経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

11月29日待降節第一礼拝

2020-11-30 14:52:56 | 礼拝
  (26)「さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。」ということばから始まります。「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアと」言いました。マリヤは当時の慣習から、14、5歳だったと思われます。ヨセフのいいなずけで、すなわち婚約者でした。当時は、まだ一緒に生活はしていませんでしたが、二人はもう夫婦とみなされていました。御使いは入ってくると、 (28)「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と挨拶をし、マリアが神から受ける恵みについて語り始めます。(30~31)「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」マリアはひどく戸惑いました。御使いは更に、その子は、「大いなる者」となり、「いと高き方の子」つまり神の子と呼ばれる、そして、ダビデ王の跡継ぎとして、「ヤコブの家」つまりイスラエルの国を永遠に治める者になることを告げます。このことは、生まれてくる男の子が、旧約の時代から神がイスラエルに約束していた救い主であることを表しています。御使いはマリアに、神の恵みにより身ごもり、男の子を産み、救い主の母になることを伝えたのです。

(34)「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」結婚前の者がどのようにしてそのようなことが起きるのかと、その筋道を尋ねています。マリアのこの応答は疑いや不信から出たものではなく、そうなることの説明を求めたものであることが前後の文脈から分かります。マリアはこの御使いのことばを拒否することも、また逆に鵜呑みにすることもしませんでした。前向きに説明を求めたのです。(35)御使いは丁寧に答えています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」神ご自身である「聖霊」の力によって身ごもり、その子は聖なる神の子と呼ばれると答えます。この御使いの答えに多くの人は躓くことでしょう。答えの内容が私たち人間の経験と理解をはるかに越えているからです。確かに私たちの限界がある人間の理性で考えるならば、不可能としか言いようがないかもしれません。しかし、聖書の神が、私たちの理解を越えた方であり、天地万物を造られ全能なお方であるならば、超自然的なわざを行うのも不可能ではないと思えるのです。

 マリヤの答えはどうだったでしょうか?(38)「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」当時、知らないところで身重になったということですと、婚約解消はもちろんですが、石打ちにされたりということも考えられたようです。そうでなくても、一生汚名を背負って生きていかなければなりませんでした。それゆえ、このことばの中に、マリヤの主にすべてを委ねる従順な信仰を見ることができるのです。彼女は決して救い主の母になるなどと想像していなかったでしょうが、神のご計画がそのまま自分の身に起こることを信仰によって受け入れます。私たちはマリアのゆるぎない信仰と神への従順さを見ることができます。それはどこからくるのでしょうか?若いマリアでしたが、神の偉大さを明確に知り信じていたからでしょう。「神にとって不可能なことは何もない」という全能の神様を信じていたのです。それゆえ、「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と告白することができたのです。マリアの信仰に倣う者とさせてください。
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11月22日礼拝

2020-11-23 15:12:35 | 礼拝
創世記44章33節~45章8節 「良いことのための計らい」

 飢饉はカナンの地にも及び、父ヤコブは息子たちに穀物をエジプトに買いに行くように命じます。兄弟たちは、ヨセフの前に来て、顔を地につけて伏し拝みました。かつてヨセフが見た夢の通りになります。ヨセフはその兄たちの姿を見て、兄弟たちだとすぐにわかりましたが、兄弟たちはヨセフだとは気づきませんでした。ヨセフは彼らにわざと高圧的に振舞い、この国の隙をうかがうスパイだとします。ヨセフは兄たちの心を知ろうとして、弟のベニヤミンを連れてくるまで二番目の兄シメオンを人質として残し、他の兄弟たちに食糧を持たせ帰らせるのです。飢饉は激しさを増し、ヤコブは兄弟たちに再びエジプトに行って食料を買ってくるように促します。ヤコブは末の子ベニヤミンを連れて行かれることに悩みますが、ユダは自分がベニヤミンの保証人になることを約束し父を説得します。兄弟たちがエジプトに着くと、ヨセフは彼らを自分の家での昼食に招待します。ヨセフは父の安否を尋ね、久しぶりに会う弟ベニヤミンの姿を見て弟懐かしさに胸が熱くなり、涙を見せないために奥の部屋に入り泣きました。やがて彼は顔を洗って出てくると、兄弟たちに食事をもてなしました。

 ヨセフは兄弟たちが帰る時、彼らを試されます。ヨセフは管理者に運べるだけの食料で彼らの袋を満たし、代金の銀を袋の口に入れておくように命じました。そしてベニヤミンの袋にはヨセフの「銀の杯」を入れさせました。兄弟たちが町を出てまだ遠くに行かないうちに、ヨセフは管理者に彼らを追わせ、ヨセフの杯を盗んだとして、彼らを問いただします。それぞれの袋が調べられ、とうとうベニヤミンの袋からヨセフの銀の杯が出てきます。兄弟たちはヨセフのところに引き返し、ひれ伏します。ユダは、「神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」と全員が奴隷になることを申し出ますが、ヨセフは、杯が見つかったベニヤミンだけが奴隷になればよいと言います。しかし、ユダはヨセフに今日までのいきさつを述べ、自分は彼の保証人になっているので、もしそれがかなわないなら、自分は生涯その罪を背負い続けなければならないと語ります。そして(33)「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」と頼むのです。

 ヨセフはユダの真実な訴えを聞き、自分を制することができなくなって、(1)「皆を私のところから出しなさい。」と叫びました。人払いをして、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かし、声をあげて泣きます。(3)「私はヨセフです。」ついにヨセフは兄弟たちに自分の身を明らかにします。兄弟たちはただ呆然として、あまりの驚きに何も答えることができませんでした。ヨセフは言います。(4~5)「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」ヨセフは兄弟たちに売られたのですが、そこには神のご計画があり、神が私をエジプトに遣わしたのであって自分を責めないようにと慰めます。そして、まだしばらく飢饉は続くので、急いで父をエジプトに連れてきて、私のもとで一緒に生活するようにと伝え、彼らと抱き合い互いに語り合いました。父ヤコブが亡くなった後、兄弟たちはヨセフが復讐するのではと恐れました。しかしヨセフは再び兄弟たちを安心させ優しく語ります。(創50:20)「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。」ヨセフと共におられた方は私たちと共にいて最善をなしてくださいます。すべてのことが人の思いを超えて神の計画のうちに進められることを覚えさせてください。
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11月15日礼拝

2020-11-16 11:27:04 | 礼拝
創世記39章1~5節,41章8~16節「私ではなく神が」

 ヨセフは遠くエジプトに連れて行かれ、奴隷として働くことになりました。故郷から遠く離れた場所で彼はどんなに心細かったことでしょう。しかし聖書は、その苦難の中で、(2)「主がヨセフとともにおられた」と繰り返します。ヨセフが仕えたのは、王の側近である高官ポティファルの家でした。神が共におられたので、ヨセフが行うことは何でもうまくいき、主人に信頼されて、すべての財産の管理を任されるようになりました。しかし、ポティファルの妻がヨセフを誘惑しようとし、彼女の偽りの証言によってヨセフは無実の罪を着せられ奴隷から囚人へとなってしまいます。築き上げてきた信頼は一日にして崩れ去りました。しかし、聖書は、地下牢にあっても「主はヨセフとともにおられた」と繰り返します。そして今度は監獄の長の信頼を受け、すべての囚人たちの責任を任され、監獄で行われるすべてのことを管理するようになります。

 時を経て、王に仕える献酌官長と料理官長が王の怒りを買って、ヨセフがいる監獄に投獄されました。ある夜二人は同時に夢を見ました。翌朝、ヨセフは二人の顔色が悪いのを見て尋ねると、その夢の意味がわからないでイライラしていたのです。するとヨセフは、(8)「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」と申し出ます。ヨセフは二人の夢を解き明かし、その通りのことが二人の身におきました。ヨセフは再び王に仕えるようになった献酌官長に、「どうか私を思い出して下さい。」と、ここから出られるように頼みますが、彼はヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。
 
 それから二年後、事態は急転します。ファラオは夢を見ます。肥えた7頭の雌牛がナイル川のほとりで草を食べていると、やせ細った七頭の雌牛がやって来て、つやつやしたよく肥えた七頭の雌牛を食べてしまうという夢です。もう一つは、一本の茎によく実った七つの穂が、実のないしなびた七つの穂に呑み込まれてしまうというものでした。王の心は騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師と知恵ある者たちを呼び寄せますが、その夢を解き明かせる者は一人もいませんでした。その時、献酌官長が、かつて牢獄で自分の見た夢を解き明かす者がいたことを思い出し、ファラオに告げます。それを聞いて、ファラオはすぐ人を遣わしヨセフを呼び寄せました。ファラオはヨセフに、(15)「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」と尋ねると、(16)「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」とヨセフは答えます。夢を説くのは自分ではなく、神であることを告げます。13年にもわたる奴隷状態、囚人生活から脱出するチャンスが訪れたのに、ヨセフはファラオに向かって夢を解き明かせる能力が自分にあることをアピールしませんでした。かつて「私は夢を見ました」と言って得意になっていたヨセフではありませんでした。その後、ヨセフは王の夢を見事に解き明かし、宮廷の責任者に任命されエジプト全土を支配するようになります。今日の個所は、ヨセフが奴隷から大臣へと上りつめたサクセスストーリーですが、それ以上に、共におられる神様へ信頼し、神への信仰に生き続けたヨセフの姿が記されています。「主が彼と共におられた」ということは、彼が異教の地エジプトでも主への信仰に生きたことを表しています。私たちは自分の頑張りや力でやろうとすることはないでしょうか。そのような時は、次第に疲れてきて長続きしないものです。共におられる神様に信頼して歩むとき、神様は私たちを通してご自身の御業を見せてくださるのです。主の御前に重荷を下ろさせてください。「私ではなく、神が」というヨセフの信仰に立たせてください。
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11月8日礼拝

2020-11-09 11:23:32 | 礼拝
創世記37章5~11節,23~28節 「夢を見るヨセフ」

 創世記37章からヨセフ物語が始まります。ヨセフはヤコブの12人の息子の中で11番目の息子でした。ヤコブはこのヨセフを息子たちの中で誰よりも愛していました。それはヨセフがヤコブの晩年の子であったからで、またヤコブの愛する妻ラケルの息子だったからです。ヤコブはヨセフだけを特別に可愛がりました。(3)「それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた」と記されています。それは大変高価な物だったでしょう。兄たちは、父が兄弟たちの誰よりもヨセフを愛しているのを見て、ヨセフを憎み、彼と穏やかに話すことができませんでした。さらに、ヨセフが憎しみを買うような出来事が起こります。彼は二つの夢を見ます。(6)「私が見たこの夢について聞いてください。見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」(9)「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました。」これらの夢の意味するところは、将来、ヨセフが彼の父母、そして兄弟たちを治める者になるということです。兄たちはますます彼を憎み、妬み、関係は険悪なものとなっていきました。

 ある日、父ヤコブはヨセフに、シェケムで羊の世話をしている兄さんたちが無事かどうかを見に行くように頼みます。ヨセフは父の命令を忠実に果たそうと長い道のりを歩いてきて、やっと兄たちを見つけます。その時、兄たちは遠くにヨセフが来るのを見て、この時とばかりに彼を殺そうと企みます。しかし、長男ルベンの説得で、殺さないで穴に投げ込むだけに止めました。兄たちはやってきたヨセフにとびかかり、(23~24)「ヨセフの長服、彼が着ていたあや織りの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。」のでした。ヨセフが着ていた「あや織りの長服」は、父の愛のしるしであり、兄たちには非常に目障りでした。ヨセフは穴の中からどんなに助けを求めたことでしょうか。しかし兄たちはヨセフのことを知らん顔して、自分たちは食事をしていたのです。すると、ちょうどそこにイシュマエル人の商人たちがやって来るのを見て、兄のユダは「弟を殺しても何の得にもならない。あの商人たちに売ってしまおう。」と、銀貨20枚でヨセフを奴隷として売ってしまうのです。その場にいなかった長男ルベンは戻って来て、ヨセフが穴にいないことを知り動揺します。

 兄たちはヨセフの長服をとり、殺した雄やぎの血を浸しました。そして人を遣わして父のもとへ、その血に染まった長服を送り届けます。(32)「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」と、白々しく言い送ります。それを見たヤコブは、ヨセフが獣にかみ裂かれて死んだものと思い、「私も一緒によみに下っていきたい」と言って、何日もヨセフのために泣き悲しみました。ヤコブは息子たちにまんまと騙されてしまったのです。かつてヤコブは自分の父イサクをやぎでだましましたが、皮肉にも、今度は自分が息子たちにやぎでだまされることになりました。その後、ヨセフはあの商人たちによってエジプトでファラオの廷臣、侍従長ポティファルに奴隷として売られます。ヨセフはどうなっていくのでしょうか? 彼は奴隷として売られてしまいますが、神はヨセフと共にいてくださり彼の人生を導いていかれるのです。夢で見たことが実現していくのです。この突然の辛い出来事の中にも意味があり、神様のご計画がありました。私たちの人生にも神様のご計画があります。イエス様が共にいて導いてくださることを心に留めていくことができますように。
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11月1日礼拝

2020-11-02 15:53:08 | 礼拝
創世記32章22~32節 「ヤコブの帰郷」

 ヤコブが伯父ラバンでの生活を終えて自分の故郷に帰りますが、そこで避けることができない一つの問題がありました。それは20年前に喧嘩別れした兄エサウとのことです。ヤコブはエサウを欺き、彼から長子の権利と祝福を奪い取り、そのために彼の怒りを買って、故郷から逃げ出さなければならなかったのです。エサウが住むエドムに前もって使いを遣わし、エサウも四百人の者を引き連れて迎えにやって来るという報告を受けた時に、ヤコブは非常に恐れました。この時彼はてっきりエサウたちが自分を攻撃しに来るのだと勘違いしてしまったのです。彼は早速、作戦を立てます。人々や家畜の群れを二つのグループに分けて進ませました。それは(8)どちらか一方が襲われても、どちらかは助かるだろうと考えたからです。そして神に祈ります。(12)「どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。私は恐れています。」彼の心は恐れに支配されていました。彼はこのように神に祈りながらも、その夜、更に作戦を立てます。彼は兄エサウへの贈り物を選び、自分より先に行く贈り物によってエサウをなだめてから、その後に会おうとしました。そうすれば、エサウは自分のことを赦してくれるかもしれないと考えたのです。

 ヤコブはその夜のうちに、妻たちと子供たちを連れて、自分の持ち物と共にヨルダン川の支流のヤボク川を渡らせますが、ヤコブだけが一人その場に残ります。すると、一人になったヤコブに「ある人」、つまり神の使いが格闘を挑んできたのです。それは夜明けまで続きました。その人はヤコブに勝てないのを見て、彼のももの関節を打ち、その関節は格闘しているうちに外れました。ももの関節は人が足を使って歩くために大切な器官です。そこを打つということは、歩けなくなることであり、ヤコブの自我を打ち砕くということです。(26)すると、その人は「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」とその場を去ろうとしますが、しかしヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」としがみついて絶対に離そうとしません。ヤコブはこの時、ももの関節を打たれて、自分にはどうしても神の祝福が必要だと気づくのです。(27)その人は、「あなたの名は何というのか」と言うと、彼は「ヤコブです。」と答えます。これに対してその人は(28)「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と闘って、勝ったからだ。」と答えます。このことは名前が変わっただけではなく、ヤコブ自身が自分により頼む者から、神により頼み、神が支配する人生へと変えられたことを意味します。

 いよいよ兄エサウとの二十年ぶりでの再会の日がやってきました。もう昨晩までのヤコブではありません。エサウが四百人を連れて向かってくるのが見えましたが、心に恐れはありませんでした。もう贈り物を先に行かせるようなことはせず、ヤコブが先頭に立って進んで行きます。エサウに深く、丁寧に、心から詫びる気持ちでお辞儀して進んで行きました。するとどうでしょう。(4)エサウは走って来て、ヤコブを強く抱きしめました。20年の時を経てエサウの怒りは消えていました。神は、兄弟の和解という祝福を用意してくださっていたのです。これまでヤコブの生涯を通して、私たちは自分で自分を変えることはできませんが、神は変えてくださることを教えられます。もうヤコブとは呼ばず、イスラエルとして新たな歩みをさせてくださるのです。信仰生活とは、神が勝利し、神が自分の人生をご支配してくださることです。そしてその時、私たちは神を仰ぎほめたたえることができるのです。
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