経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

7月25日礼拝「山上の説教④-敵を愛する-」

2021-07-26 15:20:55 | 礼拝
マタイの福音書5章43~48節 

(43)当時、ユダヤの教師たちは『あなたの隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と教えていました。聖書に「あなたの隣人を愛する」ということは書いてありますが、後半の「自分の敵を憎め」とは聖書のどこにも書いてありません。しかし、選民意識の強いユダヤ人はいつの間にか、隣人を愛するということをユダヤ人同士に限定してしまっていました。それどころか、「敵を憎め」ということばを付け加え、それがいつの間にかユダヤ人の常識となってしまっていたのです。しかしイエス様は(44)「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。ここでの「愛する」とは、自分の感情の好き嫌いを表す言葉ではありません。好きだから愛するのではなくて、相手のことを考えて意思をもって愛するということばです。相手の益を考えて自分を犠牲にして行動することです。

 では、なぜイエス様は敵を愛するように言われたのでしょうか。(45)「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」敵を愛してこそ、天の父なる神の子どもになるからです。当時のユダヤ人は、自分たちは神に愛され、特別に選ばれた民であり、自分たちこそ神の子どもであると自認していました。しかし、イエス様は敵を愛する者こそが本当の意味での神の子であると言われたのです。神は太陽を悪人にも善人にも差別することなく昇らせます。また、正しい人にもそうでない人にも等しく雨を降らせるお方です。誰もが空気や水、自然の恵みに生かされています。神はすべての人に対して恵みを施されます。またそれだけではなく、一人子イエス・キリストを与えて下さり、私たちの父となってくださいました。ですから、私たちも神に習い、自分を愛する人たちだけではなく、自分に敵対する者をも愛するようにと言われるのです。

 (46~48)「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。収税人でも同じことをしているではありませんか。また自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」と言われました。ここでの「完全であれ」とは愛において完全ということです。「天の父なる神様が完全な愛で、誰でも分け隔てなく愛しておられるように、あなたたちも分け隔てなく人を愛する者となるように。」と勧めています。しかし、敵を愛することはそう簡単なことではありません。それゆえ「天の父が完全であるように」と言っているように、父なる神様との関係があって初めて実現可能となるのです。神様から離れては何もできませんが、完全なるお方とつながるときに可能とされていくのです。ですからイエス様は「自分を迫害する者のために祈りなさい」と先ず祈ることを勧めました。神様は、私たちのありのままの思いを受け止めて、慰め、癒し、大きな愛を私たちに注いでくださいます。どうしても愛せないなら、愛せないその正直な感情も神様に打ち明けて、その人を愛する愛を与えてくださいと祈ることも助けになります。心を貧しくして主の恵みとあわれみにお頼りしてまいりましょう。敵を愛することは難しいことですが、神は私たちがそのような者に成長していくことを期待しています。パウロは、(ピリピ3:12)「わたしは、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして追及しているのです。」私たちも、イエス様が私を捕えてくださったことを信じ、目標に向かって追い求めてまいりましょう。
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7月18日礼拝「山上の説教③-和解-」

2021-07-19 11:54:35 | 礼拝
 マタイの福音書5章21~26節 

 イエス様は、(21)「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」というユダヤ人の言い伝えを取り上げました。「殺してはならない」とは、イスラエル人たちが神から与えられた「十戒」の第六戒です。しかし律法学者やパリサイ人たちは、この教えに「人を殺す者はさばきを受けなければならない」を付け足したようです。そして次第に、人殺しさえしなければ罪に問われないと、理解されるようになりました。これに対して、イエス様は、(22)「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」イエス様は腹を立てることも本質的には殺人と変わらないとおっしゃいました。イエス様は表面的なことではなく、むしろ隠された人の心の部分を見ておられるのです。殺人という恐ろしい罪も、もとをただせば腹を立てることからです。このような根本的な原因を解決していかなければ真の解決には至らないとイエス様は言われるのです。

 (23~24)「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」礼拝はとても大切なことですが、それを後回しにしてでも、仲直りすることが大切だとおっしゃいました。どうしてでしょう?仲直りをしないまま、人を傷つけてしまったという気持ちを抱えたままでは、神様を心から礼拝することはできないからです。表面だけ敬虔そうに装って神を礼拝しながら、内心では兄弟を恨んでいたり、対立関係にあるなら、その礼拝は決して神に喜ばれるものではないからです。イエス様は、「ささげ物はそこに置いていいから、まず仲直りをしに行きなさい」とおっしゃいました。「ちょっと立ち止まって考えてみましょう」と言われているのかもしれません。なぜ恨みを買ってしまったのか、自分にも何か悪い点、相手に迷惑をかけてしまったことがあるのではないか。示されるならば、悔い改めて和解のために祈りましょう。

 (25~26)「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。」できるだけ早く和解するように勧めています。なぜなら、もし有罪になって罰金刑を科されると、全額を払い終わるまで投獄されるからです。一コドラントとは、ローマの最小額の貨幣で、現在の百円に相当します。最後の一コドラント支払うまで牢に閉じ込められることになると警告しています。このことは、最後の審判を比喩的に示したものと理解することができます。この世において私たちは人に対して多くの負債(負い目)を持っています。このすべての罪は最後の審判において訴えられるのですから、今のうちにその負債を払って和解しなければなりません。そうでなければ、必ず裁かれ獄に入れられるからです。でも、私たちには自分で自分を償う力がありません。イエス様が十字架にかかりすべての罪咎を償ってくださいました。私のために最後の一コドラントまで支払ってくださったから、裁かれず、神と和解することができたのです。ですから、神との和解を受けた者として、兄弟とも和解していけますように。時間がかかるかもしれませんが、和解の実が結ばれていきますように。

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7月11日礼拝「山上の説教②-地の塩・世の光-」

2021-07-12 14:54:03 | 礼拝
マタイの福音書5章13~16節 

  (13)「あなたがたは地の塩です。」と、イエス様を信じて神の民とされた者はすでに「地の塩」であると言われました。塩にはいくつかの働きがあります。一つは腐敗を防ぐ働きです。当時イエス様が生きた時代では、冷蔵庫もなく、輸送手段も発達していなかったので、食品を保存するには塩は欠かすことができませんでした。そのために、魚や肉を塩漬けにしました。そうすると長く取っておくことができたからです。「地の塩」の「地」とは、罪が蔓延しているこの世のことを指しています。私たちはこの地上で腐敗を食い止める塩の役割が期待されているのです。また塩には、料理の味付けという役割があります。塩は調味料として料理に欠かすことができないものです。ごはんを握っただけのおにぎりでは味気がありませんが、塩をつけて握ればおいしさが引き立ちます。ほんの少しの塩がいろいろな食べ物や料理をおいしくしてくれます。塩は食べ物、料理には欠かすことができないものです。私たちクリスチャンも、この世でいてもいなくてもどっちでもいい存在ではなく、なくてはならない存在です。 (13)「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」塩の存在理由は、塩気があるということです。その塩気がなくなってしまえば、役に立たず捨てられてしまうということです。塩は塩のためにあるのではなく、他の食べ物のためにあります。私たちも塩味の効いたことばで人を生かし、相手の徳を高めていく存在です。少数派ですが人々にまたこの世界に良い影響を与えていく者として期待されています。

(14)「あなたがたは世の光です。」と言われました。「世」とは、罪の世を表しています。この世は悲しいことが絶えない暗い世界です。それは人の罪のせいです。神の栄光を輝かさないようにする罪の力がこの世に働いています。そのような暗闇の世界に、イエス様はすべての人を照らすまことの光として来られました。そしてまた、「あなたがたも世の光」と言われます。イエス様は信じる者にご自身と同じ使命を与えられました。(14~15)「山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」当時の明かりは、深皿に油を注ぎ、灯心を入れただけの簡素なものでした。高く燭台の上におかれた明かりは、家のすべての人たち照らしました。光は周りを照らすためにあります。(16)「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」「良い行い」とは、人に好意を寄せられるとか、犠牲的なという意味があります。あなたがたの光を人々の前で輝かせ、神ご自身の栄光が現わされるようになるためです。

 (エペソ5:8~9)「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。」私たち、以前は闇の中にいた者でしたが、今は光の中を歩む者とされました。光の性質は愛であり、いのちであり、光の実が結ばれていきます。でも自分のような者が「地の塩・世の光」なのか、自分を通して父なる御名があがめられるのかと思うかもしれません。自分で輝くことはできません。自分の内に光がないからです。イエス様の光をいただいて光り輝くことができるのです。イエス様の愛をいただいて人を愛することができる者です。私たちは主にあってすでに「地の塩・世の光」とされました。塩味の効いた生かす言葉で相手の徳を高め、より良い豊かな人間関係が築かれていきますように。この世にあって光の実が結ばれていきますように。父なる神があがめられますように。
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7月4日礼拝「山上の説教①-幸いな者-」

2021-07-05 14:59:43 | 礼拝
マタイの福音書5章1~12節 

 この時すでに、イエス様は多くの病人や悪霊につかれた人たちを癒していたので、イエス様の名声は今やガリラヤだけでなく、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向う岸まで及んでいました。大勢の群衆が一目でも彼の姿を見、その教えを聞きたいと集まって来ました。その多くはローマの圧政に苦しめられ、重税に泣く民衆たちでした。戦争はありませんでしたが、ローマに占領されその支配下に置かれているので、夢も希望もありませんでした。幸福への夢があったとしても、それはむなしいもので、現実はあきらめの連続のような毎日でした。イエス様は山に登り、幸せへの道をおもむろに語り始めたのです。(3)「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」イエス様は開口一番「幸いです」と言った時、人々は思わず身を乗り出してイエスのことばに耳を傾けたことでしょう。誰もが幸福を求めていたからです。ところがイエス様は次に、「心の貧しい者」が幸いだと言われたのです。聞いていた群衆はほとんど貧しい生活をしていました。お金がなくて食事も十分に食べれない人、ボロの服を着ている人、そのような人が、はたして幸福なのでしょうか。「貧しい」と訳されたことばは、「物乞い」とか、何も持っていない「破産者」の意味です。全く打ち砕かれた敗北者であり、乞食です。神様に物乞いする人のことです。「心の貧しい人」とは、神様に御頼りしなければ到底生きていけないと、ひたすら、神さまにより頼む人のことを言います。では、なぜ心の貧しい人は幸いなのでしょうか?「天の御国はその人たちのものだからです。」「天の御国」とは、「神の支配」という意味です。天の御国とは、この世にあって神が支配され、共にいてくださるところです。主イエスがこの地に来られたことによって始まった神の恵みと愛によるご支配のことです。そのような天の御国が心の貧しい人に約束されているのです。それゆえに、心の貧しい人々は幸いなのです。

 (4)「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」寂しさで、孤独の中で悲しむ者は神様からの慰めを受けることができるからです。(5)「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」心優しい人、神の前にへりくだり、神が語られることに素直に従う人は、神の国を受け継ぎます。(6)「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」「義」とは神様との正しい関係を指し、魂の飢え渇く者は、キリストによって真の満足が与えられるのです。(7)「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」他人にあわれみを分け与えることのできる者は幸いです。その人たちはさらに神の豊かなあわれみを受けるようになるからです。(8)「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」心のきれいな純真な人、ひたすらに神を求める者は、神がどのような方であるかが分かるようになります。(9)「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」争いがあるところに和解をもたらす働きをする人は神の子と呼ばれ、子としての身分を与えてくださるのです。(10)「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」イエス様を信じて迫害に遭っている者は、天において大きな報いがあります。イエス様は誰も相手にしてくれず、自分はダメだと絶望している人のことろへ行って友だちになられました。どうしようもない罪人を、引き受けられました。悲しんでいる人を捜し求めてその人のところへ行かれました。だから、イエス様に出会って慰めが与えられるのです。イエス様は悲しんでいる人を求めていかれるのです。同じように、柔和な人、義に飢え渇いている人、あわれみ深い人、心のきよい人、平和をつくる人、義のために迫害されてきた人たちを求めておられるのです。イエス様が尋ねていかれるからこそ、彼らは幸いです。私たちも幸いな者です。悲しむ者に寄り添い、柔和な心で、あわれみ深い者とならせてください。きよい心で平和をつくる者とならせてください。
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