たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その17 <皇太子講演>を読んで<小田井堰の地形的特徴と受益地の領有形態の変遷>をふと考えてみる

2018-03-20 | 大畑才蔵

180320 大畑才蔵考その17 <小田井堰の地形的特徴と受益地の領有形態の変遷>をふと考えてみる

 

明日は大畑才蔵が開削した小田井用水を見て学ぶ歴史ウォークの予定ですが、天候不順で昨年のように流れるのではと心配しています。なんとか天候が持ち直してくれればいいのですが・・・

 

今日のNHKニュースでは<皇太子さま世界水フォーラムで基調講演>というタイトルで報じられました。

 

<皇太子さまは、「『水を分かち合う』ためには、水がすべての人と自然に無くてはならないものだと深く理解し、水に関する歴史上の経験と知恵から学び、水に関する情報を共有し、水を保全し利用するために協力しなくてはなりません」と述べられました。>

 

ま、私は一般人ですしブログですので、皇太子とお呼びします。皇太子は、長く水の研究に取り組まれたそうで、これまでも国際会議の講演では水をテーマに講演されていて、宮内庁の<皇太子殿下のご講演>では、講演全文がダウンロードできるようになっています。

 

さすがに資料もそろっていて、外国人でもある程度理解できるように、わが国が歴史的に水問題に取り組んできた具体的事例を挙げ、多くのスライド画像を活用して、わかりやすく講演されています。

 

その中に、<2回国連水と災害に関する特別会合における皇太子殿下基調講演>では小田井用水が供給された地区の一つ、桛田荘が荘園時代におけるかんがい用水の開発という面で取りあげられていますし、近世の統一政権下に開削された小田井も広大な地域をかんがいして農業生産の飛躍的増大をもたらした技術として評価されています。

 

で、今回は、<3回国連水と災害特別会合における皇太子殿下ビデオ基調講演 水に働きかける>で紹介されている信玄堤などについて、皇太子が指摘されている技術解説を参考にしながら、小田井のもつ歴史的背景(土地・水利の領有をめぐる歴史変遷)と治水・利水の面での小田井の位置について地形的意味と才蔵の庄屋としての意味とを絡めて、少し自説を展開してみようかと思います。

 

信玄堤は有名ですが、その構造をきちんと学んだことがなかったので、皇太子が解説した内容はとてもわかりやすく思いました。

 

皇太子は、巧みな表現でその目的を明らかにしています。

<信玄の目指したところは,単なる堤防だけでなく,異なった機能の施設を巧みに配し(図7),当時暴れ川だった釜無川の洪水を制御し,その豊かな水量の恩恵を自国にもたらすことにあったようです。>(図は先のウェブサイトに当たれれば、クリックすれば図がスライド画像として現れます)

 

この洪水制御と利水を同時に行う構造は次のように説明されています。

 

<この図は信玄堤とその周辺施設全体の配置を示したものです(図8)。これらの施設によって河川洪水がどのように治められていたのかを見ていきたいと思います(図9)。>

 

まず、河川南方(右岸)を洪水から守るため、人工の石積みを構築しています。これは河川の流れを北方に方向を変えて、次の自然に作られた分水ポイントに導くのです。

<釜無川は甲府盆地を貫く河川で,周辺の山地から集まった水を盆地地域一帯に吐き出します。信玄堤のシステムでは,洪水の流れをまず,固く大型の構造物である「石積出し」にぶつけて北に向け,南方での洪水を防ぎます(図10)。>

 

北方には、その分水機能を持つ将棋頭があり、そこに水流を当てて分水させるのです。

<次に日本の将棋の駒のような形をした「将棋頭」で流れを2つに分けてその勢いを分散させます(図11,図12)。>

 

その次に、さらに堀切と高岩を使って、水野勢いを殺すのです。

<分水された洪水流は,河床を掘り下げた「堀切」に導かれ(図13),自然の障壁である「高岩」にぶつけられ減勢されます(図14)。>

 

そして、その勢いが弱められた水流に別の川の流れに当てて、さらに減殺させて、今度は霞堤に当て、勢いを弱め、越流なり、堤防の間から背後の平坦地に氾濫させるのです。

<その後流れは更に前御勅使川にあてられ水勢が相殺され,その下流には霞堤が配され,減勢された洪水流を甲府盆地に穏やかに氾濫させ,ピークが過ぎてからゆっくりと川に戻されます。>

 

他方で、分水の一部は、取水口からかんがい用水として流れていくわけです。

<取水口はこの地点に設けられ(図15),洪水時の激流による施設の損壊を防ぐとともに,土砂の少ない流水が灌漑用に使われていくことになります。>

 

氾濫原は、洪水時は水に浸り大変ですが、上流の肥沃な土壌が入ってくるので、水が引けば農業生産にとっては有益な栄養素になるわけですね。それはナイル川の氾濫原も含め世界中どこもそういった川と農地の関係が見られますね。

 

ところで、信玄は、この信玄堤という複層的な構造の治水利水システムをどうしてできたのでしょうか。それは強力な戦闘力があり、他国からの侵略を受ける心配がなかったことも要因ではなかったかと思います。

 

桛田荘のように中世期の荘園は、絶対的な権力がなく、隣接の荘園、静荘や名手荘など多数の荘園との間で、領地境争い、水争いが絶え間なかったわけで、大規模な工事をする基盤に欠けていたと思うのです。

 

戦国時代に入り、ようやく戦国大名が統治する領地内では相当規模の開発を行う基盤がそろったと思います。それは戦時技術の応用でもあり、また、食糧増産なくしては経済的にも戦争に勝つためにも、必要な開発だったのではと思うのです。

その意味で、その信玄堤の技術は、戦時技術と同様に秘密にされていたのでしょう。

 

徳川幕府ができ、ようやく戦時技術や農業技術も次第に秘密性が薄らいでいったかもしれません。17世紀の農業基盤開発は全国各地で起こっていますし、新田開発の飛躍的増大は驚異的だったと思います。

 

でも紀州はおそらく違っていたと思うのです。戦国時代、紀ノ川流域は、上流から金剛峯寺、粉河寺、根来寺とそれぞれが領域を拡張し、競り合っていたと思います。秀吉が後者2つを殲滅し、金剛峯寺も17万石から2.1万石でしたか激減したものの、応其上人のおかげでなんとか生き延びました。

 

そのため、紀ノ川流域ではまだ金剛峯寺の支配は各地とせめぎ合っていたのではないかと愚考するのです。紀ノ川という大河川からのかんがい事業を実施するだけの技術がなかったのかもしれません。しかし、そのように考える根拠はあるのかなと思っています。

 

すでに城の水攻めは、備中高松城?、紀州太田城、もう一つありましたね、いずれにしても戦国時代に、大河川からの水を引き込む技術は相当程度高いものがあったと思うのです。

 

むしろ中世・荘園支配以来の領地争い、水争いが、金剛峯寺の強い支配力もあって、なかなか大河川から領地横断的なかんがい用水を開設できなかったのではないかと思うのです。

 

それが1692年でしたか、寺社奉行最大の大裁判を橋本で実施して、1000人くらいの行人僧を追放し1000近い寺を破壊して、金剛峯寺の力をそぎ、紀州藩の統一的支配が可能になったからではないかと考えるのですが、まだ具体的な根拠を見いだしていません。

 

それが領有関係の歴史的変遷というか、小田井用水開設の背景の一つと思っています。

 

なお、一般に小田井や藤崎井は、新田開発により農業生産を増大し、赤字財政の黒字化という経済政策の一つとして考えられていますが、私はもう一つ重要な要素を指摘したいと思います。それは当時、宝永の噴火や大地震・大津波で、被災が甚大で、飢饉が全国的に起こっていたと思うのです。そのような被災者対策という、社会政策的な意味もあったと考えていますが、それは吉宗が将軍になってからの話しと捉えた方がいいかはまだ躊躇しています。

 

で、ここからがもう一つのテーマ、小田井堰の位置決定の背景です。橋本市のホームページでは地形図をダウンロードできます(国土地理院が少し前まで無料でできていたのができなくなり残念です)。

 

その地形図でこうだとまではいえませんが、おおよそ小田井堰の上流をみてみますと、河岸段丘が両岸で続いていて、とくに近世当時は、ダムもないわけですから、大雨が降れば暴れ川になっていたことは想像がつきます。

 

もし地形図を見ることができれば、洪水になると、戦後でも現在の橋本市役所付近まで浸水していたそうですから、かなりの高台までは水につかっていて、その下は広大な氾濫原であったことは言えそうです。実際、古代からの大和街道は極めて高い位置に作られています。

 

上流から暴れ狂ったような水流は、小田井の前だと、右岸の岸上の絶壁のようなところでぶつかり、左岸の南馬場、さらには学文路の平坦なところを水浸しにしていたと思うのです。

 

学文路から九度山まで、高野線の軌道敷があるところは高台にありますが、その下は平坦で、「安田島」(あんだじま)と呼ばれていて、大きな水田地帯でした。元々は氾濫原だったのでしょう。

 

で、学文路の庄屋である大畑才蔵は、安田島は学文路に入るので、もしその下流の小田に井堰を構築したら、余計に洪水の危険が高まることを十分理解していたと思うのです。それでも大規模かんがい事業・新田開発のため、学文路の土地をある種提供したのではないか、ムラの仲間に了承させたのではないかと、彼の思いを少し想定してみました。

 

さて勝手な推測はこの程度にして、明日の天気に期待して、今日はこのへんでおしまい。明日は歴史ウォークの後、奈良に行く用があるので、忙しくなりそうです。書く時間があるか、心配ですが、なんとかなるでしょう。


昨日の続き

 

残念ながら雨で歴史ウォークは流れてしまいました。でも私は集合会場にでかけました。連絡の行き違いで、雨が降っているものの、中止連絡のメールが届かなかったか、見落としたか? ともかくちょっと雨量が強いときもありますが、次第に雨が上がるという天気予報なので、集合時間頃には小雨かたいしたことがないと言うことで、決行にしたのかなと勝手に判断して現地に向かいました。間違って早めに高速を降りたので、桛田荘、名手荘の地形を眺めながらドライブできました。

 

会場につくと、雨が上がっているものの、誰もいません。ここで気づいて担当者に連絡したのです。もっと早く電話していれば良かったのですが、それは後の祭り。

 

とはいえ改めて小田井用水が、また大和街道が、それぞれどのような位置につけられたかを地形景観を眺めながら、その当時の様子を思い浮かべてみたりして。

 

ところで、今朝の記事を追加したのは、昨日書こうとした目的が、書いている最中にうっかり忘れていたことを気づいたので、補足しようと思ったからです。

 

昨日のテーマは、皇太子が紹介した信玄堤(そのほか石井樋、中国の著名な「都江堰」(ドゥジアンイェン))がもつ治水・利水システムがもつ水流の減殺(減勢工)の仕組について、小田井においても違った構造で適切に用意されていたのではないかと言うことです。

 

これはあくまで独断と偏見ですが、少なくとも連続堤防を用意して、河川の水流を下流に勢いよく流すといったことは、仮に紀州流の特徴とすれば、小田井を含め才蔵考案の用水事業では採用されていないと思っています。

 

というのは、小田井堰を構築したとき、その上流部に堤防を築いて、水流の勢いを増すことは、洪水対策としても、利水対策としても、かえってマイナスと考えるからです。その点は、皇太子が紹介した信玄堤などの水流の勢いをいかに減殺するかを工夫することが肝要だったと思うのです。

 

小田井堰のある地点は、右岸は小田の堅い岩盤?、左岸は数100m下流に九度山の堅くて高い岩盤?が壁のように屹立しています(その中にあの幸村が隠棲していた真田庵もありますが)。信玄堤のように分水施設を利用するなど明確な減勢工を施した様子はありませんが、小田井のある場所はその手前に広大に広がる氾濫原で、上流から勢いよくきた水流が広がってその勢いが減殺されることはたしかです。

 

小田井は広がった河川幅が急激に狭くなる狭窄部に設置されています。当然、広がったとは言え、狭窄部は堰き止められると水流が盛り上がり、越流するおそれがありますね。でもおそらく左岸側は堤を作らなかったか、作ったとしても霞堤より簡易なもので、背後の氾濫原に水流を導くようにしていたと思うのです。小田井堰も現在のように河川幅を横断して遮断する形状ではなく、左岸には自由に流れるようにしていたと思われ、だから左岸側は平坦な地形を選んだのではないかと思っています。

 

現在のような高規格堤防ができたのはいつでしょうか。戦後初期昭和22年頃にアメリカ軍の撮影した写真では簡易な堤防が作られていたことがわかります。紀ノ川が大洪水に襲われても、堤防を越流したり、破壊しても、背後地は氾濫原として甚大な被害には至らない、信玄堤に近い発想で作られていたのではないかと思うのです。