Nさんは大手電機メーカーを
定年退職した後、神戸の
小さな貿易会社で経理仕事を
続けて後任の育成に励んでいた。
後任者に仕事を引き継いで
いる最中に背中に激痛が走り
Aさんは病に伏せてしまった。
気がついた時には末期癌で
あったらしい。
この知らせを聞いて私は
お見舞いに彼の自宅へ
向かった。
冬のどんよりとした空だった。
市街地から離れた山間部の峡谷
のような場所にかつてのニュー
タウンで開発されたマンション
の高層群があり、その一画に
彼の自宅のマンションが建って
いた。
天候や周りの古びてしまった
白亜の高層マンション群の合間
の坂道をトボトボと登ろうと
する私の足どりは重かった。
「今日の再会が最後かもしれ
ない」「一体何を話せばいいの
だろうか」混沌とした頭で
彼の自宅の玄関に立った。
Nさんは温かく出迎えてくれた。
彼の奥さんも穏やかな人柄の
優しい方だった。
何気ない会話が弾んできた時
キュルキュルと音が鳴った。
音の発信は彼の身体の中
であった。
キュルキュルという音の間隔
がだんだん短くなりこれ以上
の滞在は負担になると思い、
会話に区切りをつけた。
マンションのエレベーターまで
Nさんと一緒に歩いた。
私はエレベーターに乗り込み、
深々と頭を下げた。
エレベーターのドアが閉まり
動き出して顔を上げた瞬間に
扉の向こうのNさんの顔が
目に止まった。
その時の表情は先程まで部屋で
彼の姿とは全く異なっていた。
彼の眼差しが何を語っていた
のかはここで言うまでもない。
私はその時の彼の眼差しを
生涯忘れることはないだろう。