
(添付画像:光陽展広島展・「晩夏の浜」)
<作品の紹介>
作品番号: 78
作者氏名: 渡 瀬 泰 志 (会員)
作品題名: 『晩夏の浜』
受賞名: 会員奨励賞
住 所: 静 岡
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先ずは御礼申し上げます。
昨日記事(当日記事のオリジナル投稿)について、いつもながら多くのコメントをお寄せ下さり、たいへんありがとうございます。お寄せいただいたコメントそれぞれの読者様には、毎度ながら個々のコメントのお返しをするところ、一夜考えました。
そして、
コメントをお返しするよりももう一度本日あらためて、昨日関連記事続編を掲載させて頂きたく思いました。読者の皆様、是非もう一度、異なる視点と感性から、作品「晩夏の浜」をご紹介申し上げるに至りました事、どうぞ宜しくご了承頂きます様お願い申し上げます。
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さて、
昨日の添付画像は、本日の画像(オリジナル)から「明るさ」と「コントラスト」を増加し、さらに緑色と青色の「ガンマ値」をわずか10%程度増感したものである。
加えて繰り返すが、本日の画像が、当日撮影のオリジナル版である。
さて、こうして比較してみると、いかにも本日の画像全体は灰色に呆け、昨日の画像より鮮明さに欠ける。もって、昨日の画像はトリミングされたものであるけれども、鑑賞者の「当日のイメージ」により近い「作品イメージ」を追求した結果、上述内容での「画像調整」に至ったものである。
やはり昨日画像の方が、緑と青の色調と全体のバランス、美術館展示中のものを「回想」するに、昨日の青と緑の色調に近いものであること、明らかである。
したがって、究めつけは、
こうして異なる画像を比較しても、水面及び背景に漂う赤色系等の色調は、本来存在するものである。と、確認できる。
すでに昨日記事にて、この絵画の製作背景ならびに作者の製作意図など、鑑賞者の眼で追及し、思いを馳せた。
しかしながら、美意識、感性と感受性、美術表現に対する人間の反応は、それこそ千差万別にて、1千人の鑑賞者に1千通りの異なる評価と異なる判断は可能となる。
しかし、この絵画の中の小舟、誰が見ても「廃船」に見える。なぜなら、本来無いところに水がある。すなわち「舟の内壁内部」に水が溜まっている。しかも、夕立でふった水が溜まった程度にしては多すぎる水であるから、すでに廃船となった舟、放置されている舟に溜まった水。と、推測するのが妥当であると思う。
昨日の最後の「くだり」、すなわち、小舟を「茶器」に例え、中の溜まった水を「茶の湯」に喩えた「くだり」。について、あまりにも、過ぎる喩え(例え)かも知れない。破棄されたものに溜まっている水を(茶の湯に喩えて)飲むなんて、度が過ぎているかもしれない。しかし、あえてそう感じたい意識が、なぜか作用した。
壊れていくものに対する「美」意識。
廃棄物に対する「あわれさ」を感じる感性。
たしかに、あると思う。この絵の中にある。そして鑑賞者自身、鑑賞後の当初は、そう感じた。今もその印象は残っている。
この絵画を観ていて、なぜかしかし、上記のような感情を持たくない鑑賞者が、今、ここにいる。
滅んでいくもの、壊れていくもの、破棄され、捨て去られて往くものに対する「同情」や「あわれさ」、あるいは美しさを感じない「鑑賞者」、この絵からは「上述の印象」を受けない鑑賞者、今まさに、ここに存在する。。。
何故か、なぜに、そう感じないか・・・
理由を見つけ出している。
何度見ても、この水は腐っていないし、生き生きしている。小舟の船体の小さな空間、数週間あるいはそれ以上の時間、この体積の内部に閉じ込められた「腐った水」には見えてこない。少なくとも我輩の眼には、そう写るのである。加えて、廃船は幾度か見ている。廃船の惨たらしさは、生に直視している。そして、この絵からは、その無残さと荒涼さは感じない。
究めつけは、若し、この小舟が廃船ならば、このように水をたたえるだけの気密性は既に無いはず、ならば、この水も溜まらない。加えて、背景に見える木造船は現役船であり、廃船ではない。廃船ならば、かのように地面に対して垂直に、木造船を浜に引き上げ、管理しない。
さあ、もう一度、この絵画を観て頂きたい。そして再度、この作品の作者に謝辞とエールをお贈りしたい・・・
*渡瀬泰志氏作品「晩夏の浜」、たぐいまれなる水面(みなも)表現の絵画芸術。
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(参考資料はこちらから・・)
(前回掲載「光陽展」鑑賞感想記事はこちらから入れます。)
「光陽会」(会本部ホームページはこちらから入れます。ホームページ内には、今回展覧会作品の受賞作等、もっと上質な画像をご覧になれます)
<作品の紹介>
作品番号: 78
作者氏名: 渡 瀬 泰 志 (会員)
作品題名: 『晩夏の浜』
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先ずは御礼申し上げます。
昨日記事(当日記事のオリジナル投稿)について、いつもながら多くのコメントをお寄せ下さり、たいへんありがとうございます。お寄せいただいたコメントそれぞれの読者様には、毎度ながら個々のコメントのお返しをするところ、一夜考えました。
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さて、
昨日の添付画像は、本日の画像(オリジナル)から「明るさ」と「コントラスト」を増加し、さらに緑色と青色の「ガンマ値」をわずか10%程度増感したものである。
加えて繰り返すが、本日の画像が、当日撮影のオリジナル版である。
さて、こうして比較してみると、いかにも本日の画像全体は灰色に呆け、昨日の画像より鮮明さに欠ける。もって、昨日の画像はトリミングされたものであるけれども、鑑賞者の「当日のイメージ」により近い「作品イメージ」を追求した結果、上述内容での「画像調整」に至ったものである。
やはり昨日画像の方が、緑と青の色調と全体のバランス、美術館展示中のものを「回想」するに、昨日の青と緑の色調に近いものであること、明らかである。
したがって、究めつけは、
こうして異なる画像を比較しても、水面及び背景に漂う赤色系等の色調は、本来存在するものである。と、確認できる。
すでに昨日記事にて、この絵画の製作背景ならびに作者の製作意図など、鑑賞者の眼で追及し、思いを馳せた。
しかしながら、美意識、感性と感受性、美術表現に対する人間の反応は、それこそ千差万別にて、1千人の鑑賞者に1千通りの異なる評価と異なる判断は可能となる。
しかし、この絵画の中の小舟、誰が見ても「廃船」に見える。なぜなら、本来無いところに水がある。すなわち「舟の内壁内部」に水が溜まっている。しかも、夕立でふった水が溜まった程度にしては多すぎる水であるから、すでに廃船となった舟、放置されている舟に溜まった水。と、推測するのが妥当であると思う。
昨日の最後の「くだり」、すなわち、小舟を「茶器」に例え、中の溜まった水を「茶の湯」に喩えた「くだり」。について、あまりにも、過ぎる喩え(例え)かも知れない。破棄されたものに溜まっている水を(茶の湯に喩えて)飲むなんて、度が過ぎているかもしれない。しかし、あえてそう感じたい意識が、なぜか作用した。
壊れていくものに対する「美」意識。
廃棄物に対する「あわれさ」を感じる感性。
たしかに、あると思う。この絵の中にある。そして鑑賞者自身、鑑賞後の当初は、そう感じた。今もその印象は残っている。
この絵画を観ていて、なぜかしかし、上記のような感情を持たくない鑑賞者が、今、ここにいる。
滅んでいくもの、壊れていくもの、破棄され、捨て去られて往くものに対する「同情」や「あわれさ」、あるいは美しさを感じない「鑑賞者」、この絵からは「上述の印象」を受けない鑑賞者、今まさに、ここに存在する。。。
何故か、なぜに、そう感じないか・・・
理由を見つけ出している。
何度見ても、この水は腐っていないし、生き生きしている。小舟の船体の小さな空間、数週間あるいはそれ以上の時間、この体積の内部に閉じ込められた「腐った水」には見えてこない。少なくとも我輩の眼には、そう写るのである。加えて、廃船は幾度か見ている。廃船の惨たらしさは、生に直視している。そして、この絵からは、その無残さと荒涼さは感じない。
究めつけは、若し、この小舟が廃船ならば、このように水をたたえるだけの気密性は既に無いはず、ならば、この水も溜まらない。加えて、背景に見える木造船は現役船であり、廃船ではない。廃船ならば、かのように地面に対して垂直に、木造船を浜に引き上げ、管理しない。
さあ、もう一度、この絵画を観て頂きたい。そして再度、この作品の作者に謝辞とエールをお贈りしたい・・・
*渡瀬泰志氏作品「晩夏の浜」、たぐいまれなる水面(みなも)表現の絵画芸術。
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(前回掲載「光陽展」鑑賞感想記事はこちらから入れます。)
「光陽会」(会本部ホームページはこちらから入れます。ホームページ内には、今回展覧会作品の受賞作等、もっと上質な画像をご覧になれます)
港の風景、荒涼とした港や船を描きたがる絵描きの「友人」がいます。
一度彼にあって訪ねてみましょう。
なぜ、
港町を描くのか?
なぜ、荒涼とした浜辺を描くのが好きなのか?・・・
なぜなら、よく見ると「スクリュー」が取り外されている。
もう、動かせない・・・
スクリューなくば、もう、海上は走れない・・・
こちらの方が好きです。
溜まった水の写り込みは、昨日版よりずっと夕日の明るさを感じるんですよ。
そして、実際に赤の成分は逆かも知れないですが、寧ろ赤く感じるんです。
後ろの船の喫水塗装もですね、より赤く感じます。
とても不思議です。
人の目って勝手なもんですね。(私の目だけかも)
色々感じていた違和感が吹っ飛んだ様な気がします。
いやいや、
よく理解できました。
たぶん、
私の使っているPCの画面と、tonoさんご使用の機材と、色んな意味で照度と鮮度が違うのでしょう。
私のPCですと、これ白けて全く展覧会当日の印象よりも違うのです。
本日、
もう一度(午後9時頃までに)広島展のこの画面を倍くらい遠距離から取ったものを掲載しようと思います。これも、照度その他調整せずに「掲載」してみます。是非、見比べてください。
確かに昨日の方はっきりして見えますね。
PCもそうですか写真の撮り方(光の入り方)でも見え方は変わるでしょうね。