たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その14 <津本陽著『大わらんじ』で吉宗を驚かせた才蔵について>

2018-01-14 | 大畑才蔵

180114 大畑才蔵考その14 <津本陽著『大わらんじ』で吉宗を驚かせた才蔵について>

 

津本陽氏については、当地にやってくるまでは『下天は夢か』以外にその著作を読んだことがなく、あまり知りませんでした。しかし、当地で徳川吉宗に関心を抱いたこともあり、その歴史小説を次々と読んでいくうち、その原書に依拠する誠実な姿勢、さらに空白を埋める大胆な着想と惹きつける描写で、その後はかなり魅了され続けています。

 

その吉宗作品では『大わらんじ』と『南海の龍』が吉宗の魅力を遺憾なく発揮させています。そしてその輝きを支える重要な要素として、私が関心を抱いている大畑才蔵をかなり詳しく、その著作『地方の聞書』などの原書を引用しています。それだけでなく、吉宗が才蔵の特異な才能に多大な影響を受け、藩主時代に、才蔵と上司弥惣兵衛を江戸まで呼び寄せ、才蔵から直接話しを聞く場面まで設定しているのです。

 

たしかに吉宗の藩政改革の成功、そして徳川8大将軍への抜擢は史実ですが、その背景というか基礎となった大きな要因の一つを才蔵による、科学的土木技術の活用と、近代的農業経営、そして合理的な年貢徴収方法などによっているとの見方は、意外と正鵠を射ているように思えるのは才蔵びいき故でしょうか。

 

ともかく津本氏は、才蔵著作を含め関係資料を相当読み込んでいることがわかります。で、今日は久々の才蔵考ということで、著名な津本氏が取りあげたその一端を引用して、名伯楽ともいうべき津本氏が描くと、才蔵もより際立つというか、多くの人に知ってもらうきっかけになるかと思って、著作権に抵触しないよう配慮しつつ、引用させていただきたく思います。

 

なお、引用本は日本経済新聞社発行のものです。3巻に別れていて、巻数と該当頁はたとえば第1巻123頁なら1123と表記します。『南海の龍』でも少し違った趣で取りあげられていますが、今回は『大わらんじ』に依拠します。

 

吉宗が藩主となったときの紀州藩の財政は火の車でした。それで吉宗は、一方的藩士に給金の支払の猶予をする一方、徹底した緊縮財政を実施し、他方で収入増をはかるため米生産の増大のため用水開発に乗り出すのです。

 

その担い手として目をつけたのが大畑才蔵だったのです。彼の評価についてまず、「土木工事に天才の手腕を発揮する技術者がいた。」と客観的な意味合いで言及します(1269)。

 

吉宗が藩主になる前に、「熊野地方を探査し『熊野絵図』を作成」とか、「伊勢国一志郡の雲出川の原野に新井堰」(あらゆせき)の新渠とか、「紀の川北岸藤崎井用水」の新設とかを指揮したことが取りあげられています(1269)。

 

とりわけ吉宗が才蔵の能力の高さを見いだしたのを『才蔵記』(地方の聞書)の内容でした。

津本氏は「才蔵の説くところは実情に即し,百姓を啓発する機智が随所にひらめいていた。」として、例として「種まき」の箇所を引用しています。

「種子播きの時期は、その年の草木の芽出し,開花が,春の彼岸前後に早かったか、あるいは遅れたかを見て'判断する。

水の足りない土地では種籾を播く際に、前年の冬至の頃と似たような雨量の雨が、五月の夏至の頃にも降るのを考えあわせ、冬至の頃の雨量を注意してはかるべきである」

 

単なる栽培方法だけではなく、収支を計算に入れ、どのようにすれば適正な利益が生み出されるか、土地ごとに具体的に計算して収益予測をしながら農業経営を行うことが書かれていることに驚くのです。

 

そして「吉宗は、施政方針をうちだすうえで『才蔵記』を参考にし、彼を登用しようと考えるようになっていた。」(1270)とまで才蔵を評価するのです。

 

吉宗は江戸表から新たな灌漑事業を才蔵と上司の弥惣兵衛に命じ、二人に小田井の目論見書を提出させると、その企画の壮大さに驚き、二人を江戸に来るよう命じるのです。

 

そして江戸に出府した才蔵についての記述がさえています。「才蔵は還暦を過ぎ撃髪に霜を置いているが、壮者のような華やかな身ごなしである。」と(1340)。

 

吉宗は引見に現れた才蔵・弥惣兵衛を前に、「そのほうがさしだせし、紀州小田井堰普請の目論見書には、目を通しておる。このたびは普請について詳細に聞き及びたい。」と早速語りかけ、遠くに座る才蔵に絵図の近くで説明するよう催促するのです(1340)。これは当時の身分関係でありえたか疑問の声もでるでしょうけど、一人で城外に出て一般人とも会話したとも言われ、身分の隔てを超えた実力主義を打ち出した吉宗であればありえることではないかと納得しています。

 

昨年暮れ世界かんがい遺産登録された小田井用水の主要資産の一つである、龍之渡井についてもしっかり言及されています。

 

「吉宗は紀州那賀郡四十八瀬川のうえを、一本の支柱もなく、十六間の石造り通水橋を架けわたす工法について、絵図面を見つつ聞きとった。」(1341)として、その会話を再現させるのです。

 

「これが川のうえを渡す掛渡井か。紀州の石工もこれほどのものをこしらえおるか。尋常ならぬ精妙の技というべきじゃ」と吉宗の嘆息を著しています。

 

そして才蔵発案の測量機、「水盛台」についても吉宗が取りあげて、「「そのほう牲いかなる土地に通す渡井にても、一本の竹竿と手作りの水盛器を使うて、一分の狂いものう仕上げるというが、渡井の勾配を誤たぬはなかなかに難事であろうがや」とその科学技術についての能力の一端を示す質問をさせているのです。

 

これに対して才蔵の答えも用意し、「「おそれながら、さほどの難事にてはござりませぬ。夜中に水路のうえに一間ほどのあいだをあけ、蟻燭をたて、火をともしまする。さすれば情の高低をすかし見て、地形の高低があきらかとあいなり四、五十町ほどの水路勾配は一夜のうちにあきらかとなりまする」(以上1341)。

 

吉宗の知的探究心はとどまることを知りませんので、「伏越」「尺八樋」の構造・機能についての質問が次々と飛びだし、才蔵が明快に答える様子を描いています(1342)。

 

吉宗は実務家で現場主義者です。亀池や小田井・龍之渡井も訪れ、とくに前者では詳細な会話が弥惣兵衛との間で生み出されています。

 

たとえば「尺八樋には、尺八の穴のように直径三、四寸の孔が五個あいていた。

『これが尺八の名のゆえんか。江戸で大畑才蔵にこの仕掛けを聞いたが'なるほどのう』」と(228)。

 

当然、吉宗は小田井用水の検分し、才蔵とも再会しています。

「土木技術の高名を天下にとどろかせた大畑才蔵が、延べ数万人の人夫を動員してすすめている、治水工事の現場を検分する。

農業用水路、溜池の普請に神技といわれる才腕を発揮する大畑才蔵は、六十七歳であったが、立居は壮者を凌ぐたしかさであった。」(275)と改めて才蔵の一流の武芸者の面影を指摘するのです。

 

さらに才蔵が取りあげた定免法について、吉宗は才蔵と年貢査定方法について才蔵と議論したことで一定の見識をえたとして(344)、次のように記述されています。

 

「吉宗は紀州で、モデルとなる田畑の作物を刈りとって、年貢高を決めた。この方法をとれば、豊作、凶作のいずれの年も正確、な年貢高を割りだすことができ、合理的な徴税法といえる。だが、検見をする郡代、代官に査定の権限があるので、四百万石の幕府天領をわずかな人員で支配する現状から見て、彼らの不正を防止できる実効ある措置はなかった。

定免法を採用すれば、年々の作柄の出来、不出来を問うことなく、一定の年貢率を決めればよい。」(345)。

 

さらに多くの才蔵に関する記述がありますが、この辺りにしておきます。

 

今日は少し引用場所を探すの時間がかかり、まとめるのも大変でした。津本氏の著作の趣旨と異なるようだと困りますが、おそらく津本氏も才蔵を高く評価していたのだと思いますので、ご寛容いただけるかと勝手に念じています。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。

 


年賀・喪中はがきの是非 <年始のごあいさつ 喪中はがきの風習は必要?>などを読んで

2018-01-14 | 日本文化 観光 施設 ガイド

180114 年賀・喪中はがきの是非 <年始のごあいさつ 喪中はがきの風習は必要?>などを読んで

 

年賀状を出そうか迷い始めたのはもう20年以上前のこと。そろそろわが国でもメールが普及しつつあって、必要ならこれでよいのではと思ったのです。省資源・省エネ的には自然な感覚でした。でもいまもって踏ん切れないでいます。

 

私の若い仲間の一人は最近、堂々と実践しています。彼は一緒に仕事をしていたときも、優秀で情熱もあり、世代は違いますが大きな影響を与えてくれました。でも彼のようにまだ潔いスタートが切れないでいます。

 

そんなとき今朝の毎日記事<松尾貴史のちょっと違和感年始のごあいさつ 喪中はがきの風習は必要?>は、その先を行っている印象で、驚きと共に、そのとおりと賛同したく思います。

 

松尾氏は、以前から辛口のコメントとユーモアも交えてなかなかと思っていましたが、NHKFMの日曜喫茶室を受け持ったときはちょっと無理ではと当初不安視していました。でも

そんな私のいい加減な理解は吹っ飛ばしてくれるほど、軽快で多様で中身も充実させ、新たな内容に入れ替えてくれました。

 

その松尾氏の違和感は、次の通りです。

<昨年の3月に父が亡くなったので、子としてはおよそ1年間の服喪期間中ではある。しかし、周囲が「おめでとう」と華やいでいるときに「喪中ですので」などと言って水をさすのもおかしいし、そんなことを言っている人を見たことがないので、何も考えずに「今年もよろしくお願いします」と応じていればいいのだろうか。>

 

また、松尾氏は年賀状をずっと出していなかったようですね、その立場から重ねて、

<何年も年賀状を出していないので、喪中ハガキも出していない。以前も書いたが、喪中ハガキなど受け取った人の気分を曇らせるからあの風習はなくなればいいとすら思っている。返事を出さないといけないような相手から年賀状が届いてしまったら、寒中見舞いで礼を尽くせばいいのではないか。>

 

松尾氏は過去の根拠法令をとりあげて、喪中のあり方、そして関係者への連絡は個人の選択に委ねられるのが望ましいと、当たり前のことを述べています。実際は社会の慣習・習俗みたいな何かが、このような一連の喪中対応として行われてきたのでしょう。

<その昔は「服忌令(ぶっきりょう)」という法律で喪に服すことが決められていた時代もあったそうで、心の活動まで強制される時代があったのかと驚く。逝った者への思慕や愛情は人の数だけある。あくまでガイドラインとして儀礼という文化が継承されることは大切だが、強制ではなくそれぞれが選択できることが望ましいのではないか。>

 

とはいえ、死亡連絡から葬儀や法要、そして遺体・遺骨のあり方まで、次第に多様な道が選ばれてきて、すでに喪中期間といった習慣もごく一部になりつつあるようにも思えます。

 

縄文時代は異なる形態であったと思いますが、死に対しては厳粛な営みが社会の基盤で会ったのではないかと思うのです。弥生時代、さらに古墳から飛鳥に至るまで、薄葬令が発せられるまで、少なくとも身分の高い社会では殯を厳格に行われてきたのではないかと思います。

 

まったく知らない人、その家族の死について死亡連絡は、社会慣習として行われています。違和感を抱くのはそういうときです。とはいえ私も喪中はがきを最近なんどか出してきました。それでよいのか少し考えていきたいと思います。

 

とはいえ、喪中はがきといったものは、郵便制度を作った前島密もびっくり仰天ではないかと思っています。これはきっと郵政省がある時代に普及させた、また、戦前の貴族社会はともかく庶民の間でそれほど一般的であったとは思われないのです。むろん村社会が確立していたときはほとんどが村の中で生活しているわけで、そういった喪中はがきの必要性もすくなかったと思います。

 

それが印刷はがき、さらにはワープロの普及、ネットの浸透に加えてプリンターの家庭への進出といった側面に加えて、葬儀自体が企業なり事業レベルで営まれるようになったことも、喪中はがきの一般化、拡大が見られたのではないかと思われます。

 

これらと軌を一にして、年賀状の数量も格段に伸びましたね(最近は減少気味だそうですが)。それは庶民の多くが要望した結果からもしれませんが、受け取る側、出す側のいずれも個人の自由な選択を無意識的に奪われているかもしれません。松尾氏の指摘はそのように感じます。

 

ところで、数日前の保阪正康氏による<昭和史のかたち年賀状文化>も、私自身、感じ入るものがありました。

 

保坂氏は<年賀状については、功罪相半ばする論が叫ばれてきた。虚礼廃止の折あまり意味がないのではないか、あるいは、年に1回お互いの安否を確かめ合う意味がある。それぞれがうなずける理由である。しかし私自身に限って言えば、今年は年賀状の意義が改めて確認され、どちらかといえば前者から後者に大きく傾くことになった。>と揺れる気持ちの中で、個々のはがきに意義を認めたようにも思えます。

 

保坂氏の年賀状投函の歴史的経過も面白いですね。私も似たような経験があります。賀状を出すのを辞めようかと思いつつ、年末までに出さないで、元旦以降に配達された人に対して賀状を送ることにしていました。

 

これは実際は大変です。しかも個々のはがきの内容に応えるようにしようとすると、もっと大変です。私のやり方は、印刷(たいていは元旦の日に書いたもの)を個別対応せず、ただ送るものです。それだと後から出す意味もないように思い、結局、最近は年末前に仕上げて賀状を投函しています。

 

とりわけただ社交儀礼で送り合うような年賀状、定型の内容しか記載のないものは、欠礼しようかと時々思うのですが、なかなか踏み切れません。優柔不断ですね。他方で、個人的なことを書いてきたものにも、とくに返礼しないので、これも失礼な話しです。結局、メールの方が即時性があり、お互いのやりとりが出て、本来的かなと思うのです。

 

長く遠ざかっている仲間と年一回の賀状の授受にどれだけの意味があるのか、これからも考えることになるのでしょう。

 

ところで、保坂氏は最後にすばらしい賀状を、そこに心を込めた内容のある伊丹万作の一分を紹介しています。これを読むだけで、年賀状の意味はあるのかとつい思ってしまいます。できたらこういう一文を受け取れる人になりたいものです。

 

<「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃(そろ)えてだまされていたという。(略)だますものだけでは戦争は起こらない。(略)だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど判断力を失い、思考力を失い、信念を失い、(略)自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」>

 

<伊丹万作はこう指摘したあとに、「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう--と結論づけている。>

 

賀状は、はがきであれば、せいぜい数百字でしょう。プリンターを使えば1000字、2000字でも可能でしょうが、肉筆で要領よく心奥を刻めることができる、典型ですね。短いからこそ、本質を突く。私の長い駄文も反省です。