇后が朝鮮半島において献上された画像鏡とされているのです。日根氏指摘のように、18世紀初頭の紀州徳川家も、編集責任者も、実直に、また相当の根拠を持って寺の伝承を残したのだと思います。

 

日根氏はこの大王、王と武寧王、そして神功皇后との関係性については語っていません。が、語る価値のあるものではないかと思っています。それは5世紀の倭の五王や百舌鳥古市古墳群の被葬者比定にも関係する問題につながる可能性があるからです。

 

さてこの次はどこまで書けるかわかりませんが、少し休憩してから、頭の整理をして再開してみようかと思います。そうなるといつになるかわかりませんが、なにか伏線を書ければ書いておきますが、明日になるとどうなるか・・・

 

補足

海上交通支配と神功皇后の話が欠落しました。その辺りを書ければ明日の話題にはなりますが・・・