経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

12月27日年末感謝礼拝

2020-12-28 14:13:29 | 礼拝
ルカの福音書2章21~38節 「主を待ち望んだ人たち」

幼子が生まれてから8日がたち、ヨセフとマリヤは神の規定に基づき、幼子に割礼を施し、以前御使いが言われたとおりに、イエスと命名しました。そして、両親は生後40日のイエスを連れて、エルサレムを訪れ宮詣をしました。それは、長男として生まれた幼子を聖別して主にお捧げするためでした。また、律法の規定により、マリアの出産のきよめのための犠牲をささげる必要がありました。ヨセフとマリヤは貧しかったため、「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」をお捧げしました。彼らはすべてのことを律法に従って行いました。その時、エルサレムにシメオンという老人がいました。彼は正しい敬虔な人で、救い主がお生まれになることを待ち望んでいました。シメオンは神殿に行きますと、ちょうど、律法の慣習を守るためにヨセフとマリアもが赤ちゃんを連れて神殿に入ってきたのです。この幼子を見たとき、聖霊は彼にこの幼子が待望の救い主であることを示され、彼は幼子を抱き、神に感謝し讃美しました。シメオンは、晩年になってとうとう幼子にお会いして、これで自分も安らかにこの世の生涯を終えることができること、そして神の救いがイスラエル人だけではなく、「万民の前に備えられた救い、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」と、万民のためのものであることを述べます。今自分が腕に抱いている幼子から出る救いの光が、罪に縛られている人々、暗闇の中にいる異邦人の世界を照らし出すことを予見しました。また、シメオンはこの幼子がやがて人々からどのような受け止め方をさえるかについて語りました。多くの人の心の思いがあらわになり、将来幼子は十字架にかけられ、母マリアの心さえも剣が刺し貫くことになると預言しました。

 神殿にはもう一人、救い主を待ち望んでいたアンナという老婦人がいました。シメオンが神をほめたたえている「ちょうどそのとき」、一人の老婦人が近寄ってきました。彼女は宮を離れず、夜も昼も神に仕えている女預言者でした。彼女は結婚後わずか7年にして夫に先立たれてしまいます。まだ十分若かったでしょう、20代前半だったかもしれません。当時のやもめという立場もあり、決して生活は楽ではなかったかもしれません。しかしそれ以後、神殿で神を礼拝することを喜びとして毎日を過ごし、彼女もまた救い主の到来を待ち望んでいた一人でした。そして、ついに生涯最高の喜び、救い主にお会いするというもっとも大きな祝福をいただくことができたのです。(38)彼女は神に感謝を捧げ、エルサレムの贖われることを待ち望んでいる人々すべてにこの幼子のことを話して聞かせました。

 今日の個所から私たちは主の誕生を心から喜ぶ二人の老人の姿を見ることができます。二人は長い人生の中でいろいろと辛いところを通らされたことでしょう。そのような中でもあきらめずに、主を待ち望み、晩年になってついに救い主にお会いすることができたのです。それは彼らにとって癒しであり大きな慰めでありました。この一年を振り返りどのような一年だったでしょうか?教会にとっても大きなチャレンジの年でした。しかし、そのような中にあっても、平安と慰めをいただき、必要な助けをいただいて前に進んでくることができたのだと思います。主イエスが救い主としてお生まれ下さり、共に歩んでくださったことを感謝いたします。一年を振り返り、主の慰めが豊かにありますように。来年もどのような年になるか分かりませんが、希望を失うことなく前に進んで行くことができますように。シメオンが、アンナが、贖いを待ち望んでいた人々がそうであったように、私たちも主を待ち望んで歩んでまいりましょう。
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12月20日クリスマス礼拝

2020-12-28 14:11:19 | 礼拝
ルカの福音書2章8~20節「大きな喜びの知らせ」

救い主の誕生の知らせを一番最初に聞いた人たちは、野宿で夜番をしている羊飼いたちでした。彼らは仕事の性質上、生き物を世話する仕事のため、安息日を守ることや、神殿での儀式に参加することができず、律法を守ることが重要なユダヤ人社会では軽蔑されていました。また、ローマからは住民とはみなされず、住民登録の対象外でした。しかし、幼子誕生の知らせは、社会で冷遇されていた羊飼いたちに真っ先にもたらされたのです。主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が闇夜を照らし、羊飼いたちに言われました。(10~12)「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」救い主誕生の知らせは、自分たちには対象外だと思っていた羊飼いたちに告げ知らされたのです。神はこの世の弱い者や小さい者を顧みてくださるお方です。ユダヤの人々が待望していた救い主、「主キリスト」は、社会のどの層に属するかにかかわらず、すべての人のために誕生されました。

(13~14)「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美しました。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。』」突然暗闇の中にものすごい数の天の軍勢の賛美が始まりました。羊飼いたちはあっけにとられていたことでしょう。神はこの世を愛し、人々の救いのために一人子をお与えになりました。その神の御業にご栄光があるように、御子によって人々に神との平和があるようにと御使いの賛美が夜空に響き渡りました。不思議な光に照り輝いていた辺り一面は、天使たちが離れ去ると再び暗闇に包まれました。羊飼いたちは、しばらく声も出なかったことでしょう。

御使いたちが彼らから離れて天に帰った時、羊飼いたちは話し合いました。(15)「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」彼らの心には救い主を見に行こうという熱い思いが生まれていました。彼らは御使いたちに後押しされ、ベツレヘムのイエスを探しに急いで行きました。この思いに神様も働いてくださったのでしょう。彼らは「マリヤとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごとを捜し当て」ることができました。すると、羊飼いたちは御使いから幼子について告げられたことを話しました。それを聞いた人たちはみな驚きを隠せませんでした。しかしマリヤは、羊飼いたちの話をすべて心に納め思い巡らしていたのです。(20)羊飼いたちは御使いの言われた通りだったので心から喜び、救い主である幼子を礼拝し、「神をあがめ、賛美しながら」帰って行きました。神は羊飼いたちを選び、喜びの知らせを告げ知らせました。周りから相手にされず、自分たちは神の救いの対象外と考えていた羊飼いたちですが、御子イエスとの出会いによって、生きる喜びと希望が与えられ、神をあがめ賛美する者へと変えられました。今年ももう終わり新しい年を迎えようとしています。来年はどのような年になるのでしょうか。来年は希望があるのかと思ってしまいます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」あなたのために救い主がお生まれくださいました。そこに喜びがあり希望があります。みどりごを捜し当て、お会いできますように。救い主イエス様のご降誕を感謝いたします。日々主をあがめ、賛美し、この大きな喜びの知らせをお伝えしてまいりましょう。
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12月13日待降節第三礼拝

2020-12-14 14:27:25 | 礼拝
ルカの福音書2章1~7節 「飼葉桶に寝かされたみどりご」 

 (1~2)「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。」と書いてあります。このような書き出しから、著者のルカは、主イエスの誕生が決しておとぎ話や創作ではなく、歴史的事実であることを強調しています。また、この記述から当時がいかなる時代であったかを伺い知ることができます。当時ユダヤはローマ帝国の植民地下にありシリア州に属していました。ローマが「全世界」を掌握し、「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)と言われる時代でした。しかしそれは表向きの平和であって、実際は、国家が総動員で人民を統制して管理下に置き、徴税および徴兵制度に巧みに組み込んでいくという人間性を軽視する時代でした。イエスの生まれた時代とは、支配者と被支配者が存在する世界、権力や汚職がはびこり、闇が覆っているような世界であったのです。そのただ中に救い主がお生まれになった、神が介入されたということを、ここでは語っているのです。

 徴税を目的に行われたこの住民登録は、それぞれの家系に沿ってなされました。 (4)「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行」きました。ベツレヘムは標高約750mの小高い丘の上に位置します。南へ約140キロ、歩いて4、5日ぐらいかかったでしょう。私たちは、ここにヨセフとマリアを導かれる神様の見えない御手が働いていていることを見ることができるのです。旧約聖書の中で(ミカ書5:2)、キリストはダビデの子孫として、「ダビデの町」ベツレヘムに生まれると預言されています。彼らは、今回の皇帝の勅令により、ベツレヘムに行き、そこで赤ちゃんを産むことになります。奇しくも、救い主がベツレヘムでお生まれになるという預言が成就するのです。神様はご自身の御業のために異邦の王様をも用いられるのです。このことからも、世界の歴史を支配しておられるのは神であり、同じように、見えない御手をもって私たちの歩みも導いておられるのです。

 ヨセフとマリアがベツレヘムにいる間に、マリアは月が満ちて男の子を産みました。(7)「そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせ」ました。その子が産まれたのは家畜小屋でした。ユダヤの家畜小屋の多くは洞窟のような場所であったようです。「飼葉桶」は石製か漆喰で作った箱型のものと思われます。洞窟の場合、壁面に切り出したとも考えられます。旧約聖書で預言されてきて、ユダヤ人が待ち望んでいた救い主は、家畜小屋で生まれ飼葉桶に寝かされました。このことは何を意味しているかといいますと、父なる神と共におられた御子がその栄光の座を捨てて、誰よりもへりくだって、最も低いところにお生まれ下さったということです。そして、このことは何のためかといいますと、それは私たちを罪からお救いになるためです。「飼葉桶」とは、人間の罪を表しています。罪の中に苦しむ者を救うために、低く貧しくなられたのです。(Ⅱコリント8:9)「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」御子イエスは私たちが富む者となるために、悩んだり、苦しんだりするこの現実の世界にお生まれになりました。(7)「宿屋には、彼らのいる場所がなかったからである。」私たちの心はどうでしょうか。この時、イエス様を心の中にお迎えいたしましょう。
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12月6日待降節第二礼拝

2020-12-07 11:43:18 | 礼拝
マタイの福音書1章18~25節 「神が私たちとともにおられる」

 御使いのマリアへの告知から、おそらく数か月が経った頃でしょう。マリアと婚約していたヨセフは、マリアが妊娠したことを知ります。(18)「二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」どんなにヨセフは驚いたことでしょうか。ここには、妊娠したのが「聖霊によって」と説明されていますが、この時点ではまだヨセフには何も知らされていませんでした。彼はマリアの純潔を信じたかったでしょう。しかし彼女が妊娠したという事実は日ごとに明らかになっていきます。マリアの妊娠という事実は、二人の関係が壊れてしまうだけではなく、石打の刑とされていましたので、マリヤを愛していたヨセフはそうはしたくありませんでした。この事態に直面し、彼はひどく葛藤し、思い悩みました。悩んだ末に、(19)「ヨセフは正しい人でマリアをさらし者にしたくなかった」ので、自分の方からひそかに離縁状を渡して、マリヤとの婚約を解消しようとしました。それが彼女が幸せに生きるための選択だと思ったのです。

 ヨセフがマリアを密かに去らせようと決心した時、主の使いが夢に現れて(20)「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリヤをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」と語られました。マリアが身重になったのは、他の男性との姦淫によるのではなく、聖霊によるのだから、彼女を妻として迎え入れるようにとお命じになったのです。続いて御使いは、生まれてくる子に、「イエス」という名を付けるように命じました。「イエス」とは、「主は救い」という意味です。このような名前が付けられたのは、(21)「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」方であったからです。外見は着飾っていても、内面はおごりや怒り、妬みなど苦々しい思いがあります。罪には当然、罰が伴います。でもイエス様がその罰を身代わりに受けてくださったのです。また、この処女降誕の出来事は単なる成り行きや思いつきではなく、神の周到なご計画であり、旧約聖書の預言の成就でした。マタイはイザヤ7章14節のことばを引用します。(23)「『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」神であるお方が人としてお生まれくださり、私たちの弱さや悩み、苦しみをも同様に味わい、担っていてくださるのです。この預言はイエスが誕生する700年も前に語られたことばです。神の救いの計画は決して空しく終わることはありません。

 (24)ヨセフは眠りから覚めるとどうしたでしょう?疑えばいくらでも疑うことができたでしょう。自分の知らないところでマリアが不貞を働いたのだと思うこともできました。それに、神の使いが語ったのは夢の中であったのだから、悪い夢を見たのだと思うこともできました。彼は、神からのメッセージを信じて従うか、それを拒否して内密のうちにマリアと離縁するかの決断を迫られていました。結局ヨセフは神からのメッセージを信じて受け入れました。その結果、すばらしい救い主の誕生を迎えることができたのです。ヨセフがこのことを真剣に信じていたことは、(25)「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」ということばと、命じられた通り、「イエス」という名を付けたことによっても示されています。主イエスはすべての人の救いのためにこの地上にお生まれになりました。罪の中に生まれ、外見上はどうであろうとも心の中に醜い思いを持っている者を、その罪から救い、さらにそんな弱い者、悩む者といつも共にいてくださるために、私たちと同じ肉体をもって誕生されたのです。それがクリスマスです。このアドベントの時、恐れずにイエス様を心にお迎えいたしましょう。
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