松本奎堂と宮城道雄という名前をご存じでしょうか?
お二方とも刈谷市に縁のある方です。(以下はネットより抜粋)
まず松本奎堂(1832~1863)は幕末の人で天誅組の総裁の一人です。
刈谷藩士の次男。幕末の尊攘派の志士。通称、謙三郎。
若いころに武術の稽古で片方の目を失明。のちに昌平坂学問所に学び、そのあと大坂に家塾を開いた。
中山忠光らと天誅組を組織して大和五条に挙兵したが、8月18日の政変で賊名を受けて敗死。
辞世は♪君がため命死にきと世の人に 語りつぎてよ峰の松風♪
宮城道雄(1894 〜 1956)
箏曲家、作曲家。幼少期に失明、二代目中島検校に師事し、生田流筝曲の免許を受けた後朝鮮に渡り、1909年14歳のとき「水の変態」を作曲・初演する。1917年東京に移住、1919年に第1回作品発表会を行う。その後「越天楽変奏曲」、「春の海」などの作品を発表する。1937年東京音楽学校東京芸術大学教授となる。1948年芸術院会員。
1956年6月25日未明、【越天楽変奏曲】の演奏のため大阪へ向かう途中、東海道線刈谷駅付近で急行「銀河」から転落し、同日午前7時15分、刈谷の豊田病院で死去。62歳でした。
今回「遠足」でこのお二方にゆかりの地を訪問しました。始めは宮城道雄の供養碑です。:
この記念塔の下部には東面に「水の変態」と、南面に「春の海」の音符が刻まれています。
付近にアオツヅラフジの実が ↓
実を持ち帰り、種を出して綺麗にすると ↓
不思議な形ですね。こうなるためにどんな必然があるのか? 造詣の神様に尋ねたいものです。
つぎに松本奎堂のお墓参りに行きます。
途中で桜が咲いている場所がありました。 ↓
小公園の一角でカメラを構えていると、高架上を地元の名古屋鉄道の電車が碧南方面に走って行きます。
十念寺 :松本奎堂の墓所は刈谷市の街中にある十念寺境内です。
入口 ↓
坂道を登って行きます。
由緒 ↓
御本尊 ↓
阿弥陀如来坐像で、大きい立派なお像でした。
十一面観音立像 ↓
子安観音 ↓
新しいお像でしょうか、美しいですね。
松本奎堂のお墓 ↓
今から凡そ90年ほど前に小生の亡父が若い時、皇国史観に染まり、天誅組総裁の松本奎堂を知ることになり、
やがて傾倒し、この場所を参拝に訪れたようです。
年代が下り、小生が年老いた父親をこの場所に連れてきたこともあります。
20日の更待月 ↓
月齢は19.3。 おそらく夜に眺める最後の月になりそうです。
21日は昼が最短の冬至ですが、夜の空は曇っているし、月の出タイムも夜半にズレこんでいます。
小生が熊谷で暮らしていたころに宮城先生が転落事故で亡くなったという事故は日を置かずに知ることになりました。
そして、とても印象に残ることでした。
夜行列車から転落したということは、デッキから落ちたのでしょうね。あの付近で国鉄の線路と私鉄の線路が立体交差しており、振り落とされた宮城先生は立体交差する線路の橋げたに頭を強く打ち付けてしまったのではないかと小生は推測しました。
そのあたりのドキュメントがネット上で拾えたことが有りましたが、今はどうなっていることやらです。
アオツヅラフジの「アンモナイト」については御ブログから発想を頂きました。
昌平坂学問所は今の湯島聖堂の場所でしたか?今から60年ほど前にその境内に入ったことが有りましたが、そういうことは全然知りませんでしたので、ただの”おのぼりさん”でしたね。
松本奎堂は当地の出身であり、かつ、亡父の思い出につながりますので、気持ちを籠めてお参りしました。
宮城道雄は半世紀前ならだれでも知っているビッグネームでしたが、今の世ではもう忘れ去られてしまったかもしれませんね。
列車から転落の詳しいことはよくわからないのですが、転落後に病院に運ばれるまでの間に「自分は宮城道雄だ」ということを話せたようです。
当時は関東でもニュースが流れ、衝撃的な事故でしたね。
奎堂と昌平坂学問所(湯島聖堂)に学びここの優等生!!
聖堂はお茶の水で、2回ばかり立ち寄りました、此処が学問ところ、うっそうとした広い中にデンとした建物。
宮城道夫
列車に乗り、その列車から落ちた~~~はじめて知りました。7歳で失明…列車から落ちたんのはやはり目の不自由からでしょうか!?
ぶちょうほうさん良く歩きます!!
吾、最近はすっかり衰えを感じる歳になりました。