180311 生きることと住処 <再びつながる 東日本大震災7年>を読みながら
9.11のときも大きな衝撃を受けましたが、やはり3.11は津波の破壊的な威力に加えて福島第一原発のメルトダウンによる恐怖は底知れぬものがありました。それから7年ですか。
多くの人がいまだふるさとを奪われたままで、いつになったらふるさとに変えることができるか、帰ることができた人も親しんだふるさととは人も環境も違うでしょう。身近な人を失った悲しみに加えて、あきらめの気持ちというか、やりきれない思い出一杯なのでしょう。
毎日の上記見出し記事は3月9日から3日間連載でした。
<再びつながる東日本大震災7年/上 砂場に響く子どもの歓声>
それぞれに再び繋がるものがありました。わたしは最後の<浪江から三宅島へ移住>に共感できる何かを感じましたので、ここではその記事を取りあげることにしました。
<三宅島中央部の雄山(おやま)が大噴火したのは2000年7月>でしたか。このとき溶鉱炉からでてきたような真っ赤な溶岩が流れていく様子がTV映像に映され、火山の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。全島避難指示で、東京・竹下桟橋に降り立つ多くの人が憔悴しきった顔だったのを思い出します。そのときも避難が長期に及び、時折不安を訴える島民の声が取りあげられていました。
私は三宅島には行ったことはないですが、ある散骨裁判事件で、巧妙に墓地埋葬法の経営許可を、また、農地転用許可を免れるような、散骨方式を採用して売り出した事例が問題にされ、農地とは何かとかいろいろ興味深い争点があり、それが三宅島を舞台にしていたので、地図やネットで調べたことがあります。溶岩が流れた場所も確認したりしたのもその頃でしょうか。もうだいぶ前なので記憶が曖昧ですが・・・
ともかくその三宅島は、05年に避難指示が解除され、島民が帰ってきたそうです。どのくらいの割合なのでしょうか。おそらく徐々にではないかと思うのです。生態系も次第に回復しつつあるのかもしれません。
その三宅島に、この原発事故で避難した浪江町出身の二人が移住して、偶然、出会うことになり、新天地での生活を始めているという、<再びつながる>というストーリーです。
<「島の暮らし、楽しいですよ」。>という<三宅島のデイサービスセンターで働く国分晶子さん(66)は朝と夕方、お年寄りを送迎する時間が楽しみだ。>というのです。
なにがでしょう。
<その日の海の状況や季節の花について会話が弾む。島の民謡を歌ってくれる人もいる。>閉ざされた環境ですし、自然に仲間意識になるのでしょうか。それに同じ避難経験者という苦境を味わったことが壁を突破ってくれるのでしょうか。
彼女のふるさと、<福島第1原発から約30キロにある浪江町の家は「帰還困難区域」で、今も立ち入りが制限されている。>帰還困難区域では除染作業もされていないようですので、多くの人はふるさとを奪われてしまったと、嘆いている、大事なものを失った思いでいるのでしょう。
三宅島への移住のきっかけは、
<原発事故の7カ月後、次女が大学生活を送っていた横浜市に転居。神奈川県葉山町の社会福祉協議会で4年半働き、三宅島から避難して以来ずっと葉山町で暮らしている女性と知り合った。昨年2月に初めて島を訪れ、たくましく生きる人々に魅了された。故郷の浪江町には、いつ帰れるか分からない。8月、三宅島に移住した。>
私自身は、神奈川で仕事をしているときは、葉山町には顧客も何人かいたりして、よくでかけていました。とてもいいところです。葉山御用邸のそばに葉山警察署があり、そこへもよく接見にいきましたが、天皇ご家族が療養などで訪れるだけあって、とても過ごしやすい温暖で、海岸散策もいいですし、小高い山が連なって、ハイキングもいいところです。
私の関心のある都市計画の点で言えば、高さ制限がとても厳しく(一時別荘地が中層マンションに開発される動きが加速化したころに町が動いたのです)、すべてに高さ制限があり、商業地域でも15mだったように思います。住居系は10mと、他の地域で言えば第一種住居専用地域で最も高さ制限の厳しいところと同じになっています。
余計な話しをしましたが、住む場所としてはとてもいい環境と思うのですが、それでも国分さんの心を癒やしてくれるほどではなかったのでしょう。
それは同じ悲惨な目に遭ったので、避難の話しがお互いできる、あるいは聞くことができるという環境も良かったのかもしれません。
<デイサービスで接するお年寄りは80~90代。「子どもを背負って両手で牛を引いて避難したんだよ」。過去の噴火の話がよく出る。中には4回経験した人も。それでも島の生活を楽しそうに話してくれる。「どんなことも受け入れて生きている。見習わなきゃ」と自分に言い聞かせる国分さん。>
やはり島民の場合も、いまだ自宅に帰れない人がいるのですね。
<避難指示解除後も火山ガスの影響で自宅に住めず、村営住宅で暮らす島民は「いまだに帰れない」とこぼす。>
偶然なのか、運命の糸なのか<同じ職場で働く浮渡(うきと)亮一さん(43)も浪江町出身。>そして<「7年間さまよった感じでしたからね。この感覚は、この先もずっと消えないと思う」。両親は福島県いわき市の復興住宅に移り、浪江町の自宅は取り壊しを決めた。浮渡さんは住む場所に固執しなくなった。故郷の風景は、もう戻らないからだ。>
やはり通常の住環境というか、多くの都会人は東日本大震災や福島第一原発事故のことを次第に意識しなくなり、TVなどでは取りあげられても、日常の中では忘れつつあるように思うのですが、そういう人たちの中で生活するのは避難者にとって、きついこともあるでしょう。
島民にとっても復興は今なお到達しない道のりなのかもしれません。
<三宅島南部にある民宿「新鼻(にっぱな)荘」。1人で切り盛りする平田節子さん(73)は1973年に民宿を始め、83年に初めて噴火を経験。集落のほとんどが溶岩にのみ込まれ、民宿も流された。「何もなくなった集落を復興しようという思いで、島にはむしろ活気がありました」と振り返る。>
島民の明るさ、苦難を背負ってもくじけず生きる強さ、そういうものは、島で生きる人に多いのかもしれません。沖縄でもそうですね。戦時中、(いや江戸時代もそうでしょうか)、戦後も、どれだけ多くの死者を出し、苦渋の生活を強いられてきたか、それでも明るく歌って、耐える強さを持っていますね。
<島では、特産のアシタバを週2回、農協の出荷場に持ってくる90代の女性もいる。平田さんは「どんな年寄りも必要とされています。みんなが生き生きと楽しんで働いているところを国分さんは気に入ってくれたんじゃないかな」と話す。>
年齢も関係ないというか、年寄りも働くことを生きがいにしているように見えますね。そんな生き方をしている人たちと一緒に暮らすことは、人の心を慰め、豊かな気持ちにさせてくれるのではないかと思うのです。
最後の国分さんの言葉を引用したくて、この記事を取りあげました。
<国分さんは、得たものもあるという。「逃げる時って何も持てない。そしたら何もいらなくなりました。体が健康であれば、どこででも暮らせる。どこにいても生きていける力はついたかな」。厳しい環境で生き抜こうとする島の人々と触れ合い、新しい人生を見つけようとしている。【川畑さおり】>
とてもすてきな言葉です。私自身は、それぞれのふるさと観があっていいと思っています。私の場合は、ふるさとという言葉から、特定の土地しかイメージしないといったことはありません。それは私の人生では、特定の場所での居住といっても、おそらく長く住んでも10年未満で、数年くらいが多いのです。人生至る所青山あり、というのとは違うかもしれませんが、ふるさとはどこにでも生まれると思っています。
で、今住んでいるところも、いつかは変わると思っています。もしかして帰還困難区域といったところが、自分の最後の仕事の場所、住処になるかもしれません。これから10年くらいかけて考えてみたいと思っています。そこがある種のふるさとになり、終焉の地になるかもしれませんので、慎重に選びたいと思っています。むろん死はいつなんどき訪れるかわかりませんので、それは覚悟していますが。
田中俊一前原子力規制委員会委員長は退職後福島に戻ったというそうですが、彼が委員長時代にとった姿勢については別の機会に話題にしたいとは思いますが、原発に近いところだったような記憶で、そうだとすると、この方の今後を注視したいと思っています。
本日はこの程度にしておしまい。また明日。