アシスタント時代のネタをひとつ。
カメラマンのアシスタントをしていた22歳のころ、
ボクは丸の内線東高円寺駅から徒歩5分のアパートに暮らしていた。
初めての純然たる一人暮らしスタートの地だ。
学生時代にいた高円寺の一軒家は、父の会社の社宅であったから、
平屋で庭も大きく、間取りもゆとりがあったが、
その東高円寺のアパートは、それはそれは見事な造りだった。
記念碑的な造りと言っていい。
今じゃ、おそらく考えられないほどの安普請だった。
耐震強度偽装問題がその時代に騒がれていたら、どうなっていたのだろう。
少しは冷静に、住まいのことを見直していたかも知れない。
とにかく、当時のボクは気が触れていた。
とことん自分を追い込んで、ストイックに生きることが
己に課せられた至上命題だとでも言うように、辺境の生き方を求めていた。
だから東高円寺のアパートも、かなりのキワモノだった。
風呂なし便所付き6畳一間、2階角部屋、西日入り。月々4.4万円。
当時の高円寺は、銭湯花盛り、夜中の2時まで開いているところもあったので、
「風呂なし」は、取り立てて苦にはならなかった。
カメラマンアシスタントは泊まり込みも頻繁だから好都合…ぐらいに捉えていた。
2階の角部屋で、西日とはいえ、日当たりもいい。
たまの休みに、窓辺で音楽に耳を傾け、自分の時間を楽しめるかもしれない。
ベランダはないけど、洗濯物も干せそうだ。分相応な物件じゃないか?
不動産周りをしていた3月。考えてみれば、ちょうど今頃かもしれない。
21歳のボクは、これから始まるストイックなアシスタント生活を、
自分なりに真摯に受け止め、分相応な場所…収入に見合った謙虚な佇まいを求めていた。
「住めば都」とは、よく言ったモノだ。
謙虚に、質素に、分相応に…と、
自分をひとつの型に納めるように選んだその場所は、
絵に描いたように…最悪な住まい…だった。
まず、2階がまずかった。
安普請のアパートは、共同生活であることを思い知らされた。
⇒床が薄いのだ。
歩くと、ミシミシ音が鳴った。
それがまずかった。
夜は相当、気を遣うことになった。
ミシ、ミシ、ミシ。…ミシ、ミシ…ミシ、ミシ…、ミシ…、ミシ、どん。
そうっと、そうっと、そうっと、歩いているにもかかわらず、音がなった。
これはまいった。
息をこらして、歩いた。歩き方や、歩く場所を工夫して、音のならない方法を考えた。
だめだった。
ある地点にくると、大きく梁が湾曲するのだろう、ミシミシっっっっ…と音がこだました。
すると、下階の住人が、だまってなかった。
ドン、ドン、ドン、と棒のようなもので、天井を突く音が聞こえた。
ミシ、ドン!ミシ、ドン!ミシ、ドン!。
…忍者の気分だった。屋敷に忍び込んで、天井裏に潜んでいる自分を想像した。
家主が、天井に向かって槍を突いているシーンだ。
生きた心地がしなかった。家に帰ってきても、これじゃ身動きがとれない。
こんなに神経をすり減らして、忍び足で歩いていたら、いつか破綻する。
ボクはさっそく畳をはがして、床板を補強する対策に出た。
ミシミシ音のする場所を探し当て、重点的にガムテープで補強し、古新聞を敷き詰めた。
畳が2センチほど高くなった。…かまわない、存命措置だ。
ミシミシが、(ミシミシ)ぐらいの音になった。
…階下はなんとか、クリア。
問題は、となりだった。
トイレは共同ではなく、各間取りに据え付けられていた。
だが水回りは構造上、まとめて設計するのが、効率的なのだろう。
明らかにトイレのカタチがおかしかった。
ドアを開けると、トイレの空間が三角形なのだ。
上から見ると、わかりやすいかもしれない。
正方形の対角線を結ぶと、それぞれが三角形で等分される。
平行する二辺を扉と捉えると、そこは三角形の空間になる。
対角線を結ぶ長辺がとなりを隔てる壁となる。
長辺をはさんで、四角い空間に和式トイレが、ふたつ。
なぜ、それが明らかになったか。答えは簡単だ。……壁がうすいのだ。
となりの気配がわかるほどの「うすさ」なのだ。
となりの住人は、60歳を過ぎた孤独な夜間警備員だった。
2日に一度のサイクルで、夜中のお勤めをしていた。
だから、一日おきに天国と地獄がやってきた。
60歳を過ぎた身寄りのない孤独な老人を想像してみてほしい。
そんな安普請のアパートに一人で暮らす、孤独な老人の楽しみはなんだ?
…酒だ、酒以外には、ない。おまけに壁がうすい…と来た。
老人は昼夜逆転の生活。一日おきだから、夜はやることがない。
酒を呑むと、やがて人恋しくなる。話をしたくなる。
当然、独り言が増える。声もだんだん、大きくなってくる。
壁がうすいから、手に取るように状況が伝わってくる。
テーブルに一升瓶をどすんと置く。ちょろちょろ酒をそのまま注ぐ。
サキイカを食べる。豆のたぐいを小皿に分ける。タバコに火をつける。
壁一枚隔てた老人の、一挙手一投足が、透視のように、こちらに伝わってくる。
…ぶつぶつ何かを言っている。…酒を呑むノドが鳴る。
壁越しに伝わってくる異様な雰囲気に、ボクは戦々恐々となる。
事態はいよいよ深刻だった。ボクは身動きひとつせず、息を潜めて気配を殺した。
かといって、生理的な欲求までは、我慢ができない。
…夜中にボクは、トイレに行きたくなる。
四角い空間を対角線で分けたトイレに、忍び足で向かう。
輪唱のように、となりの部屋でも歩く気配がする。
静かに、トイレの扉を開ける。蝶番がぎーっと、音を立てる。
電気を点けると、壁の隙間から灯りが漏れてしまうから、暗闇で的を絞って、用をたす。
…ちょろちょろ、と小便が便器に当たる。…と、またしても輪唱のように、壁越しに音が聞こえる。
…ちょろちょろちょろ、(…ちょろちょろちょろ)、…ちょろちょろちょろ、(…ちょろちょろちょろ)。
やがて、恐るべき事態を迎える。ボクは壁越しに、隣人に話しかけられたのだ。
「bozzoくん、呑みに来んか。」
…小便が、ぴたっと止まる。固唾を呑む。ゴクリと、大きな音が三角形の空間に響いた。
とにかく、何事もなかったように、とにかく、できるだけ気配が伝わらないよう、その場を離れる。
空耳だ、今のは空耳なんだ、壁越しに聞こえたのは、外の酔っぱらいか何かだ。
ちょっとくぐもって、耳元で囁かれたような、変な感じだけど、夜中だし、真っ暗だし、
あまり深く考えないほうがいい。ここは、布団に潜り込んで、朝まで眠ることだ。
…なんでもない、なんでもないんだ。夢だ、空耳だ。…何も考えるな。
結局、ボクはその安普請のアパートで、2年の月日を過ごした。
環境に順応する人間の能力というのは、すごいもので、
ミシミシ言う床も、コツさえつかめば、静かに移動できた。…ワザとミシミシ言わせる時もあった。
壁越しの受け応えも、平気でするようになった。ぶつぶつ言うやつには、ぶつぶつ言って、対抗した。
壁をどんどん叩いて、文句を言うこともあった。
人間、図太く生きることは可能だ。安普請のアパートでボクは、それを学んだ。
カメラマンのアシスタントをしていた22歳のころ、
ボクは丸の内線東高円寺駅から徒歩5分のアパートに暮らしていた。
初めての純然たる一人暮らしスタートの地だ。
学生時代にいた高円寺の一軒家は、父の会社の社宅であったから、
平屋で庭も大きく、間取りもゆとりがあったが、
その東高円寺のアパートは、それはそれは見事な造りだった。
記念碑的な造りと言っていい。
今じゃ、おそらく考えられないほどの安普請だった。
耐震強度偽装問題がその時代に騒がれていたら、どうなっていたのだろう。
少しは冷静に、住まいのことを見直していたかも知れない。
とにかく、当時のボクは気が触れていた。
とことん自分を追い込んで、ストイックに生きることが
己に課せられた至上命題だとでも言うように、辺境の生き方を求めていた。
だから東高円寺のアパートも、かなりのキワモノだった。
風呂なし便所付き6畳一間、2階角部屋、西日入り。月々4.4万円。
当時の高円寺は、銭湯花盛り、夜中の2時まで開いているところもあったので、
「風呂なし」は、取り立てて苦にはならなかった。
カメラマンアシスタントは泊まり込みも頻繁だから好都合…ぐらいに捉えていた。
2階の角部屋で、西日とはいえ、日当たりもいい。
たまの休みに、窓辺で音楽に耳を傾け、自分の時間を楽しめるかもしれない。
ベランダはないけど、洗濯物も干せそうだ。分相応な物件じゃないか?
不動産周りをしていた3月。考えてみれば、ちょうど今頃かもしれない。
21歳のボクは、これから始まるストイックなアシスタント生活を、
自分なりに真摯に受け止め、分相応な場所…収入に見合った謙虚な佇まいを求めていた。
「住めば都」とは、よく言ったモノだ。
謙虚に、質素に、分相応に…と、
自分をひとつの型に納めるように選んだその場所は、
絵に描いたように…最悪な住まい…だった。
まず、2階がまずかった。
安普請のアパートは、共同生活であることを思い知らされた。
⇒床が薄いのだ。
歩くと、ミシミシ音が鳴った。
それがまずかった。
夜は相当、気を遣うことになった。
ミシ、ミシ、ミシ。…ミシ、ミシ…ミシ、ミシ…、ミシ…、ミシ、どん。
そうっと、そうっと、そうっと、歩いているにもかかわらず、音がなった。
これはまいった。
息をこらして、歩いた。歩き方や、歩く場所を工夫して、音のならない方法を考えた。
だめだった。
ある地点にくると、大きく梁が湾曲するのだろう、ミシミシっっっっ…と音がこだました。
すると、下階の住人が、だまってなかった。
ドン、ドン、ドン、と棒のようなもので、天井を突く音が聞こえた。
ミシ、ドン!ミシ、ドン!ミシ、ドン!。
…忍者の気分だった。屋敷に忍び込んで、天井裏に潜んでいる自分を想像した。
家主が、天井に向かって槍を突いているシーンだ。
生きた心地がしなかった。家に帰ってきても、これじゃ身動きがとれない。
こんなに神経をすり減らして、忍び足で歩いていたら、いつか破綻する。
ボクはさっそく畳をはがして、床板を補強する対策に出た。
ミシミシ音のする場所を探し当て、重点的にガムテープで補強し、古新聞を敷き詰めた。
畳が2センチほど高くなった。…かまわない、存命措置だ。
ミシミシが、(ミシミシ)ぐらいの音になった。
…階下はなんとか、クリア。
問題は、となりだった。
トイレは共同ではなく、各間取りに据え付けられていた。
だが水回りは構造上、まとめて設計するのが、効率的なのだろう。
明らかにトイレのカタチがおかしかった。
ドアを開けると、トイレの空間が三角形なのだ。
上から見ると、わかりやすいかもしれない。
正方形の対角線を結ぶと、それぞれが三角形で等分される。
平行する二辺を扉と捉えると、そこは三角形の空間になる。
対角線を結ぶ長辺がとなりを隔てる壁となる。
長辺をはさんで、四角い空間に和式トイレが、ふたつ。
なぜ、それが明らかになったか。答えは簡単だ。……壁がうすいのだ。
となりの気配がわかるほどの「うすさ」なのだ。
となりの住人は、60歳を過ぎた孤独な夜間警備員だった。
2日に一度のサイクルで、夜中のお勤めをしていた。
だから、一日おきに天国と地獄がやってきた。
60歳を過ぎた身寄りのない孤独な老人を想像してみてほしい。
そんな安普請のアパートに一人で暮らす、孤独な老人の楽しみはなんだ?
…酒だ、酒以外には、ない。おまけに壁がうすい…と来た。
老人は昼夜逆転の生活。一日おきだから、夜はやることがない。
酒を呑むと、やがて人恋しくなる。話をしたくなる。
当然、独り言が増える。声もだんだん、大きくなってくる。
壁がうすいから、手に取るように状況が伝わってくる。
テーブルに一升瓶をどすんと置く。ちょろちょろ酒をそのまま注ぐ。
サキイカを食べる。豆のたぐいを小皿に分ける。タバコに火をつける。
壁一枚隔てた老人の、一挙手一投足が、透視のように、こちらに伝わってくる。
…ぶつぶつ何かを言っている。…酒を呑むノドが鳴る。
壁越しに伝わってくる異様な雰囲気に、ボクは戦々恐々となる。
事態はいよいよ深刻だった。ボクは身動きひとつせず、息を潜めて気配を殺した。
かといって、生理的な欲求までは、我慢ができない。
…夜中にボクは、トイレに行きたくなる。
四角い空間を対角線で分けたトイレに、忍び足で向かう。
輪唱のように、となりの部屋でも歩く気配がする。
静かに、トイレの扉を開ける。蝶番がぎーっと、音を立てる。
電気を点けると、壁の隙間から灯りが漏れてしまうから、暗闇で的を絞って、用をたす。
…ちょろちょろ、と小便が便器に当たる。…と、またしても輪唱のように、壁越しに音が聞こえる。
…ちょろちょろちょろ、(…ちょろちょろちょろ)、…ちょろちょろちょろ、(…ちょろちょろちょろ)。
やがて、恐るべき事態を迎える。ボクは壁越しに、隣人に話しかけられたのだ。
「bozzoくん、呑みに来んか。」
…小便が、ぴたっと止まる。固唾を呑む。ゴクリと、大きな音が三角形の空間に響いた。
とにかく、何事もなかったように、とにかく、できるだけ気配が伝わらないよう、その場を離れる。
空耳だ、今のは空耳なんだ、壁越しに聞こえたのは、外の酔っぱらいか何かだ。
ちょっとくぐもって、耳元で囁かれたような、変な感じだけど、夜中だし、真っ暗だし、
あまり深く考えないほうがいい。ここは、布団に潜り込んで、朝まで眠ることだ。
…なんでもない、なんでもないんだ。夢だ、空耳だ。…何も考えるな。
結局、ボクはその安普請のアパートで、2年の月日を過ごした。
環境に順応する人間の能力というのは、すごいもので、
ミシミシ言う床も、コツさえつかめば、静かに移動できた。…ワザとミシミシ言わせる時もあった。
壁越しの受け応えも、平気でするようになった。ぶつぶつ言うやつには、ぶつぶつ言って、対抗した。
壁をどんどん叩いて、文句を言うこともあった。
人間、図太く生きることは可能だ。安普請のアパートでボクは、それを学んだ。