アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

(再掲)どうか生きてください

2017-02-18 | Weblog


 2006年に書いた自分のブログを再掲します。

 いじめで苦しんでいる人の目に留まり、少しでも励ましになれれば、と願います。



 2006-11-05 | Weblog
 「いじめ」がワイドショーをにぎわせている。テレビでは、連日、校長や教育長が頭を下げている。

 いじめは残酷な行為だ。さらに、その結末として被害者が自殺するというのは、理不尽であり、本当に悔しい。

 ワイドショーウオッチャーたちは「教育こそ国の礎なのに」と怒りながらも、校長や教育長たちに頭を下げさせたことに溜飲を下げている。


 ウオッチャーたちを煽動しているワイドショーばかりでなく、良識あるはずのマスコミでさえも、いじめを見過ごした学校や、報告をきちんと出させなかった教育委員会の責任論に終始している。やり玉に挙げるには絶好の相手だし(反撃の心配がない)、第一、「庶民の立場」という錦旗を掲げて、社会的に肩書きを持つ人たちを非難すれば、読者受けはする。 

 しかし、疑問がある。
 なぜいじめの当事者ではない「管理者」ばかりが非難されるのか。いじめによる自殺の責任論を繰り広げるならば、まずいじめの「実行者」である張本人とその親を断罪すべきではないか。加害者、ましてや、刑法犯である。
 子どもだから・・・。もし、そう考えるならば、相次ぐ少年の凶悪犯罪にも特段に寛容であるべきだ。更正の機会を与えるために安易に不法な行為を容認すれば、周囲の大人が謝ってくれれば自分は助かる、という図式ができはしないか。安易な容認は、いじめっこをさらなるダメ人間にするだけだと思うのだが。

 親や大人は、非道を行った子どもを責める義務があるのではないか。現場の管理者でしかない校長や教育委員会を責めるのは、その次であろう。

 大人は子どもに安易に頭を下げるべきではない。たとえ、子どもの方が実は正しかった場合でも、である。子どもは大人を畏怖するべきである。他者への敬いが薄れれば、勝手気ままに行動し始め、リミッターが外れがちなのが子どもである。人間生活の「群れ」の中で、子どもは下位者でなくてはならない。それを自らにも認識させておかなくてはならない。人間として、というより、集団で生活する生き物としての知恵だ。少なくとも、未熟なうちは。
 大人の安易な謝罪は、子どもにとって悲劇である。無分別な子どもへの配慮は、子どもを不幸にする。次なるいじめの誘導、さらには少年犯罪の助長行為ではないか。





 もうひとつ。
 自殺を選択するような環境であった家庭、自殺の兆候を看過した家庭の責任は問われないのか。20年ほど前の、あるいじめ自殺をめぐる損害賠償請求訴訟で、裁判所はいじめ加害者とその親、学校の管理責任者である自治体の責任を認定する一方で、家庭の責任も認めている。そのうえで、責任を相殺して、損害について判定したのだ。そのいじめ自殺も感情論が先行して、当初は冷静な損害や責任についての検証はなかった。しかし、時間を置いて、詳細に調べた結果、家庭にも責任があると認定したのだ。いじめは、突然降りかかる事故でも事件でもなく、緩やかに兆候が現れてくる現象である。

 もし、子どもを失った家庭の方が見ていられたら、たいへん恐縮だが、やはり、家庭の責任についても勇気をもって検証していく作業は、今後のためにも不可欠だと考える。
 
 いじめとは、学校ばかりで起きているのではない。職場にも、スポーツチームにも、ゲートボールの年寄り連中の中にも、家庭にも、親子にも、あらゆる人間関係の中に発生すると思う。そんな多くの中の一つのケースのまたその中でも、被害者が自殺までするケースは決して多くはない。いや、かなり稀なはずだ。
 そのような稀なケースの兆候を、家族たちは一緒に暮らしていながらなぜ気づかなかったのか。学校の責任ばかりを問う前に、まず自らは子どもを本当に見つめていたのか、それを検証すべきではないだろうか。単なる発生現場の管理者でしかない学校や教育委員会より責任は重大である。







 最後に。
 いじめは、いつでも、どこでも、だれにでも起きる。そして、いつまでもは続かない。傷ついたとか苦しいとかいって、いちいち死なないでほしい。まだ港を出たばかり。広い、美しい外洋を渡るのは「これから」だ。たとえ今は苛烈な状況でも、今の立場なんて、非常に高い確率で、そのうちに逆転する。いじめをしてる人間なんて、そのレベルなのだ、実は。


 君たちを産むのにどれだけ苦しんだろう、産まれたときにはどれだけうれしかったろう。
 寝返りができたといっては喜び、お座りができたといっては喜び、初めて歩き、初めてしゃべり、初めて反抗した。それさえも喜びなのだ。君たちを育てるのにどれだけの道のりを歩いてきただろう。
 「自分より大切なもの」って持っているかい? 恋人? いやそれはきっと勘違いだ。今は酔っている状態だ。すぐに醒める。

 親は、子どもが生まれたとき、自らの人生の中で、初めて「自分」が優先順位の第2位になる。

 第1位? そう、もちろん、君だ。

 不幸にも、未熟なうちに親になった人はそれが長続きしない場合もあるが、大前提として、人間は「自分」より「子ども」が大切なんだ。人間ばかりではないと思う。種の保存という宿命を背負った生き物すべての親たちがそうだと思う。

     子どもは、何よりも大切なのだ。


     君は、本当に大切なのだ。

 
 わずかばかりの挫折で、いちいち死なないでほしい。
 どうしても死ぬというならば、それらの親へのカリを少しでも返してからにしてはどうだろうか?
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