柴田元幸氏サリンジャー追悼記事の一節に触れて以来、
頭の中が悶々としていた。言葉にならない「違和感」への〈異和〉感だ。
その間「朝のお務め」を繰り返し、
予約していた歯医者へ行って、思考(歯垢)のクリーニングも施しながら、
雲間の晴れるのを今か今かと待っていた。
ま、こんな時は本人の著作を読んでみるのが一番…と
地元の城東図書館へ行ってサリンジャーの文献でも漁ろうかと本棚を巡っていたら、
…吉本隆明氏の「島尾敏雄」論と鉢合わせた。
サリンジャーから島尾敏雄(吉本隆明)へ。
アメリカと日本の同時代の作家。
島尾敏雄 1917年04月18日生まれ。
サリンジャー 1919年01月01日生まれ。91歳。
吉本隆明 1924年11月25日生まれ。85歳。
島尾敏雄も生きていれば93歳だ。まさに同時代の作家たち。
この3人に横たわる史実といえば、「The World War 2」。
●
島尾は1944年に第一回魚雷艇学生となり、特攻要員として奄美諸島加計呂麻島へ送り出される。
そして、特攻出撃の瞬間に立ち会いながらも赴くことなく、1945年敗戦を迎えた。
同じくサリンジャーも1944年ドイツノルマンディー上陸作戦への一兵士として激戦地に送られ、
ドイツ降伏後は神経衰弱となり、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。
どちらも「わたし」の死を覚悟し、「世界」を正面から受け止め、
…そして裏切られた、極限の精神世界を体験している。
「わたし」と「世界」との関係が、相思相愛の均衡を保ったカタチではなく、
自分の意志とは無関係のところで抛擲され、なじられる。
いっそのこと「死」を成就させてくれればいいようなものの、
「世界」は「わたし」をそのまま放置して、行ってしまう。
…その時、「わたし」は悟る。
「わたし」が今居る「世界」は、「わたし」のあるなしに関わらず存続しつづけている…という事実。
なにかが突然やってくるかも知れないという認識は、この「世界」に生きて遭遇する事件の契機が
「わたし」の側に由来するものと、「世界」の側に由来するものとふたつあり、
このふたつはそれぞれ別個の系列に属しているということに目覚めることを意味している。
「わたし」が「わたし」という系列をこの「世界」から選べば、
「世界」のほうも「わたし」とかかわりのない系列から「わたし」に出会うにちがいないのだ。
〈「島尾敏雄」吉本隆明著〉
●
「わたし」が描く「世界」の幻想と、「世界」が描く「わたし」の幻想と。
柴田氏の一節は、この「生きる違和感」を指している…とボクは考えた。
●
ふたつの幻想(吉本氏は別個の系列…と表現しているが)を近づけるべく、
「わたし」たちは常日頃から意識的に「世界」につながることを怠らない。
TwitterをはじめとするSocial Networkは、その最たるものだろう。
しかし、その〈異和〉を薄めること(「世界」に寄り添うこと)は出来ても、
〈異和〉そのものを呑み込むことは決して出来ない。
…なぜなら「わたし」は「世界」とは別の次元で存在するからである。
村上春樹の傑作「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は、
その「わたし」と「世界」の位相をひとつにまとめた話だ。
「わたし」の頭の中に「世界」が横たわり、
「世界」の消滅を「わたし」が掌握する。
結局、「世界」ってなんだろう。
「わたし」が滅してしまえば、そこから先は〈異和〉もへったくれもありゃしない。
「世界」と張り合って「わたし」を深めようとアイデンティティへ固執したところで、
「わたし」は「世界」を呑み込むことはできないし、「世界」を終わらせることは出来ないのだ。
この〈異和〉とは、生涯付き合うしかないのだ。
「やれやれ。…またくだらない自家撞着に陥っている。」
頭の中が悶々としていた。言葉にならない「違和感」への〈異和〉感だ。
その間「朝のお務め」を繰り返し、
予約していた歯医者へ行って、思考(歯垢)のクリーニングも施しながら、
雲間の晴れるのを今か今かと待っていた。
ま、こんな時は本人の著作を読んでみるのが一番…と
地元の城東図書館へ行ってサリンジャーの文献でも漁ろうかと本棚を巡っていたら、
…吉本隆明氏の「島尾敏雄」論と鉢合わせた。
サリンジャーから島尾敏雄(吉本隆明)へ。
アメリカと日本の同時代の作家。
島尾敏雄 1917年04月18日生まれ。
サリンジャー 1919年01月01日生まれ。91歳。
吉本隆明 1924年11月25日生まれ。85歳。
島尾敏雄も生きていれば93歳だ。まさに同時代の作家たち。
この3人に横たわる史実といえば、「The World War 2」。
●
島尾は1944年に第一回魚雷艇学生となり、特攻要員として奄美諸島加計呂麻島へ送り出される。
そして、特攻出撃の瞬間に立ち会いながらも赴くことなく、1945年敗戦を迎えた。
同じくサリンジャーも1944年ドイツノルマンディー上陸作戦への一兵士として激戦地に送られ、
ドイツ降伏後は神経衰弱となり、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。
どちらも「わたし」の死を覚悟し、「世界」を正面から受け止め、
…そして裏切られた、極限の精神世界を体験している。
「わたし」と「世界」との関係が、相思相愛の均衡を保ったカタチではなく、
自分の意志とは無関係のところで抛擲され、なじられる。
いっそのこと「死」を成就させてくれればいいようなものの、
「世界」は「わたし」をそのまま放置して、行ってしまう。
…その時、「わたし」は悟る。
「わたし」が今居る「世界」は、「わたし」のあるなしに関わらず存続しつづけている…という事実。
なにかが突然やってくるかも知れないという認識は、この「世界」に生きて遭遇する事件の契機が
「わたし」の側に由来するものと、「世界」の側に由来するものとふたつあり、
このふたつはそれぞれ別個の系列に属しているということに目覚めることを意味している。
「わたし」が「わたし」という系列をこの「世界」から選べば、
「世界」のほうも「わたし」とかかわりのない系列から「わたし」に出会うにちがいないのだ。
〈「島尾敏雄」吉本隆明著〉
●
「わたし」が描く「世界」の幻想と、「世界」が描く「わたし」の幻想と。
柴田氏の一節は、この「生きる違和感」を指している…とボクは考えた。
●
ふたつの幻想(吉本氏は別個の系列…と表現しているが)を近づけるべく、
「わたし」たちは常日頃から意識的に「世界」につながることを怠らない。
TwitterをはじめとするSocial Networkは、その最たるものだろう。
しかし、その〈異和〉を薄めること(「世界」に寄り添うこと)は出来ても、
〈異和〉そのものを呑み込むことは決して出来ない。
…なぜなら「わたし」は「世界」とは別の次元で存在するからである。
村上春樹の傑作「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は、
その「わたし」と「世界」の位相をひとつにまとめた話だ。
「わたし」の頭の中に「世界」が横たわり、
「世界」の消滅を「わたし」が掌握する。
結局、「世界」ってなんだろう。
「わたし」が滅してしまえば、そこから先は〈異和〉もへったくれもありゃしない。
「世界」と張り合って「わたし」を深めようとアイデンティティへ固執したところで、
「わたし」は「世界」を呑み込むことはできないし、「世界」を終わらせることは出来ないのだ。
この〈異和〉とは、生涯付き合うしかないのだ。
「やれやれ。…またくだらない自家撞着に陥っている。」