経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

6月21日父の日礼拝

2020-06-22 11:01:35 | 礼拝
ルカの福音書5章17~26節 「友よ、あなたの罪は赦された」 

 主イエスがカペナウムに戻られたことを聞き、多くの人が集まって、主が語る教えに喜んで耳を傾けていました。家には人があふれ、部屋には熱気が満ちていました。今回はパリサイ人や律法学者たちも同席していました。彼らは日増しに高まるイエスの評判を聞き、イエスの行動を冷ややかな目で見ていたのです。すると、4人の男たちが「中風」を患っている人を癒していただこうと床に載せたまま運んできました。「中風」とは、身体の一部分の麻痺のことを言います。しかし、家の中は大勢の人たちでいっぱいで、戸口まで人があふれていて、とうてい中に入れそうにありませんでした。すると4人の男は家の外階段を上り始め、家の屋根の上に上がると、イエス様がいらっしゃる当たりの屋根の瓦をはがし始めたのです。そして天井に穴を開けると、四人はそこから寝たままの病人を、イエス様の前につり降ろしたのです。そこに居合わせた人たちはさぞかし驚いたことでしょう。

 イエス様は彼らの信仰を見て(20)「友よ、あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様が見ておられたのは「彼らの信仰」でした。一見すると彼らの行動は非常識です。しかし、このお方なら必ず癒してくださる!と信じて疑わなかったからこそ、彼らはこれほど大胆な行動をとることができたのでしょう。ここに、彼らの信仰がありました。でもなぜイエス様は癒しを求めていた中風の人に「罪の赦し」を宣言されたのでしょうか。それは、イエス様が見ておられたのは病人が抱えている病気だけではありませんでした。その病気によってその病人が抱えているすべてのことを見ておられたのです。当時のユダヤ社会では、病気は罪の結果ととらえられていました。中風の人は、病気による肉体的苦しみだけではなく、罪人のレッテルを貼られてきた精神的苦しみ、社会から疎外されてきた社会的苦しみをも抱えていたことをイエス様は見て取られました。それゆえ、先ずは罪の赦しの宣言をされたのです。病気の癒しもうれしいことですが、社会的に「罪人」と見なされてきた中風の人にとって、罪の赦しの宣言はどれほど慰めであったでしょうか。

 (21)ところが、そのことばを聞いた律法学者やパリサイ人たちはあれこれと心の中で考え始めました。「神への冒涜を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」そのように心の中でつぶやいたのです。彼らはイエスが罪を赦すと口にするだけなら易しいことだ。目に見える証拠がないのだから、と思っていたのです。しかしイエス様は彼らのつぶやきを知り、(24)「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために―。」と言って、中風の人に「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」と命じると、彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神をあがめながら自分の家に帰っていきました。主イエスは、人々の目に見える形で、中風の人を癒すことによって、ご自身に罪を赦す権威があることを示されました。病が癒されることは素晴らしいことです。しかし、この中風の人が神を賛美し、神と共に生きる人生の喜びに目覚めたことは、もっと素晴らしいことではないでしょうか。聖書は、罪赦されて、神様との関係を回復し、神様と共に歩む人生にこそ、私たちの本当の幸いがあることを伝えています。この人は罪赦されて大きな喜びに包まれました。喜びがなくなり、自分が犯した罪を思い返すことがありますが、主は「あなたの罪は赦された」と宣言されるのです。あなたの罪は主にあって赦されています。そして御霊によって喜びが与えられているのです。この喜びを誰かにお伝えしましょう。
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6月14日礼拝

2020-06-15 16:05:58 | 礼拝
ルカの福音書4章31~41節 「このことばは何なのだろうか」

 話の舞台となっているのは「ガリラヤの町カペナウム」という場所です。主イエスのガリラヤ伝道において拠点となった町です。主イエスは、安息日には会堂に行き、人々を教えておられました。「人々はその教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」とあります。イエス様の教えを聞いた人々はとても驚きました。他の教師たちの話とは全く違い、そのことばには権威がありました。彼が生きた神のことばそのものだったからです。人々はその教えに驚きました。その日も、会堂で皆が礼拝を捧げ、イエス様の教えに耳を傾けていますと、悪い霊に苦しめられていた人が大声で叫びだしました。「ああ、ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのかを知っています。神の聖者です。」悪霊はその霊的な能力により、イエス様が神の子であることを知っていました。イエス様は悪霊が物を言うことを許さず、「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊はたちまちその人から出て行きました。この出来事を見ていた人たちは、「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。」と言って、命じただけで悪い霊を追い出すおことばの力に驚きました。ここで注目したいことは悪霊の方から叫び声をあげたということです。悪霊は神の子を前にして黙っていられなかったのでしょう。聖書を読んでいくと自分の本当の姿に気づかされます。みことばは、人の罪を示し、この罪のために死なれた主イエスの十字架へと私たちの思いを導かれるのです。イエス様は「黙れ。この人から出て行け」と、あなたを縛り不自由にしているものを、あなたの中から追い出してくださるのです。

 その後、イエス様は礼拝を終えて、立ち上がって会堂を出て、弟子のペテロの家を訪ねました。家の中ではペテロの姑さん、つまりペテロの奥さんのお母さんが、ひどい熱で苦しんでいましたので、人々はイエスに癒してくださるように願います。(39)「イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」彼女は熱が引いたばかりなのに、すっかり元気になって起き上がり、喜んでイエス様たちをもてなし始めました。(39)「もてなし始めた」ということばは、「仕え始めた」という意味です。彼女は単に病気を治してくださった感謝やお礼を超えて、癒されたことにより、主に仕えるようになったのです。イエスのことばは彼女の生き方をも変えました。

 皆さんは、どのようなみことばから力を受け励まされましたか?また驚きを受けましたか?昨日、召天者墓前記念礼拝がもたれました。私の母が召されてから今年で18年になります。母のことを思う時にいつも思い出すことがあります。それは母が臨死体験をしたということです。その時の経験を振り返って私に話してくれました。暗いトンネルのようなところを抜け、火花がぱちぱちと光っていて、とてもきれいな所だったと。その話を聞いて、この世の死で終わりではなく、聖書のことば通り「本当に天国があるんだ」という思いを強くしました。その時、神は臨終の母をも用いてご自身の栄光を現されたのだと思いました。現代に生きる私たちは、直接イエス様のことばを聞くことはできませんが、その代わりに聖書が与えられていて、この聖書を通してイエス様のことばを聞くことができます。イエス様の時代の人たちが、主のことばを聞いて驚いたように、今も昔と変わりなく権威をもって私たちに臨まれるのです。驚きをもってイエス様のことばに聞き、そのことばに生きる者としてください。
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6月7日礼拝

2020-06-08 11:50:18 | 礼拝
ヨハネの福音書3章1~15節 “新しいいのち”

 パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいました。彼はユダヤ人の議員でした。最高法院の一員であり、社会的に相当身分が高く、政治的リーダー、ユダヤ教の指導的な立場にある人でした。そのニコデモがある「夜」、イエス様のもとを訪問しました。立場上、誰にも見られないように人目を避けて夜に訪問したと考えられます。また「夜」とは、彼自身の心の闇を表しているともとれます。これまでイエス様が力強く神様のことを教え、数々の不思議な奇跡行ってきたのを見て、イエス様なら自分の悩みに答えを下さるかもしれないと思ったのでしょう。ニコデモはユダヤ人の指導者で律法をよく知っていましたが、神の国に入れる確信が持てず、心は渇き救いを求めていました。

 イエス様はニコデモを見つめて、心の中にある悩みを見通したように、こうおっしゃいました。(3)「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。」「新しく」ということばには、「上から」を意味することばです。神の力により新しく生まれるということです。それに対して、ニコデモは(4)「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」と聞き返します。するとイエス様は(5)「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」「水」とは「洗いきよめる、罪の赦し」という意味で、悔い改めて古い自分に死ぬことです。そしてキリストを信じることにより聖霊が注がれ新たないのちが与えられるのです。神の国とは、死んだ後に行く天国のことだけではなく、地上でも神様と共に歩む新しいいのちのことを意味しています。また御霊の働きについて、ちょうど風のようだと言われます。風は見えませんが、その音を聞いて、またそよぐ木々を見て、風が吹いていることが分かるように、御霊もその影響や効果によって確かに働いていることを知ることができると言われました。私たちもそれぞれ神様を信じるようになったきっかけは違いますが、しかしそこに聖霊様が確かに働いておられたことを知るのです。それでも、ニコデモは、霊によって新しく生まれるということが理解できませんでした。イエス様は最後に、十字架の意味を表すために、旧約聖書からイスラエルの民が荒野を40年さまよった時の一つの出来事を引き合いに出されます。神とモーセに逆らう多くのイスラエルの民は蛇にかまれて命を落としますが、旗竿の先に吊るした青銅の蛇を仰ぎ見ると救われたのです。同じように十字架に上げられるイエス様を信じて仰ぎ見る者は誰でも、永遠のいのちを賜物として受けることができると説かれました。

 その後ニコデモはどうしたでしょう。彼が信仰を持ったかどうかは触れられていませんが、この後、彼は議会でイエス様をかばう発言をしたり、イエス様を墓に納める時には、香料を持って丁重に墓に葬っていることからも、最後には主の弟子とされたことが想像されます。私たちはもう一度人生をやり直せたら、「こうなりたい」「ああなりたい」と思うかもしれません。しかし母の胎から一度生まれたら、再び生まれ直すことはできません。でもイエス様は新しくやり直すことのできる道を用意してくださったのです。この、やり直しのきく人生がイエス様にあって私たちに与えられています。新たな生きがいや希望をお与えください。主を仰ぎ見て古い自分に死に、御霊によって新たないのちに生かしてください。
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