<添付画像>:「光陽展広島展・会場風景」
(撮影場所:広島県立美術館地下特別展示会場・撮影日:本年6月下旬)
昨夜(7月13日)出張先より帰宅して開いた「The Mail」!
2度読み返し、慌てて返信したメールです。
大学先輩OT氏から、大変興味深いご指摘と質問を寄せて下さった。
先の記事、光陽展鑑賞感想文シリーズの関連にて、(一旦、先輩OT氏の許可を得て)記事として投稿する事にいたしました。
以下、『交信メールの記録』です。
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Re.Re.Re: 光陽展(広島展)によせて(5/6)-2作品テイータイムを鑑賞する、を読んで。(昨夜、夜中近くに送信・・)
OT先輩
UTくん
こんばんわ。
メール、大変ありがとうございます。
そしてお詫びです!
日曜日から出張に入り、先ほど広島に戻ってまいりました。
出張中、何故か自分のパソコンのOutlook Express の調子が悪く、メール配信元のOCNBOXから直接受信送信の遣り取りししていた時、誤って、OT先輩から頂いている(10日月曜日付け)のメールも、迷惑メールと一緒に配信元から(根元から)削除してしまったようで、本日帰宅し、たった今、UTから先輩宛メールcc配信を貰って気が付いた次第です。
彼からccメールを送って貰うまで、結果は先輩からのメールを無視且つ削除。ご返事も書いておりませんで、大変申し訳ございません。
あらためてお詫び申します。
不手際、どうかお許し下さい。
さっそく今から、落ち着いて拝読し、改めて明日、お礼と感想の感想メールをお送りさせて頂きたく、どうぞ宜しくお願いします。
不肖エセ男爵 拝
----- Original Message -----
From: "t u" (我が旧友UT氏)
To: "O T" (先輩OT氏)
Cc: "ese-danshyaku
Sent: Thursday, July 13, 2006 10:23 PM
Subject: Re: 光陽展(広島展)によせて(5/6)-2作品テイータイムを鑑賞する、を読んで。
> OT 様
>
> このメール何度も何度も読みました。
> そして「エセ男爵」君のブログの絵画何度も何度も見ました。
> 感じた事は、自分が少し恥ずかしかったことです。
>
> 実は彼のブログはいつも覗きます、そして自分はポイント要員の自覚逞しく協力している程度です。もちろん興味やら彼の熱心さには敬服しております。
> だけどOTさん程、真剣に、真面目に覗いておりません、何もかも見過ごしていた様に思います。 何もこれは彼のブログを軽視していた訳ではないのですが、捉え方が違っていたのですね!
>
> OTさんのコメントを何度も読む内に、小さなものに対する幅広い捉え方を教わった様に思います。
> 何もかも一生懸命見つめると面白いですネ、またこんな類のコメントを楽しみにしております。
>
> それと詩歌の件ですが、どうも自分で勝手に構えてしまってうまくいきません、素直に詠めばいいとの思いはあるのですが、・・・正直格好つけようとする下種な思いがのさばるんでしょうね。でも人の作られた詩歌に心を奪われ、その状況に浸り、その気になるのはとても好きなんです。 結局見栄がある内は駄目ですかね?
>
> では・・・また。
>
> 2006.7.13. T.U
>
> ----- Original Message -----
> From: "O T"
To: "ese-danshyaku"
> Cc: "e-U T"
> Sent: Monday, July 10, 2006 12:12 PM
> Subject: 光陽展(広島展)によせて(5/6)-2作品テイータイムを鑑賞する、を読んで。
>
>
>> ese-danshyaku殿
>>
>> この作品には光源が4箇所取り込まれています。左手壁の上窓からの強烈な太陽光線、その反対右側からは暖炉の手前側が白く描かれるほどの強烈な照射光があり、マンドリンと花瓶の前にもそれが描かれている。次に、右窓から照射されているであろう光源が暖炉の手前に一箇所あり、その反射光で暖炉の中味が見えるように描かれている。さらにもう一箇所は同じ方向の位置からテーブルの足元を照らしている。
>>
>> 左手壁の上窓からの光源が太陽なら、男爵がご指摘の通り、「人工光源で無い限り、左右まったく異なる方向からの強力な太陽光線が差し込んでくる事は考えられない。自然光に頼って撮影した写真芸術ならば、全く撮影製作不可能な「画面」であるが、絵画という技法により人工的作為により描かれた「作品」なるか」、と感想を書いていますね。同感です。
>>
>> でも、私にはこの作品に、もう一つの大きな不自然さを感じざるをえないのです。確かに4箇所の光源があり、全体が明るい事は感じられますが、実際の環境はどうだったのでしょうか。テーブルの上にあるコーヒー茶碗やポットには光と陰がまったく存在していません。暖炉の側壁のように光を受けている感じは描かれていますが、テーブルの上にある物は全部ベタ状態です。4つの光源が描かれていても陰がないのはなんとも不思議な絵画というか、私にはよく理解できません。しかも、部屋全体がいかにも明るすぎます。4つの光源には必ず陰が存在し、部屋も明るい場所と暗い場所があるはずです。この絵画からはそれらを現実的に感じられません。もう一つ。花ですが、これもどんな花なのか、想像させてくれませんし、花瓶も形が不鮮明でどんな花瓶なのかもよくわかりません。特に花瓶の下部はなにがどうなっているのでしょう。花はそれともアートフラワーなのか?とにかく、よくわかりません。
>>
>> 男爵のコメント「絵画という技法により人工的作為により描かれた『作品』なるか」だとすると、自然観察が無視された、想像で作成されたかもしれないかかる絵画を光陽展(広島展)が採択したのは、いったいどのような芸術性を評価したからか。素人にもわかる、切り込んだ絵画評論が欲しいところです。ご教示願いたく。
>>
>> O T.
<以上、Eメール3通。大学の「先輩OT氏、同級生UT氏、不肖エセ男爵」なる3者間によるメール交信文より転載・・>
----------------------------------------------------
OT先輩には、我が追記の感想文としてEメール返信にて「お答え」しようか!とも、思ったのですが、結局本日午前中、OT先輩宅に突然お電話をおかけし、運良く先輩は在宅中。久しぶり(1年ぶりでしょうか?)に先輩のお声を聞きながら、「我が思い」の追加、電話会話にてお話した次第です。
OT先輩の撮影された写真は昨年の晩秋、拙ブログにて公開している通り、たいへん審美眼正しき晩秋情緒溢れる画像。(晩秋の榛名湖、はたまた草津温泉の画像、是非あらためてのご参照!こちらから入れます)
学生時代から英語は堪能というよりも、すでに群を抜いており学生時代に「通訳資格」試験合格された数少ない秀才。ご自身の能力を活かされた仕事をされ、今尚、専門分野の特殊翻訳作業をなさる「つわもの」。
いつの頃か、趣味にて「俳句」を。なんと、優雅にて侘び寂びの情緒世界を理解される人物です。
英語の達人が、何の因果で俳句の世界へ?そして、我が同級の友UT君も俳句をやっているとか。
そのような御仁との遣り取り、ご披露申し上げたくなったのです。
そして、(本日午前中の電話の会話にて先輩にお伝えした)我輩の「追記説明」?!とは、
1) 実は、先輩と同感にて、左右2箇所の光源以外にもう2箇所の光源の存在を感じつつ、たぶん2箇所の強力な光源から発せられた(壁と床からの)反射光であるか?と、感じつつ、
2) 描かれている絵画の中、複雑なる「光源」の存在なくしては描けない、すなわち「自然光」から逸脱した世界を描かれているわけで、(特に)写真をやっているものにとっては不自然な構図である事、無様極まりないが、それをもって「人工的なる絵画の世界」である。と、不自然さに妥協した「不肖・エセ男爵」自身の存在あること、認めました。
3) 尚、当該作品「ティータイム」は、アイスホッケーのゴール、いやハンドボールのゴールの大きさに匹敵する作品面積(正確なる絵画の号数は、光陽会HPに記載されています)であり、絵画中の各小道具は、微細を通り越して緻密。マンドリン・電話機・ティーセット等々の細部、見事に丁寧に描かれ、道具が多すぎて一度に細部まで鑑賞するには、到底至らず。物理的に不可能なり。と、判断。各小道具に目をやるだけで終日掛かるならば、日を変えて鑑賞すべし。鑑賞する異なる日々それぞれに、異なる角度にて満足できる可能性は大であり、
4) 鑑賞した後の満足感は、絵画の魅力と評価に繋がるものであること、あらためて申し上げた次第です。(たぶん、好き嫌いの世界なのでしょう・・・)しかし、不自然さを感じ始めたら、その瞬間から「その作品」に対し、必ずや「アキ(厭き)」なるもの到来するか。等と、・・・
5) しかししかし、詰まるところ自分自身、絵画は全くの素人なり。本来、絵画評論に及ぶなど恐れ多く、ならばいかにも無知なるを以って、下馬評を論ずるは、作品ティータイムの作者様ならびに審査員の方々に対し無作法なる仕業にて、ひいては「我が無知なるを以って赤恥をかく」顛末に至るを避けるがあまり、感想論評の結論をぼやかした感、無きにしも非ず。。。
などと、電話の直接会話にて、先輩OT氏にご説明申し上げた。
かくして本日、時間は午前から午後に、経過・・・
経過と共に、自分自身の反省材料など内部発覚するから、面白い・・・
つまり、自分自身の「赤恥」が見えてきたのです。
自分自身の芸術感覚に対する教唆、すなわち、精神的内部告発に発展してしまったのです。
そして結論は・・・
先の投稿「志賀直哉小論文・リズム」に於ける、芸術表現に必須なる「作者の勢い」を感じなくなった作品は、いかなる美文であろうと「マンネリズム」に分類され、芸術作品として魅力のない「駄作」に位置するものとして、我が芸術鑑賞感想文としての「詰めの甘さ」を自覚。すなわち修行の足りなさをあらためて認めるものの、さりとて落胆することなく、さらなる修行に励む心意気を、先輩OT氏からご教授頂いた次第です。
<・了・・>
(光陽展鑑賞感想文は、今後二回投稿予定。いよいよ最終項に続きます・・・)
7月3日投稿「作品:ティータイム」の鑑賞感想文(こちらからご参照頂けます)
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(参考資料はこちらから・・)
「光陽会」(会本部ホームページはこちらから入れます。ホームページ内には、今回展覧会作品の受賞作等、もっと上質な画像をご覧になれます)
(撮影場所:広島県立美術館地下特別展示会場・撮影日:本年6月下旬)
昨夜(7月13日)出張先より帰宅して開いた「The Mail」!
2度読み返し、慌てて返信したメールです。
大学先輩OT氏から、大変興味深いご指摘と質問を寄せて下さった。
先の記事、光陽展鑑賞感想文シリーズの関連にて、(一旦、先輩OT氏の許可を得て)記事として投稿する事にいたしました。
以下、『交信メールの記録』です。
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Re.Re.Re: 光陽展(広島展)によせて(5/6)-2作品テイータイムを鑑賞する、を読んで。(昨夜、夜中近くに送信・・)
OT先輩
UTくん
こんばんわ。
メール、大変ありがとうございます。
そしてお詫びです!
日曜日から出張に入り、先ほど広島に戻ってまいりました。
出張中、何故か自分のパソコンのOutlook Express の調子が悪く、メール配信元のOCNBOXから直接受信送信の遣り取りししていた時、誤って、OT先輩から頂いている(10日月曜日付け)のメールも、迷惑メールと一緒に配信元から(根元から)削除してしまったようで、本日帰宅し、たった今、UTから先輩宛メールcc配信を貰って気が付いた次第です。
彼からccメールを送って貰うまで、結果は先輩からのメールを無視且つ削除。ご返事も書いておりませんで、大変申し訳ございません。
あらためてお詫び申します。
不手際、どうかお許し下さい。
さっそく今から、落ち着いて拝読し、改めて明日、お礼と感想の感想メールをお送りさせて頂きたく、どうぞ宜しくお願いします。
不肖エセ男爵 拝
----- Original Message -----
From: "t u" (我が旧友UT氏)
To: "O T" (先輩OT氏)
Cc: "ese-danshyaku
Sent: Thursday, July 13, 2006 10:23 PM
Subject: Re: 光陽展(広島展)によせて(5/6)-2作品テイータイムを鑑賞する、を読んで。
> OT 様
>
> このメール何度も何度も読みました。
> そして「エセ男爵」君のブログの絵画何度も何度も見ました。
> 感じた事は、自分が少し恥ずかしかったことです。
>
> 実は彼のブログはいつも覗きます、そして自分はポイント要員の自覚逞しく協力している程度です。もちろん興味やら彼の熱心さには敬服しております。
> だけどOTさん程、真剣に、真面目に覗いておりません、何もかも見過ごしていた様に思います。 何もこれは彼のブログを軽視していた訳ではないのですが、捉え方が違っていたのですね!
>
> OTさんのコメントを何度も読む内に、小さなものに対する幅広い捉え方を教わった様に思います。
> 何もかも一生懸命見つめると面白いですネ、またこんな類のコメントを楽しみにしております。
>
> それと詩歌の件ですが、どうも自分で勝手に構えてしまってうまくいきません、素直に詠めばいいとの思いはあるのですが、・・・正直格好つけようとする下種な思いがのさばるんでしょうね。でも人の作られた詩歌に心を奪われ、その状況に浸り、その気になるのはとても好きなんです。 結局見栄がある内は駄目ですかね?
>
> では・・・また。
>
> 2006.7.13. T.U
>
> ----- Original Message -----
> From: "O T"
To: "ese-danshyaku"
> Cc: "e-U T"
> Sent: Monday, July 10, 2006 12:12 PM
> Subject: 光陽展(広島展)によせて(5/6)-2作品テイータイムを鑑賞する、を読んで。
>
>
>> ese-danshyaku殿
>>
>> この作品には光源が4箇所取り込まれています。左手壁の上窓からの強烈な太陽光線、その反対右側からは暖炉の手前側が白く描かれるほどの強烈な照射光があり、マンドリンと花瓶の前にもそれが描かれている。次に、右窓から照射されているであろう光源が暖炉の手前に一箇所あり、その反射光で暖炉の中味が見えるように描かれている。さらにもう一箇所は同じ方向の位置からテーブルの足元を照らしている。
>>
>> 左手壁の上窓からの光源が太陽なら、男爵がご指摘の通り、「人工光源で無い限り、左右まったく異なる方向からの強力な太陽光線が差し込んでくる事は考えられない。自然光に頼って撮影した写真芸術ならば、全く撮影製作不可能な「画面」であるが、絵画という技法により人工的作為により描かれた「作品」なるか」、と感想を書いていますね。同感です。
>>
>> でも、私にはこの作品に、もう一つの大きな不自然さを感じざるをえないのです。確かに4箇所の光源があり、全体が明るい事は感じられますが、実際の環境はどうだったのでしょうか。テーブルの上にあるコーヒー茶碗やポットには光と陰がまったく存在していません。暖炉の側壁のように光を受けている感じは描かれていますが、テーブルの上にある物は全部ベタ状態です。4つの光源が描かれていても陰がないのはなんとも不思議な絵画というか、私にはよく理解できません。しかも、部屋全体がいかにも明るすぎます。4つの光源には必ず陰が存在し、部屋も明るい場所と暗い場所があるはずです。この絵画からはそれらを現実的に感じられません。もう一つ。花ですが、これもどんな花なのか、想像させてくれませんし、花瓶も形が不鮮明でどんな花瓶なのかもよくわかりません。特に花瓶の下部はなにがどうなっているのでしょう。花はそれともアートフラワーなのか?とにかく、よくわかりません。
>>
>> 男爵のコメント「絵画という技法により人工的作為により描かれた『作品』なるか」だとすると、自然観察が無視された、想像で作成されたかもしれないかかる絵画を光陽展(広島展)が採択したのは、いったいどのような芸術性を評価したからか。素人にもわかる、切り込んだ絵画評論が欲しいところです。ご教示願いたく。
>>
>> O T.
<以上、Eメール3通。大学の「先輩OT氏、同級生UT氏、不肖エセ男爵」なる3者間によるメール交信文より転載・・>
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OT先輩には、我が追記の感想文としてEメール返信にて「お答え」しようか!とも、思ったのですが、結局本日午前中、OT先輩宅に突然お電話をおかけし、運良く先輩は在宅中。久しぶり(1年ぶりでしょうか?)に先輩のお声を聞きながら、「我が思い」の追加、電話会話にてお話した次第です。
OT先輩の撮影された写真は昨年の晩秋、拙ブログにて公開している通り、たいへん審美眼正しき晩秋情緒溢れる画像。(晩秋の榛名湖、はたまた草津温泉の画像、是非あらためてのご参照!こちらから入れます)
学生時代から英語は堪能というよりも、すでに群を抜いており学生時代に「通訳資格」試験合格された数少ない秀才。ご自身の能力を活かされた仕事をされ、今尚、専門分野の特殊翻訳作業をなさる「つわもの」。
いつの頃か、趣味にて「俳句」を。なんと、優雅にて侘び寂びの情緒世界を理解される人物です。
英語の達人が、何の因果で俳句の世界へ?そして、我が同級の友UT君も俳句をやっているとか。
そのような御仁との遣り取り、ご披露申し上げたくなったのです。
そして、(本日午前中の電話の会話にて先輩にお伝えした)我輩の「追記説明」?!とは、
1) 実は、先輩と同感にて、左右2箇所の光源以外にもう2箇所の光源の存在を感じつつ、たぶん2箇所の強力な光源から発せられた(壁と床からの)反射光であるか?と、感じつつ、
2) 描かれている絵画の中、複雑なる「光源」の存在なくしては描けない、すなわち「自然光」から逸脱した世界を描かれているわけで、(特に)写真をやっているものにとっては不自然な構図である事、無様極まりないが、それをもって「人工的なる絵画の世界」である。と、不自然さに妥協した「不肖・エセ男爵」自身の存在あること、認めました。
3) 尚、当該作品「ティータイム」は、アイスホッケーのゴール、いやハンドボールのゴールの大きさに匹敵する作品面積(正確なる絵画の号数は、光陽会HPに記載されています)であり、絵画中の各小道具は、微細を通り越して緻密。マンドリン・電話機・ティーセット等々の細部、見事に丁寧に描かれ、道具が多すぎて一度に細部まで鑑賞するには、到底至らず。物理的に不可能なり。と、判断。各小道具に目をやるだけで終日掛かるならば、日を変えて鑑賞すべし。鑑賞する異なる日々それぞれに、異なる角度にて満足できる可能性は大であり、
4) 鑑賞した後の満足感は、絵画の魅力と評価に繋がるものであること、あらためて申し上げた次第です。(たぶん、好き嫌いの世界なのでしょう・・・)しかし、不自然さを感じ始めたら、その瞬間から「その作品」に対し、必ずや「アキ(厭き)」なるもの到来するか。等と、・・・
5) しかししかし、詰まるところ自分自身、絵画は全くの素人なり。本来、絵画評論に及ぶなど恐れ多く、ならばいかにも無知なるを以って、下馬評を論ずるは、作品ティータイムの作者様ならびに審査員の方々に対し無作法なる仕業にて、ひいては「我が無知なるを以って赤恥をかく」顛末に至るを避けるがあまり、感想論評の結論をぼやかした感、無きにしも非ず。。。
などと、電話の直接会話にて、先輩OT氏にご説明申し上げた。
かくして本日、時間は午前から午後に、経過・・・
経過と共に、自分自身の反省材料など内部発覚するから、面白い・・・
つまり、自分自身の「赤恥」が見えてきたのです。
自分自身の芸術感覚に対する教唆、すなわち、精神的内部告発に発展してしまったのです。
そして結論は・・・
先の投稿「志賀直哉小論文・リズム」に於ける、芸術表現に必須なる「作者の勢い」を感じなくなった作品は、いかなる美文であろうと「マンネリズム」に分類され、芸術作品として魅力のない「駄作」に位置するものとして、我が芸術鑑賞感想文としての「詰めの甘さ」を自覚。すなわち修行の足りなさをあらためて認めるものの、さりとて落胆することなく、さらなる修行に励む心意気を、先輩OT氏からご教授頂いた次第です。
<・了・・>
(光陽展鑑賞感想文は、今後二回投稿予定。いよいよ最終項に続きます・・・)
7月3日投稿「作品:ティータイム」の鑑賞感想文(こちらからご参照頂けます)
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(参考資料はこちらから・・)
「光陽会」(会本部ホームページはこちらから入れます。ホームページ内には、今回展覧会作品の受賞作等、もっと上質な画像をご覧になれます)
昔から、絵画は人の目に映る者を紙(キャンバス)に残すという要素も大きかったと思います。
写実です。
しかし、現代に於いては写実だけであれば「写真」の技術の急速な進歩によりこれに勝る者はありません。
ただし、これを見るのが人間となるとそうとばかりはいえないのでは無いでしょうか。
人間の感性・能力という物は未だ科学的にも解明しきれていない物ばかりです。
以前の「水の溜まった船」や「鱸」でしたか魚の絵がありましたね。
あの時にもコメントしたような記憶がありますが、
「写真以上に本物らしく見える」という感性を刺激出来るのが絵画だと思います。
逆に、「そりゃぁ無いだろう」という感性を刺激出来るのも絵画では無いでしょうか?
そこには、作者の感じた印象や表現したい物が強く現れる物だと思います。
例えば、犯罪捜査でも使われる「似顔絵」は場合によっては「写真より似ている」と言われます。
実際にはあり得ないはずですが、印象に残る部分が強調される「似顔絵」の方が、人が見ると「似ている」事は希ではありません。
従って私は、絵画は一応に、男爵様の言われる「人工的なる」物だと思っているのです。
「ティータイム」に関しては、まず光は太陽光線のように見えますので基本的に平行光線です。
左右から入っているようですが、壁の物体への反射、窓の外の物体からの反射等もあり得ますので特に不自然さは感じませんでした。
さらにテーブル上に直射光が無いのも入射光の俯角からいって当然であり、壁、床が明るい乱反射する素材であれば、部屋の明るさ、カップなどの影の薄さもあり得ると感じました。
なんか、鑑識みたいになってしまいましたが、理屈はともかく、
私は、何より作者が差し込んだ光に印象を強く受けた結果が表現されていると感じました。
絵を描けない私は、自分の受けた感性を表現できる「画家」の皆さんが大変羨ましく尊敬します。
乱文、暴言、失礼致しました。
暑くて、こんなんでいいのでしょうか。
(^o^)┘
取り急ぎ応援だけしておきます。
失礼いたします。
早めの応援に参りました。
今日も朝から暑いですね
ぽちっ♪
今日、これから出先でも応援できたら
しますね。
それでは。(^_^)/~~~~~~
日付が変わったので本日17日の分の
応援に参りました。
私は、これから寝る事にします
それでは…」ぽちっ♪
そして、
3度熟読し、さらにご返事コメントを如何に書くか?
3日間、迷いました。
読み返せば読み返すほど、
私の「絵画に対する鑑賞方法と思い入れ」は、同一か!
と、思えてなりません。
G殿下の「熱き想い」を拝聴し、感謝!です・・・
もって少し、更なる補足をさせていただければ・・・
本文にも記してありますが、今一度この絵画に描かれてある小道具を紹介すると、
A)マンドリン、
B)電話機、
C)ティーポットをはじめとするティーカップセット、
D)その後ろには、数個の「丸いパン」の配置、
E)暖炉の中央部には洋風花器に「洋風活け花」、
F)洋風花器にしつらえてある活け花は、その花器の下部には果物が盛り付けられ、
大道具的には、
A)まずは暖炉、
B)手前の丸テーブル、
となるのです。
そして、
この作品の(私、個人としての)一番の関心事は、
1)各小道具の描写が、緻密且つ微細であること、
2)いずれを切りとっても「絵画描写」として成立するくらい、
3)各小道具の描写に手抜きがない、
以上、
これを以って、
この作品は十分に観賞価値あるものなのです。
しかし、大きな問題点は、確かに在る!
緻密技巧に富んだ超具象的「写実絵画」であるからこそ発生して来るのではないか!と、思い始めるのです。
まず、
これらの小道具を緻密に描く為には、必ずや光源が必要です。
大道具小道具の種類から推測できる事、まずは欧羅巴の住居の描写である。と、断定できます。
絵画の舞台がヨーロッパであるなら、こういった強い太陽光線を想定できるのは南欧しかありません。まして部屋に暖炉がある部屋と言う想定は、アルプス山脈を境に、北に位置する都市でしかないのでは?と、想定するのです。アルプス以北の都市ならば、住居ならば、こういう強い太陽光線の直接入射する部屋の存在は如何にしても考え付かなく、まして、左右からの太陽光線入射は、不自然すぎるのです。この絵画が緻密微細にして写実絵画であるならばなおさらのこと、光源の方向から照射される物体の、「光り」と「影」の表現に忠実にならなくては小道具(物体)の表現は完成しておらず、さらに遠近法を完璧なまでに取り入れなくてはなりません。
遠近法に関していえば、目線の位置は「暖炉上部」にきっちりとあわされているけれど、したがって「テーブル上部」のティーセットが見下ろされているから、納得できるけれども、距離感覚的には、大きな問題が存在すると考えます。
あまりにもマンドリンと電話機が、手前にあるはずのティーポット及びティーカップの大きさと比較し、大きすぎる。ですから、ここまで技巧を凝らすなら、なぜ?もっと手前に「主題」であるティーセットを持って来なかったのか!
テーブルの位置を、もっと手前に描写すれば、全て済んだものを!!!
と、思うのです。
この点、いかにも残念です。
しかし、若し、ティーセットとテーブルを近くに描写すれば、後部の暖炉上部にあるマンドリンと電話機は、ぼやかした描写を施さねばならず、マンドリンと電話機と活け花の緻密な描写を外したら、この絵画作品は成立しなくなる!
これ、
ここが問題点だと思うのです。
さらにこれだけの強烈な光線が部屋に入るような部屋は、この部屋が建物の屋上にあるペントハウスという想定であれば、可能です。しかし、今度は、ペントハウスに暖炉ありや?普通、屋上のペントハウスには暖炉はないでしょう。
これら全て、私の想像内です。
光源の描写を、鑑賞者が考えたくなる?
もういけません。
そういう疑問を、鑑賞した後さらに抱かせる作品は、良い作品と云えるかかどうか?
そこで「個人の好みの問題」となってくる!
しかしそれで許されるか?
などなど、
あまり考えすぎると、この絵画に対して「飽き」が来る!
この記事について、「ある絵画作家」さんに質問しました。
お答えは、
自分が作家だから、他人の作品の批判は避けたい。と、、、
敢えて言えばしかし、あまり技巧を凝らした作品は、自分の好みではないと・・・
そして、結論は、
当記事の「締めくくり」にも記していますとおり、
私自身、おおよそ「モノカキのハシクレ」にあるならば、評論文書専門のモノカキにはなりたくなく、あくまでも「創造的モノカキ」の範疇に「位置」したいと・・・
あくまでも、ブログ記事は記事、我が作品ではなく、書きたい放題を書いてしまっている・・・
その点、「tonoさんブログ」の目指しておられるブログ目的と共通点ありき!
しかし、
私の場合、「モノカキ」としてわきまえておかねばならぬ謙虚さは必要不可欠かと考えます。
その点は「totoさんブログ」と立場の違う点かも?
などなど、
この3日間、またもや試行錯誤してしまいました。試行錯誤は、我が美術鑑賞精神への「さらなる練磨」に繋がりました。これもまた、tonoさんのコメント下さったおかげなのです。
「八甲田山風・高倉健さん的、心(こころ)or心境」に再度立ち至り、
「案内人殿に、かしら右!」
最敬礼にて、大感謝です。
〆のさらなる「締めくくり」として、
「tonoさん的コメント」を頂き、ほんとうに感謝しております。
また、考えさせられる「コメント」をいただきましたこと、光栄です。
本文より引用:
>そして結論は・・・
先の投稿「志賀直哉小論文・リズム」に於ける、芸術表現に必須なる「作者の勢い」を感じなくなった作品は、いかなる美文であろうと「マンネリズム」に分類され、芸術作品として魅力のない「駄作」に位置するものとして、我が芸術鑑賞感想文としての「詰めの甘さ」を自覚。すなわち修行の足りなさをあらためて認めるものの、さりとて落胆することなく、さらなる修行に励む心意気を、先輩OT氏からご教授頂いた次第です。
(我が先輩OT氏への感謝の気持ち、tonoさんに対しても、同じ心です・・)
すべからく、自分の問題にすり替え、自分の責任として、未熟にしてモノカキ修行の足りない自分の至らなさとして、「この度の美術論争」の責任を締め括り、捉えたく思います。
ありがとうございます。
今後とも、エセ男爵メをご贔屓に、且つ、これに厭きず懲りず、ますます叱咤激励きつい論評下さいますよう、あらためて宜しくお願い申し上げます。
ご返事遅くなり、また皆様一度にご返事など、大変失礼致しまして恐縮です。
申し訳ございません。
出張帰りで宿題抱え、私とした事が、珍しく仕事の整理にまごつきまして、時間、取られてしまいました。
その実、記事更新が精一杯でした。
さて、こうして、いつも、いつも、
みなさまの「お一言」、拝読して元気が出てくるのです。
これに懲りず、今後とも宜しく「一口コメント」宜しくお願いしま~す。
ありがとうございます。
応援、ぽち です。
「一言」を、書き残していただく・・・
本当にうれしいものです。
(コメントバック、遅くなり、たいへん申しわけございません・・・)