Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

第60回記念光陽展広島展観賞雑感 (2) ;『失われた明日へ』

2012-06-05 11:11:50 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>光陽展広島展『失われた明日へ』
(撮影年月)平成24年5月31日
(撮影場所)広島県立美術館
(撮影機材)iPhone付設カメラ


 そよ風薫り緑さわやかな五月末金曜日の朝、光陽展広島展の会場は広島県立美術館に赴く。受付を済ませるやいなや他の作品には目もくれず、一目散に向かったのは『作品・失われた明日へ』の展示ルームでした。

 一番奥の部屋に向かって左手壁のほぼ中央に掲げられた作品の真ん前に、美術館によく見受けられる鑑賞者休憩のための椅子が数脚あり、その一脚に腰かけ陣取って鑑賞開始。さらにさらに、休憩用椅子の直角前方約7~8メーターの位置にKJさん『損保ジャパン美術財団賞受賞作品』が掲げてあり、落ち着いて観賞するには絶好の場所だった。

 2007年頃より鑑賞し続けているKJさん作品には個性あり、その個性は青い。
透き通るような、あるいは強力な光線はたまた閃光のように白く輝く青を基調とする心象絵画のもつ独特な個性があるのだ。
今年度作品は、今迄の作品よりも一層深みのある青になっている。過去のどの作品にもまして、威圧を感じる。恐いほどに重厚さが増している。鑑賞者に対して畏怖を発しつつ、作品は実際の画面よりも一層大きく拡がりを感じさせる。作品の世界は三次元から四次元へ、空間と時間が拡がっていく。

 作品『失われた明日へ』に出会った数分後の鑑賞者は、作品の表現する「重い青の世界」から人間の生涯を思い浮かべていた。その生涯とは「現代の人間のもの」と言うよりも、もっと原始的な時代の、サルでなくヒトとして、生き物のなかの一種類としての『人間の生き様』がみえていた。作者の「生死観のようなもの」が、ひしひしと感じとれてきた、、、。
 作品の題名は『失われた明日へ』……
 失われているのであろう明日?
 そして明日のその先の明日は、どうなのか?
 その明日から先は、広大で崇高な、まことに広々とした明るい将来や未来があることを、作品から覗える。作品の真正面約10メーターの位置にある休憩椅子に腰かけて鑑賞すること20分、作品題目の意味するところが少しずつ、わかりかけてきた。
作品の意図するものは何か。それは題名に表わされた『失われた明日へ』の、「その先にある未来」の遠望を試みておられる。
当面、今日を歩んで行き、避けることのできない明日への道程がある。明日からまた明後日への一歩、さらに一歩、前へ進む。進むべき「おおよその道筋」はほぼ分かっているけれど、道筋の傍らには不可解な物質や現象が瓦礫のごとく散乱し、ボンヤリとして明確でない。そんな「不明確な明日」を乗り越え、渡り切る。ただ一筋の道を辿って、『明日の先の未来』まで、歩み続けることを、この作品は示唆しているか。
 そう、明日の先の未来に横たわるものを、作者は見通され、作品を介して表現されているか。
現在から明日(失われた明日)へ向かって進むその先に、近未来があり、それから本格的な未来と将来が見えてくる。将来のその先にも、何かがある。どうやらそれは永遠のもの、そんな何かがみえる。
 もう少し詳しく、絵の中身を見ていきたい。

 まず初めに、
 作品の下部に、現在から明日にかけてあらわされているのであろう風景が読み取れる。その風景の下部から左上部に向けて一本の線あり。
 道に見える。
 その道は、時計回りに作品画面の左上を登る。想像するに円弧を描きながら作品画面の中央あたりへ向かって遠くへ進む。坂道を上がっていくのか。

 第二は、
 しばらく進んで明日をやり過ごすと、あまりにも不明確な行程の道として絵の中の道はよりおぼろげに描かれ、いよいよ明日の先の未来に入っていくのかどうか視界から消え、その先が定かでない。

 第三に、
 画面のほぼ上下中部に、二種類の異なる近未来が見える。その一つは右手画面にある。目を凝らせば、都会に乱立する超高層ビルの廃墟がみえる。廃墟と化して久しい大都会全体が遠く鳥瞰図として遠望できる。もう一つは、すなわち二つ目の近未来は中央左手に描かれていて、深遠で潔く且つ美しい広い海原が広がっている。灰色を基調として、雑然と殺風景で無機質な大都会の廃墟と対比的に描かれているのは、ネイビーブルーを基調とした大洋の海である。かくして失われた明日の先の近未来に二通りの異なる未来があり、すなわち一方の右手に絶望的で無機質な未来に相対し、左側には、大自然の息吹豊かな大海原を望める。

 第四として、
 明日を経過して未来に向かっているはずの道は、右手の大都会風な廃墟と左手に広がっている大海原の間に挟まれつつ、その進んでいる道は次第に見えなくなってしまう。

 第五は、
異なる種類の二つの未来に存在する大海原と大都会の廃墟のその先には、山も平野もない小さな島でもない、とてつもなく標高の高い『台形』がみえてくる。鑑賞者の眼に飛び込んできた台地は、直感的に『氷の無い南極大陸』に想えた。遠近法を用いて描かれているのが、ようやく解る。この台地は、今いる所から遠い場所の大陸であり、想像してみてその広大さが推し量れる。南極大陸だ。否、「南極大陸並みの、人の住める前代未開の大陸なのだ」と想像したい。
 その大陸の更にその先の、背後の上空から、強力な光線が差し込んでいる。黄昏時の夕焼けではなく朝日か。強く澄んだ光線を背景にシルエットとして描かれた巨大大陸。その一端の台地は、近未来の先の将来の位置にそそり立つ。

 一呼吸して、
 心象表現的に作者の到達したい物理的場所乃至精神的境地を表現すれば、作品の部位の『この界隈』をして、作者の『真骨頂』か。

 もう、第六番目か、
 おや?実は最初から気になって仕方のないこの絵の中で一番異質なもの、触れなければならない大切なものを忘れて書き進めていたものあり、それはキャンバス中央の上部に描かれた球体のこと。この作品の、象徴か。

 象徴として描かれた「モノ」即ち「球体」は、宇宙に存在するものを意味するのか。膨大な空間と途方もない未来時間に拡がる空間に存在する『ひとつの星』を描いておられるのか。それはしかし、光線を放っていないから太陽ではない。球体の色彩表現は黄土色でもなく赤茶けていないから月や火星ではない。
ボンヤリしているけれども青と緑、わずかに灰色且つ白色で描かれ、球体の色彩から空気と水を感じるから、これは『地球』なのだ!否、宇宙に存在する地球と同じ生物の育つ環境を有する星を描かれているか。

 かくして、
 来世への想いを、いかなる既知の宗教的表現の寸借無しに、あくまでも作者ご自身の人生哲学として会得されているものにて、すでに未来をはるかに超えた死後世界のその入り口まで見通されている。
 明日を失ってしまったヒト(人類と言ったほうがよいか)の生涯、それぞれの人生の、行き着く先は、今から如何なってしまうのか。未来には、何が起きるのであろうか。

 とほうもなく重厚にて憂鬱な絵画だ。
 いつもの色調よりも、さらに深みの加わったブルートーン(Blue Tone)を基調とし、各種青色乱舞するさまは、鑑賞者の心を乱すことないけれども決して高揚させることはなく、観れば観るほどに神経消耗し、心身ともに疲労する。すなわち長時間の鑑賞には不向きな作品である。
 それでも、また観てみたい。
 なぜなら、とほうもなく美しき未来と遠大な希望を創造させる「ちから」のある作品だからです。


--------------------------------------------------------

[第60回記念 光陽展広島展覧会](光陽会HPはこちらから入れます

作品紹介メモ:
 No. 37
 資 格: (会員) 
 題 名: 『失われた明日へ』
 作者氏名: 木村順子 (広島)
 受賞名: 損保ジャパン美術財団賞受賞作品