(26)「さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。」ということばから始まります。「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアと」言いました。マリヤは当時の慣習から、14、5歳だったと思われます。ヨセフのいいなずけで、すなわち婚約者でした。当時は、まだ一緒に生活はしていませんでしたが、二人はもう夫婦とみなされていました。御使いは入ってくると、 (28)「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と挨拶をし、マリアが神から受ける恵みについて語り始めます。(30~31)「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」マリアはひどく戸惑いました。御使いは更に、その子は、「大いなる者」となり、「いと高き方の子」つまり神の子と呼ばれる、そして、ダビデ王の跡継ぎとして、「ヤコブの家」つまりイスラエルの国を永遠に治める者になることを告げます。このことは、生まれてくる男の子が、旧約の時代から神がイスラエルに約束していた救い主であることを表しています。御使いはマリアに、神の恵みにより身ごもり、男の子を産み、救い主の母になることを伝えたのです。
(34)「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」結婚前の者がどのようにしてそのようなことが起きるのかと、その筋道を尋ねています。マリアのこの応答は疑いや不信から出たものではなく、そうなることの説明を求めたものであることが前後の文脈から分かります。マリアはこの御使いのことばを拒否することも、また逆に鵜呑みにすることもしませんでした。前向きに説明を求めたのです。(35)御使いは丁寧に答えています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」神ご自身である「聖霊」の力によって身ごもり、その子は聖なる神の子と呼ばれると答えます。この御使いの答えに多くの人は躓くことでしょう。答えの内容が私たち人間の経験と理解をはるかに越えているからです。確かに私たちの限界がある人間の理性で考えるならば、不可能としか言いようがないかもしれません。しかし、聖書の神が、私たちの理解を越えた方であり、天地万物を造られ全能なお方であるならば、超自然的なわざを行うのも不可能ではないと思えるのです。
マリヤの答えはどうだったでしょうか?(38)「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」当時、知らないところで身重になったということですと、婚約解消はもちろんですが、石打ちにされたりということも考えられたようです。そうでなくても、一生汚名を背負って生きていかなければなりませんでした。それゆえ、このことばの中に、マリヤの主にすべてを委ねる従順な信仰を見ることができるのです。彼女は決して救い主の母になるなどと想像していなかったでしょうが、神のご計画がそのまま自分の身に起こることを信仰によって受け入れます。私たちはマリアのゆるぎない信仰と神への従順さを見ることができます。それはどこからくるのでしょうか?若いマリアでしたが、神の偉大さを明確に知り信じていたからでしょう。「神にとって不可能なことは何もない」という全能の神様を信じていたのです。それゆえ、「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と告白することができたのです。マリアの信仰に倣う者とさせてください。