聖書:使徒の働き9:1~22
メッセージ:「目からウロコ」 相模原グレースチャペル 阿部信夫師
1.迫害者サウロの熱心
クリスチャンを迫害することこそ、彼が信じる唯一の主なる神に対する忠誠であると心から信じての行動であった。しかし、ステパノの死に方が、パウロにショックを与えていた。それに続くクリスチャンの死も。落ち着き、しかも讃美歌を歌いながらという姿に心を揺さぶられていた。堅い岩をハンマーでたたき続けて見えないひびが入り、最後の一撃で見事に割れるように、彼の心は打たれつづけていた。
2.目からウロコ
“人生は出会いによって決まる”のごとく、最後の一撃は、イエス様との出会いであった。今、目の前におられるのはまさに主なる神。それは、サウロにはっきりわかった。しかし、まさか、イエス様が、そのお方であるとは全く考えたこともなかった。大混乱。そのショックの故に目が見えなくなったと思われる。アナニヤとの出会いによってまさに目からウロコが落ち、イエス様こそ、主なる神、自分はとんでもない勘違いをしていたと悟り、悔い改めて、クリスチャンとなった。私達は、これほど劇的ではなくても、まさに、目からウロコが落ちて、イエス様を信じることが出来た一人一人です。そのイエス様が、私たちにしてほしいと望んでおられることをしていこう。
3.迫害者サウロを受け入れた人
迫害者サウロがクリスチャンなったとはそう簡単に信じられることではない。しかしアナニヤは、イエス様の御声を聞き、信じてサウロに会い、「兄弟サウロ」と呼びかけた。その行動が、サウロの心に敵さえ赦すキリストの愛を感じさせた。この後アナニヤは聖書に登場しません。しかし、アナニヤの存在はとても大きい。大伝道者パウロを生むことになったのですから。私達はパウロのような働きはできなくても、アナニヤのような働きは出来るかもしれません。暖かい言葉、小さな親切、それは決して小さなことではない。「私の兄弟の最も小さな一人にしたのは私にしたのです。」とイエス様が言われるのですから。
メッセージ:「目からウロコ」 相模原グレースチャペル 阿部信夫師
1.迫害者サウロの熱心
クリスチャンを迫害することこそ、彼が信じる唯一の主なる神に対する忠誠であると心から信じての行動であった。しかし、ステパノの死に方が、パウロにショックを与えていた。それに続くクリスチャンの死も。落ち着き、しかも讃美歌を歌いながらという姿に心を揺さぶられていた。堅い岩をハンマーでたたき続けて見えないひびが入り、最後の一撃で見事に割れるように、彼の心は打たれつづけていた。
2.目からウロコ
“人生は出会いによって決まる”のごとく、最後の一撃は、イエス様との出会いであった。今、目の前におられるのはまさに主なる神。それは、サウロにはっきりわかった。しかし、まさか、イエス様が、そのお方であるとは全く考えたこともなかった。大混乱。そのショックの故に目が見えなくなったと思われる。アナニヤとの出会いによってまさに目からウロコが落ち、イエス様こそ、主なる神、自分はとんでもない勘違いをしていたと悟り、悔い改めて、クリスチャンとなった。私達は、これほど劇的ではなくても、まさに、目からウロコが落ちて、イエス様を信じることが出来た一人一人です。そのイエス様が、私たちにしてほしいと望んでおられることをしていこう。
3.迫害者サウロを受け入れた人
迫害者サウロがクリスチャンなったとはそう簡単に信じられることではない。しかしアナニヤは、イエス様の御声を聞き、信じてサウロに会い、「兄弟サウロ」と呼びかけた。その行動が、サウロの心に敵さえ赦すキリストの愛を感じさせた。この後アナニヤは聖書に登場しません。しかし、アナニヤの存在はとても大きい。大伝道者パウロを生むことになったのですから。私達はパウロのような働きはできなくても、アナニヤのような働きは出来るかもしれません。暖かい言葉、小さな親切、それは決して小さなことではない。「私の兄弟の最も小さな一人にしたのは私にしたのです。」とイエス様が言われるのですから。