たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

在宅サービス大丈夫? <介護報酬配分 退院時、医療と連携重視 在宅サービス、充実遠く>を読みながら

2018-01-27 | 医療・介護・後見

180127 在宅サービス大丈夫? <介護報酬配分 退院時、医療と連携重視 在宅サービス、充実遠く>を読みながら

 

今日は午後、和歌山で高齢者・障がい者虐待防止に関する研修があり、午後一杯熱心な討議があり、先ほど事務所に戻ってきました。

 

内容は充実していて、とくに高齢者虐待の具体的な事例を題材にして、数名のグループに分かれて、その事案について行政の立場でどのような問題認識が必要か、それに対してどのような対応をとるべきか、などそれぞれで検討して、各グループが発表する方式でした。そして事例ではさらに事態が発展する内容となっていて、その問題も同様に議論しました。

 

高齢者に対する虐待の具体的な認定のあり方、それぞれ虐待に応じて対応すべき措置など、虐待を受けた高齢者、虐待をした養護者、それの家族の状況を、虐待の背景を検討し、防止策を考える上で、わずかな時間でしたが熱心な議論ができたと思います。

 

「支援計画書」が出版されていて、その詳細な様式にそって、検討できますので、問題点の把握も割合要領よくできますね。とはいえ、実際の現場では具体的な認定はその事実の把握や緊急性など、微妙な判断が求められるでしょうし、一刻を争うような場合、何を優先するかもてきぱきやらないといけないでしょう。

 

とはいえ、はじめて参加して勉強になりました。そういえば横浜弁護士会に所属していた頃、虐待防止法令が施行され、若手の弁護士がリードしてこの問題に取り組んでいたのを思い出しました。当時メーリングリストに神奈川各地の社会福祉士等からの要請に応えて、皆さん頑張っていたようです。私は開発・建築問題にもっぱら活動していて、この分野はおろそかにしていました。いつの間にか弁護士会の活動も社会福祉士との連携がとれるようになり、充実してきたものだと感心してしまいました。

 

さて今日はもう7時を回っていますので、簡単に終わらせてもらいます。毎日朝刊は厚労省が4月施行の介護報酬の配分方針を示したことについて、給付費抑制を狙うと、一面で大きく取りあげています。

 

ここでは在宅サービスについて焦点をあててみたいと思います。私自身よくわかっていないので、勉強のつもりで引用しながら考えようと思います。

 

ところで私の母は認知症でたしか要介護4の認定を受けているようですが、施設への入所は家族だれもが反対です。たしかにたいへんですが、自宅だと自由です。近所の人で元気だった人が施設に入所してまもなく亡くなったとか、そういう話しを家族は気にしていますし、私は施設入所では寝たきりになるだろうと思いますし、ますます体力が劣っていくだろうと思っていますので、できたら在宅が望ましいと思っています。

 

そのような考えに暗雲をさすような記事が掲載されています。この記事で取りあげられた「よこすか浦賀病院」はなんどか利用したこともあり、余計気になりました。

 

まず冒頭、その方向が自立支援に舵をきる反面、在宅サービスに厳しい点を指摘しています。

<今回の介護報酬改定は医療の診療報酬改定と同時に行われ、団塊の世代が全員75歳以上となる2025年を見据えた事実上最後の同時改定となる。医療や介護の必要な高齢者が増え、それに伴う費用も増える中で、退院支援など医療と介護の連携や、自立支援策を充実させるが、中重度者の在宅生活を支えるサービスは不十分だ。介護人材の確保が厳しい状況も続き、「老後の暮らし」に不安が残る。【藤沢美由紀、阿部亮介】>

 

当の病院の事例が紹介されています。

<1月中旬、医師、看護師に加えケアマネジャーや介護関係者が顔をそろえ、70代の男性患者の退院に向けた会議が開かれた。男性は、外出中に転倒して足を骨折。入院をきっかけに筋力が衰え、要介護1の認定を受けた。1人暮らしで頼れる親族も少ない。>

 

カンファランスの様子が描かれています。

<「デイサービス(通所介護)は週2回にします」。男性に付き添い、事前に医師から病状の説明を聞いていたケアマネジャーが今後のケアプランを説明。看護師からは服薬の管理ができるよう準備を始めていると報告があり、退院後の生活について、きめ細かな情報共有と意見交換が行われた。>

 

そして今回の改定の内容です。

<今回の報酬改定は、医療ニーズがあっても、住み慣れた地域で暮らすため介護と医療の連携を重視したのが特徴だ。ケアマネジャーが医療機関の退院カンファレンスに参加した場合の報酬拡充などが盛り込まれた。>

 

この改定を評価する声が指摘されています。

<横須賀市居宅介護支援事業所連絡協議会の諏訪部弘之副会長は「在宅の高齢者も入退院を繰り返し、退院時は体も弱っている。生活の場と病院が連携しなければしわ寄せがくるのは患者。報酬改定で評価されるのは当然の流れだ」と話す。>

 

他方で、在宅サービスに問題が指摘されています。

<不足が指摘されるのは、介護度が中重度の利用者向けサービスだ。「訪問介護」「訪問看護」が受けられるほか、事業所への「通い(デイサービス)」や「宿泊」が可能な「看護小規模多機能型居宅介護(看多機(かんたき))」は12年の報酬改定で新設されたが、17年3月の事業所数は全国で357カ所、看多機がない自治体も9割程度に上り、偏在している。>

 

この問題について、改定では改善する内容がないのでしょうか。

 

看護師の切実な声が取りあげられています。

<川崎市の看多機「ナーシングホーム岡上」を運営する看護師の林田菜緒美さんは、年末年始も5人ほど利用者をみとった。今回、事業所を増やすため基準が緩和され、訪問回数が多い事業所を評価する加算も創設されるが、対象は介護職で看護師による訪問は含まれない。林田さんは「新たな加算はわずかで、事業所が増えるとは思えない。おむつ交換でも褥瘡(じょくそう)があれば看護師が行くので、現実と合った加算を考えてほしい」と指摘する。>

 

自立支援に対する改善策は評価されつつ、その先の在宅サービスに手が回らないと、また施設に舞い戻ることになりかねないですね。本格的な介護施策に予算が伴っていないのですね。介護職員への待遇なども大きな変化はないようです。それでは介護職員の負担だけが増え続けることになりかねないですね。

 

中途半端な読み込みで、30分で仕上げてしまいました。今日はこれでおしまい。また明日。

 

 

 

 


だれもが快適に <くらしナビ・ライフスタイル UD、みんなのために>を読みながら

2018-01-27 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180127 だれもが快適に <くらしナビ・ライフスタイル UD、みんなのために>を読みながら

 

資本の論理は一言では言えないのでしょうけど、大多数が欲しいものサービスを大量に提供することで、安価に多くの需要に応え、その結果資本が自己増殖する、そして先達者が資本利益を独り占めするため次々とあらたな商品サービス・システムを生み出していくといった風な印象をもっています。

 

その結果は当然、一定の規格に合わない少数者の利益はどうしても無視ないし軽視されることになるのでしょう。むろん資本主義を補完する役割を持つ社会福祉思想はそういった少数の利益をカバーするために、一歩も二歩も遅れた位置で、その少数者の利益のために機能し、公的補助をバックに、事業化も一定限度で進んでいくのでしょう。

 

このような構造は、遅くとも明治政府が近代化の名の下に、西欧資本主義を導入した時点から問題構造を抱えていたように思うのです。それは「維新」といった魅力的な言葉の裏表かもしれません。

 

視覚障害のある方、聴覚障害のある方、さまざまな身体障がいのある方、知的障がいのある方、精神障害のある方、その他資本主義経済として邁進する中で、長い間無視ないし軽視された人たちに対し、次第にその生活を支援するために法整備や事業整備が亀の歩きのようにわずかずつ進んできたように思います。

 

それは私たちの意識もいつの間にかそれが当たり前になってしまっているように思います。

 

今朝の毎日記事<くらしナビ・ライフスタイルUD、みんなのために>で、曹美河記者が伝える内容を読みながら、ふと以上のような感想をもってしまいました。

 

<UD(ユニバーサルデザイン)>はいつ頃から耳にするようになったのでしょうか。かなり前のような記憶がしています。記事では<米国のバリアフリー建築の専門家、ロナルド・メイス氏が、1980年代に最初に提唱したとされる。>そうですね、私も80年代に耳にしたり、そのようなデザインをどこかで体験したような記憶があります。

 

ところがいまそれが話題になっています。

<2020年の東京五輪・パラリンピックに向けて、誰もが使いやすい「ユニバーサルデザイン(UD)」に関心が高まっている。しかし、この言葉を耳にしても、自分には関係がないと思っている人もいるだろう。私たち一人一人にできることを考えたい。>と。

 

だいたいわが国では、UDという言葉どころか、そういったデザインも意識も長く片隅におかれてきたように思います。それ自体を恥ずかしく思う意識すら醸成されなかったのですね。私は維新以前では違っていたのではとか、あるいは戦前でも違っていたのではとか、思ったりします。

 

<UDを「障がい者や高齢者のためのもの」と考えるのは誤解だ。本来は、年齢・性別・能力・環境にかかわらず、できるだけ多くの人が使いやすいように考慮して、製品やサービス、環境をデザインすること。社会を構成する全ての人に関わる考え方なのだ。>

 

たしかにそれがより正しい理解なのかもしれません。バリアフリーといった極めて対象を制限し、その機能改善も限定的で、しかもハードを重視しているため、他の人は我関せずという意識をさらに固定化させた印象すらあります。90年代このバリアフリーの設備が先端的な地域で導入されたとき、そういう不安を感じていましたが、わかりやすい反面、多くの人の理解を得にくい状況をつくった可能性があります。

 

UDの提唱者はより自然な発想で誰にでも役立つデザインを唱えたのですね。

<ポリオの後遺症があったメイス氏は車椅子ユーザーだった。バリアフリーは、多数派向けに作られた社会環境から、特定の「社会的弱者」にとって使いにくい障壁(バリアー)を取り除く(フリー)という考え方。これに対しメイス氏は、そもそも最初から「みんな」が使いやすいデザインを目指そうと考えた。>

 

具体例が紹介されています。

<例えば鉄道駅。階段脇に設置された車椅子専用の昇降機はバリアフリーではあるが、UDとは言えない。つえをつく高齢者、妊婦、ベビーカーユーザーは使えないためだ。多くの人にとって便利なエレベーターの方が、よりユニバーサルと言える。ホームの転落防止柵や外国人にも分かりやすい案内表示、乗降しやすいノンステップバスも例として挙げられ、さらなる普及が急務となっている。>

 

あの車椅子専用昇降機は、まさに日本的意識・技能の産物でしょうか。そこにはバリアフリーの対象を車椅子の方だけといった発想、意識を前提としていて、それ以外の弱者というか、社会生活でなんらかの制約を感じたり受けている人の立場は無視されていますね。むろん予算の問題もあるでしょうけど、こういった予算を審議したり立案する議員・官僚に国民の声を幅広く聞く土壌がなかったといえるかもしれません。車椅子議員がこういった福祉行政を推進した功績は大と思いますが、他のさまざまな弱者に対する意識がその分、十分でなかったように思います。それはその議員だけの問題でなく、他の議員・官僚なりがUD思想をしっかり意識して活動していなかったことに問題があったように思います。

 

80年代から90年代には、LRTなど、電車もバスも、ノンステップが当たり前になっていたのが欧米の状況ではなかったでしょうか。

 

むろんUDも資本主義社会において市場化、事業化の成否が鍵です。わが国ではその意識が長く生まれてこなかったため、そのような事業化の試みもきっと提案段階で却下されてきたのかもしれません。

 

とはいえ、最近は新たな動きが出ていますね。

<関根さんは「UDにこそ技術革新の芽があります」と指摘する。曲がるストローは、入院患者や体が不自由な人も飲みやすいようにデザインされた。視覚障害者が利用する音声読み上げ機能はスマートフォンに内蔵されると高齢者を中心に大ヒットした。ニーズの強い人に配慮することで、多くの人にとって便利なものを生み出した例だ。>

 

たしかに<音声読み込み機能>は最近知ったのですが、間違ってどこかをクリックしたら突然、ニュース内容が音声で流れました。音声入力も、昔と比べ認識力は格段に向上しています。こういったスマホのアプリ機能は視覚障害や聴覚障害の方には有用だと思います。

 

最近は、たいていの講演会場に手話通訳の方が脇に立って、一生懸命手話で講演内容を表現しています。ただ、一般の講演なら内容も伝わると思いますが、少し専門的になると、どこまで伝わっているのか心配になることがあります。もう10年以上前ですが、日弁連のシンポでも、手話通訳は常にお願いしていましたが、さらに速記官に依頼してタイピングしたPCの内容がスクリーンに投影する方式をとったことがあります。内容が相当専門的でしたが、原稿の概要とかを渡していたこともあり、的確に表現されていました。

 

聴覚障害や視覚障害のある方が、こういった会議に参加できる最低限度の準備が少しずつ増えてきましたが、音声認識アプリなどがあれば、より安価にだれでもが使えるわけですから、期待したいツールですね。

 

UDの商品や建築・まちづくりのデザインは次第に普及していくと思います。しかし、問題は私たちの意識が変わらないと、意味がありませんね。

 

ある取り組みが紹介されています。

<「ハード(設備)はなかなか変えられなくても、ハート(心)は今すぐ変えられます。段差をなくすのは難しくても、段差を乗り越えるためのサポート方法は学べます」>

 

それは<「ユニバーサルマナー検定」>というもの。

<検定は日本ユニバーサルマナー協会が主催し、UDコンサルティングを手がける「ミライロ」(大阪市)が運営。障がいのある社員による講義や、足腰の弱った高齢者の状態を疑似体験する実技研修もあり、多様なニーズを理解して「今すぐできるサポート」を身につけることを目指す。座学のみの3級、実技と試験が必要な2級、それぞれ認定証が発行される。>

 

その具体的な方法は気遣いのマナーを身につけるものです。

<ミライロが考えるユニバーサルマナーとは、自分と違う多様な人々の視点に立って行動すること。岸田さんは「目の前の人は、障がい者や高齢者である前に一人の人間。例えば車椅子ユーザーでも必要としているサポートは一人一人違います」と強調する。押してほしい人もいれば、できるだけ自分でこぎたい人もいる。「まずはひと言『お手伝いできることはありますか』と声をかけ、ニーズを聞くことが大切です」>

 

これを読んで、以前このブログでも取りあげたフランス人イブ・ジネスト氏が提唱する「ユマニシュード」を思い出しました。

 

もっぱら認知症の患者を対象に、人としての接し方を通じて、その人がもっている人間力の回復を生み出す方法です。それは認知症にかぎらずあらゆる疾病の方にもあてはまる方法です。

 

相手の方をその方の立場でしっかりと見つめる。話しかける。それは自分が相手に対し行う一つ一つの所作をその順番に、事前に行うのです。相手の方に機械的な扱っていないことを理解してもらうのです。また触れることを大事にします。それは掴むことを禁じることでもあるのです。相手の方が動けないとき、どうしても掴んでしまいますが、そうではなく触れて、相手の方の自らの動きを誘って、その動きを支えるというのです。そして歩くことを大事にします。車椅子の方でも、ジネストさんが働きかけると自分で歩き出そうとするのです。これは介助者も驚き涙ぐむほどでした。人は秘められた力を死ぬまで持ち続けることができるのを、この人は障がいがあり、この機能は使えないと勝手に考えて、そういう前提で機械的に介助者なりの感覚でやることが問題になるわけですね。

 

いかに相手の気持ちにそうか、それはやはり私たちも学ぶ必要があるように思うのです。

という私も認知症の母にわずかの期間ですが、ジネストさんのような方法で接する努力をしました。むずかしいですね。一朝一夕にできることではないです。

 

そんなことを考えさせてくれたUD報道でした。また別の機会にも取りあげたいと思います。