経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

3月27日 召天者記念イースター音楽礼拝

2016-03-28 11:32:12 | 礼拝
聖書:マタイ28:1~10
メッセージ:“主はよみがえられました”
特別音楽:バッハ「今日は勝利の日」
     メンデルスゾーン「ソナタNo.5二長調」

1.女たちは葬られた主を捜します
(1)「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。」
(5)「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。」
 彼女たちは安息日が明けた朝早くに再びイエス様が納められた墓を訪れます。しかし墓の中は空っぽでその中にはおられませんでした。

2.女たちは復活の主を信じます
(6)「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」
 彼女たちはみ使いが言うように空の墓を見て主のよみがえられたことを信じました。
『裏切ったり、四散した弟子たちが、なぜそうまでに強くなったのか。そう考える時、イエスの死後、何かが起こったと考えるよりほかに、考えようがない。その何かとは何か。それは聖書に記してあるとおり、イエスの復活であったと思う。』(三浦綾子著「新約聖書入門」より)
 弟子たちが別人のように変えられていく姿を通して主の復活を知ることができます。

3.女たちは復活の主に出会います
(9-10)「すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。『恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。』」
 イエス様は「おはよう」と、私たちの日常生活の中でご自身を現されます。弟子たちは恐れていましたが、復活の主にお会いして力強く福音を語る弟子へと変えられていきました。復活の主は私たちに力と永遠のいのちの希望を与えてくださいます。復活の主のいのちに日々生かされていきますように。
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3月20日 棕梠の聖日礼拝

2016-03-22 09:54:47 | 礼拝
聖書:マタイ21:1~11
メッセージ:“主がお入用なのです”
特別音楽:シベリウス“フィンランディア”

1.主は先を見通します
(1-2)「イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。『向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。』」
 イエス様はこの先なにがあるのか、何が起きるのかご存知です。
(エレミヤ29:11)「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
 私たちの未来を知り、最善の計画を立てていてくださるお方に信頼しお委ねします。

2.主は罪の縄目をほどきます
 イエス様は弟子たちにろばの縄をほどいて私のもとに連れて来るように言われました。それは次の預言の成就として起こりました。
(5)「見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。」
 「柔和」とは「へりくだった」という意味があります。イエス様はご自身がへりくだり、悩まされることによって人々に平和を与える王として来られました。
(マタイ11:28~29)「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」イエス様につながるときに、縄はほどけ本当の安らぎが与えられます。

3.主はろばの子の背に乗ります
(7)「そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。」
(8~9)「すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。『ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。』」
 十字架にかかる前、王なるイエスはろばの子に乗ってエルサレムに入りました。「ろば」は不格好でよたよたと歩き、当時荷物を運ぶために使われました。それは柔和な王、平和な王として来られたことを象徴しています。
(3)「もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
 子ろばのように私たちもイエス様をお乗せして人々のもとにお連れします。イエス様を乗せて歩く光栄に預かります。「主がお入用なのです」主の御声にお応えいたしましょう。
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3月13日 聖日礼拝

2016-03-15 10:32:44 | 礼拝
聖書:マタイ10:34~39
メッセージ:“自分の十字架を負う”

1.平和ではなく剣をもたらします
(34)「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」
 福音を宣べ伝えるとき、一時的に剣が投げ込まれたようになりますが、それはお互いの間に新たな関係が築き直され、うわべではなく真の平和がもたらされていくためです。

2.いのちを失う者はいのちを得ます
(38~39)「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」
 「自分の十字架を負う」とは、古い自分を捨て主のみこころに従うことです。自分のいのちを失う者は、主にある永遠のいのちを見いだします。

(マタイ26:29)「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
 主ご自身が父なる神のみこころに従い十字架につけられました。人の意思は弱く恐れやすい者ですが、主は私たちを励まし、自分の十字架を負って私について来なさいと語られます。お従いする時に祝福があります。神様のみこころが私たちのうちになされていきますように。


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3月6日 聖日礼拝

2016-03-07 20:19:44 | 礼拝
聖書:詩篇22篇
メッセージ:“神様と出合う時” 古谷恵実子姉

1.神様への私たちの嘆き
(1~2)「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」
 嘆き悲しみのなか神は遠く離れ何も答えてくれない時があります。

2.私たちの嘆きを担ったイエス様
(11~21)このところに、イエス・キリストの十字架の苦しみが記されています。主は死の苦しみを受けられました。それゆえ私たちの苦しみを理解されます。主は身代わりとなって十字架にかかり、私たちの嘆き苦しみを担ってくださいました。

3.神様と出合う時
(3~5)「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。」
(21~22)「私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」
 神に出合う時、嘆き悲しみは讃美へと変えられていきます。喜びと感謝にあふれ主を宣べ伝えていきます。
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2月28日 聖日礼拝

2016-03-01 14:40:29 | 礼拝
聖書:マルコ10:46~52
メッセージ:“信仰による祈り” 阿部頼義師

1.暗やみを歩むバルテマイの人生
(46)「彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。」
 バルテマイは社会の底辺で闇の中を歩んでいました。問題にぶつかりこれから先どこに向かっていくのか見えない時があります。人と比較するのではなく、自分のアイデンティティーを確立していきます。

2.人生のターニングポイント
(47~48)「ところが、ナザレのイエスだと聞くと、『ダビデの子のイエスさま。わたしをあわれんでください』と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた。」
 バルテマイは人々からさえぎられたが、この方なら救ってくださると信じ叫び続けました。私たちは人に頼るのではなく、主に頼り叫び続けます。
(51~52)「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」
 彼の信仰による叫びはイエス様に届き、目が開かれるだけではなく、たましいの救いがなされました。「イエスさま、わたしをあわれんでください」と、信仰によって祈り求めていきます。そしてイエスさまにお従いしていく者としてください。
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