東京デスロック、多田さんの演出を初めて体験。
2時間混じりっ気なしのスピーチオンパレード。
公けにされたスピーチから、Twitterのつぶやきまで、
現代ならネット上で検索すればテキストが取れるものばかり。
その構成の妙だけで、観る者に何かを残していく舞台。
とてつもない分量の文字数、コトバ、コトバ、コトバ。
そのコトバの軽重をふくめ、ひたすら全身で受け止める。
いったいコトバとはなんだろう?
多くの人は(ボクも含めて)コトバは思考の道具であり、
すべての語には明確な意味があり、
すべての文は語の意味を結合することで意味づけられるとし、
語彙の多さや統辞法の習得力によって、
思考の観念に近づけられると考えている。
つまり、コトバはテクニックである…と。
だからこそコピペが繰り返され、
表層的な装いを施した美辞麗句でもって
同じような「感謝の気持ち」が新婦の手紙に綴られるのだ。
しかし、これだけの文字量をそれぞれの役者の声として浴びていると、
入ってくるコトバ、入ってこないコトバが明確にわかるようになる。
コトバの根源性といったものに分別がつくようになる…といおうか。
メルロ=ポンティは
「コトバを語るということは、ちょうど陽射しが強ければおのずと帽子に手をやるように、
コトバの素材である音響が、身体の経験する世界の全体的様相に呼応することである。
コトバの明晰さとは、帽子のあるところに手をすぐ伸ばすことができるような、
身体的動作の確実さと同じものである」と語っている。
事物や観念の世界といったものは、
コトバの意味を使って組み立てられたフィクションであり、
コトバとは本来、世界からの問いかけに
カラダが感応することで生まれる「しぐさ」と同等のものだとした。
これだけコトバが記号としてあふれてしまった現代社会では、
彼のコトバは虚空に行き場を失うようであるけれど、
身体あってのコトバ…といった思考に立ち返る意味でも、
多田さんの組み上げた2時間は、貴重な体験であった。
わたしたちはもっともっと、
世界という空間における自分の存在の関係に思いを巡らす必要がある。
「観念の向こう側」に存在するまったき世界に。