アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

「妥協点」調査特別委員会

2007-07-11 | Weblog
 家族のために「食い扶持」を稼いでくることは、父親としての最低限の責任である。それができない男は、家族を持つ資格はない。

 もちろん、妻子を持つ私も仕事を選んでいる余裕などあろうはずもないし、論ずる場合ではない。

 が、それでも、今の仕事については、かつての職種のような、生き生きとしたモチベーションが湧き出してこないのが、正直なところだ。疑問が多い。現在の社会のなかで、本当に必要な仕事なんだろうか?


 人を幸福にしたい。社会を良くしたい。男の生きるモチベーションはそこに帰結する。


 が、誰かを幸福にしているわけではない。社会の役に立っているわけでもない。



 液体の上澄みをすくうような話を仕掛けながら、きれいごとを並べ立て、実は、自分の所属する組織を維持し自分の生活を維持するために、地方社会に残された「限られた食い扶持」を奪い合っている。それが今の実感である。「社会的な職責」は感じられない。

 「人の役に立ちたい」と志し、この業界を目指したのは14歳。

 「いま、疑問を禁じえない」。職場の先輩にそんなことを話したら、「君には先があるんだからいいじゃないか。いまは経験の場としてとらえればいい」であった。

 私は45歳の平社員。「先があるからいいじゃないか」と言われるような立場ではないと思うのだが。

 「経験の場としてとらえる」。便利な言葉ではあるが、その考え方は、表現を変えた「妥協」でしかない。都合に合わせて、言い回しを変えて自分を納得させているだけ。もしくは「納得したふりをしている」だけなのだ。



 ここまで書いて、ハッと気付いた。しかし、「妥協点」をいち早く見出すことこそ、人生のコツではないか。妥協するって実は、すばらしいことなのではないだろうか。

 悩むヤツほど歩みが遅い。考えのない者ほど成功するじゃないか、おおむねは。


 「妥協点」を見出すことは、生きる知恵だ。

 「妥協」。本当は、いやな言葉ではない。「妥」(爪(つめ)を立てた女)をなだめるのだから、社会に不可欠な大切な役回りなのだ。


 と言うことで、自分の仕事の意義については、あんまり考えない方がいいことに気付いた。

 「妥協」という言葉に、これまでにない「パワー」を感じた。この項目を書いていて、発見した。



 「生きる知恵」の結晶ともいえる「妥協点」。その最適な位置取りはどこなのか? 

 家庭、職場、社会…。好むと好まざると、われわれは人間関係の中で生きていかなくてはいけない。もちろん自己満足だけで生きていければ幸福だが、相手があることだから、そうはうまくいかない。どのあたりで、うまく「手打ち」をするか。その知恵が「落としどころ」、つまり最善の「妥協点」なのだ。これをうまく設定する技こそ、重要なのだ。

 ということで、あすも元気に早起きする俺なのである。
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