経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

8月29日礼拝「士師の時代①ー力ある勇士よー」

2021-08-30 14:16:14 | 礼拝
士師記6章1~6節,11~18節 

 (1)「イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行った。そこで、主は七年の間、彼らをミディアン人の手に渡された。」イスラエルの民が約束の地カナンに来てから時が経ち、指導者ヨシュアも召されました。新しい世代は、神が奇跡をもってエジプトから導き出してくださったことも、カナンの地で勝利したことも忘れて、その土地の偶像を拝むようになりました。それで主は怒りを燃やし、七年間、イスラエルをミディアン人の手に渡しました。イスラエルは、神のさばきとしてミデヤン人に攻め込まれ苦しめられることになります。ミディアン人が攻めて来るので、イスラエル人は彼らを避けて、山の洞窟や洞穴(ほらあな)に身を隠しました。ミディアン人は毎年収穫の時期を見計らって、イナゴの大群のようにイスラエルに押し寄せてきて、その地の産物や家畜を奪って行きました。それで、イスラエルはミディアン人のために非常に弱くなっていき、このような状態が7年も続き、ついに主に助けを叫び求めたのです。
 
 神は、イスラエルを救う指導者としてギデオンを選びました。彼はどのような人物だったでしょうか? (11)「このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。」ギデオンはミディアン人の攻撃を避けて、酒舟の中でこっそり麦を打つ臆病な者でした。しかし主の使いは開口一番、(12)「力ある勇士よ。主があなたとともにおられる」と言われたのです。自分が「力ある勇士」?これは本人も全く予想していないことでした。ギデオンはすかさず反論します。「主がもし私たちといっしょにいるなら、なぜ、こういうことが起こったのでしょう。先祖たちがエジプトから救い出されたあの驚くべき御業はどこにありますか。今、主は私たちを見捨てて、ミディアン人の手に渡されたのではありませんか。」ところが、主はこう仰せられました。(14)「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」ギデオンはなお反論します。ご存知のように私の分団はマナセ族の中で最も弱く、また私は家族の中で一番若いのです。しかしなお、主はギデオンに約束されます。(16)「わたしはあなたとともにいる。あなたはひとりを討つようにミディアン人を打つ。」本人の能力や力ではなく、主が共にいてくださるから勝利することができることを再び示されました。

 続いてギデオンは、自分が話している人が本当に主であるかどうか知りたいと思って、「しるし」を求めました。(17~18)「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。どうか、私が戻って来るまでここを離れないでください。贈り物を持って来て、御前に供えますので。」主はこの願いを快く受け入れてくださいました。ギデオンは家に入り、子やぎ一匹を料理し、種を入れないパンを焼き、それを持っていきました。彼は神の使いが命じるままに、肉と種なしパンを岩の上に置き、その上に肉汁を注ぎました。主の使いが持っていた杖を伸ばしてその供え物に触れると、たちまち、火が岩から燃え上がって、それらのものを焼き尽くしてしまいました。すると主の使いは去って見えなくなりました。それで、ギデオンはこの方が主であることが分かりました。主はギデオンを選ばれたように、あなたをも選び使命を与えてくださいます。どうして自分がと思うことがあります。自分には荷が重すぎると思うこともあります。でも主が共にいてくださるので、力ある勇士としてくださるのです。主が共におられることを信じて、主の招きに応答してまいりましょう。
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8月22日礼拝「岩の土台」

2021-08-23 12:51:28 | 礼拝
マタイの福音書7章24~27節 

  (24)「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」「わたしのこれらのことばを聞いて」とは、山上の説教の中で主がこれまで語られた教えを聞いてという意味です。(25)「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台を据えられていたからです。」この洪水や嵐も、終末のさばきを意味していると思われます。 (26~27)「また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」「それを行わない者」とは、みことばは聞くけれども、それだけで終わってしまい、実際には行わないという人のことです。「家を建てた」という点では、二人とも全く同じでしたが、結果は真逆となり、一方は倒れることなく、もう一方はひどく倒れてしまいました。

 それでは、その違いはどこにあるのでしょうか?その差は土台にあります。賢い人は、家を建てる時どのように建てたでしょうか?並行個所のルカの福音書では、(6:48)「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて」と説明されています。賢い人は家を建てる時まず地面を深く掘りました。硬い大きな岩が出てきたら、その岩の上に土台を造って家を建てました。一方、愚かな人は、砂の上に家を建てました。砂の上では土台とはなりません。二人の違いはただ一点、何を土台としているかでした。それは見た目にはよくわかりません。両方の家とも同じように見えたでしょう。私たちの人生も、家を建てることに似ています。私たちも人生という家を建てていると言えます。そして、その人生には、見えないけれど重要な部分、つまり土台があります。私たちは人の表面的な部分はよく見えますが、その人の土台の部分、何を信じているのかとか、何を大切にして生きているかという人生の土台は、普段の生活ではほとんどわかりません。でも、いざというときに、何を土台として生きているか、何を心の支えとして生きているのかということが問われます。岩なるイエス様を土台とする者は、決して倒されることがないのです。

 そして、岩のような固い土台を据えるためには、「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う」ことです。でも、イエス様が説教された教えを実践していくことは、救われていても罪人である私たちにとっては決して簡単なことではありません。では、どうしたらよいのでしょうか?それは、先ず、信じることです。イエス様は神の子であり、自分の罪のために十字架にかかってくださった事実を信じ、悔い改めることです。信じることこそ、「聞いて行う」ことの第一歩です。自分の肉の力では限りがありますが、私たちが主を信じ、御霊によって導かれる時、また神の愛に生かされる時、ささやかで不十分な実践であっても、可能としてくださり、そのことを神様は喜んでくださるのです。ですから、山上の説教の一つ一つを守っているかというよりも、何よりもイエス様が、神の一人子であることを信じて、このイエス様を自分の人生の土台として据えていくことが、私たちにとって最も肝心なことだと言えます。私たちの人生には、突然、試練が襲ってくることがあります。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いて」襲うことがあります。しかし私たちは決して倒されることはありません。なぜなら岩の上に土台が据えられているからです。今週も主イエス様を信じ、土台に据えて歩む一週間とさせていただきましょう。
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8月15日礼拝「求め、探し、たたく」

2021-08-16 10:45:37 | 礼拝
マタイの福音書7章7~11節,ルカの福音書11章5~13節

 (マタイ7:7)「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」イエス様は弟子たちと、みもとに集まって来た群衆に向かって祈りについて教えられました。ここでは、「何を」求めるのかとは、はっきり述べられていませんが、前の章でイエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われていますので、ここでは、神の国を求めるということなのでしょう。そして「何が」与えられるかと言うと、「良いもの」「聖霊」を与えると言われました。ですから、「求める」とは、父なる神のみこころにかなう生き方を熱心に求めることです。物を求めることではありません。自分の罪を自覚して、義に飢え渇いて、父なる神に必死に求めることです。そして主は求める者に「良いもの」を与えてくださいます。ルカの福音書では、これが「聖霊」であると記しています。(8)「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」と約束されます。祈りが聞かれるか、聞かれないかなと疑いながら祈るのではなく、祈りは必ず聞かれると、深い信頼と確信をもって祈り求めていきます。

 (ルカ11:5~8)「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』」ユダヤ人にとって旅人をもてなすことは大切なことでした。しかし、真夜中ということもあり、友人をもてなす食事が何もありませんでした。それで近くの友人のところに行って、パンを三つ貸してほしいと頼みますが、その友人は、もう遅いし、子どもも寝ているから貸すことはできないと断ります。しかし、イエス様はこう言われます。(8)「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。」「しつこさ」と訳されていることばは、「恥知らず」「図々しさ」とも訳せます。願い求めるものが重要であればあるほど、簡単には諦めることができません。友人と言うことではなく、しつこく諦めずに頼み続けるなら答えてくださるのです。

 (マタイ7:9~11)「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」「良いもの」とは、並行個所のルカの福音書(11:13)では、「聖霊」に置き換わっています。神様は求める者たちに聖霊を与えてくださいます。友人は何度も頼み続ければ願いを聞いてくれますが、父なる神は友人以上のお方であって、いつも与えようとしておられます。それも最善のものを与えようとしておられるのです。神が私たちに与えてくださる中で最たるものが聖霊です。私たちの体が食べ物によって支えられるように、私たちの内なる霊は聖霊によって強くされ生かされます。聖霊は神のみ旨を示し、神のみこころを実行する力を与えてくださいます。主に信頼して祈り求めます。日々、御霊に導かれ、主のいのちに生かされていきますように。
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8月8日礼拝「さばかない」

2021-08-09 13:50:21 | 礼拝
マタイの福音書7章1~5節,ガラテヤ人への手紙6章1~5節

 (1~2)「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」イエス様は弟子たちや民衆に向かって、「あなたがたは人をさばいてはいけない」と言われました。「さばく」とは、人のあら探しをして批判することです。では、なぜ人をさばいてはいけないのか?それは、自分がさばかれないためです。自分がさばいたように、そのさばきでさばかれ、自分が量ったようにその秤で量られるからです。これは神によるさばきを指しています。イエス様が再臨される時、すべての人が御前に立ち、神のさばきを受けることが定まっています。その時、他の人をさばいたのと同じ基準でさばかれるからです。私たちは自分のことを棚に上げて、人のあら探しをし、ちいさなことを誇張して批判してしまうことがあるかと思います。私たちはつい、相手の立場や気持ちを考えずに、「ここが悪い」と断罪してしまうのです。主イエスはそのような言動について、人を「さばく」ことだと言って、「さばいてはいけない」と教えられました。

 (3~4)「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって『あなたの目からちりを取り除かせてください』とどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」私たちは他人の目の中にある小さなちりを見逃さないほど、他人の欠点にはよく気がつくのに、自分の目にある梁には少しも気づきません。自分にそれほど大きな欠点があるのに、兄弟に向かって「あなたの目からちりを取り除かせてください」と言うのはおかしいということです。(5)「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」他人を批判する前にまず自分をしっかりと見つめ、神の前に徹底的に自己批判をして、自分が罪人であることを認めなければならないとイエス様は言われるのです。自分の問題や罪、偏った価値観や正義がある時には、相手を正しく見ることができません。それを取り除いて初めて、相手を正しく公正に見ることができると言われました。「自分の目から梁を取り除く」とは、悔い改めて、自分の罪を除いていただくことです。自分は正しい、偉いという傲慢さ、目の中に梁があることに気づき、悔い改めて、梁を取り除いていただくことです。「そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができ」るのです。

 (6:1)「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」パウロは過ちの中にある兄弟に対して「柔和な心で正す」ように助言します。「柔和な心」とは、相手を思いやる謙遜な心でということです。それは決して、自分の正しさを示したり、相手より優位に立とうとすることでもなく、相手のことを思い愛をもって示すことです。(2)「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」キリストの教会に求められているのは、さばきではなく、「互いの重荷を負い合う」ことです。言い換えるならば、「互いに愛し合う」ということです。自分の弱さや罪に真摯に向き合い、「はっきり見えるようになっ」た目で互いに助け、補い合ってキリストのみ体を建てあげます。自分が罪赦された者として、主の愛に生かされていく時に、互いの重荷を負い合っていけるのです。
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8月1日礼拝 「神の国と神の義を求める」

2021-08-02 10:04:13 | 礼拝
マタイの福音書6章19~24節,31~34節
 
 
(19~20)ここで、イエス様は「地上に宝を蓄えるのではなく、天に宝を蓄えなさい」とおっしゃっています。地上の宝とは、たとえばお金や財産、地位や名誉などこの世の富や誉を指しています。当時、高価な衣服は宝とされていましたが、いつかは虫に食われたりして駄目になってしまいます。高価な貴金属類も、時間が経てばさびついたり、傷がついたりするものです。また、パレスチナの家の壁は焼いた粘土でできていましたので、盗人は壁に穴をあけて侵入することができました。そのように地上の宝や富は永遠にあるものではありません。それでは、「天の宝」とはどのようなものでしょうか?それは、神を信じる心や神との親密な関係、神からいただく報いや霊的な祝福のことを指しています。その宝とは目に見えるものではありません。ですから「天に宝を蓄える」とは、心を天の神様に向けて、神様に喜ばれる歩みをすることです。 (21)「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある」あなたの心はこの世か神かどこにあるでしょうか。 

(22-23)「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」目は情報の入口であり、目を向ける方向によって、私たちの関心のありかが分かります。「健やか」とは、「澄んでいる」とも訳されます。「目が澄んでいる」とは、一つを見つめているということです。目が神様の方向に向けられていることです。一方「目が悪い」とは、神様以外のことを見ている目です。この世の宝や富に執着していることを意味しています。「目が悪ければ」、焦点が合わず、生活全体もぼやけたものになってしまいます。私たちの目はどこに向けられているでしょうか。(24)「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」目が光と闇を同時に取り込めないように、「二人の主人」つまり「神と富」の両方に仕えることはできないのです。
 
 以上の教えを踏まえて、イエス様は自分のいのちにかかわる飲食や自分の体にかかわる衣服について、(25)「心配したりするのはやめなさい」と命じました。これは「思い煩う」と訳されることばで、心配は何の役にも立ちません。神は小さな鳥のいのちを守り、明日にははかなく炉に投げ込まれる小さな野の花さえ美しく咲かせてくださるのだから、ましてあなたがた人間にはもっと良くしてくださり、必要なものを予め知っていて用意してくださるのだから、何を食べようか、何を着ようかと心配しなくてよいのです。(33)「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」神様に自分を支配していただくこと、神が正しいとされることを求めていくことです。つまり神様に信頼して神様のみこころを求めていくことです。この世のことを求めていく時にいろいろな心配に襲われます。ですから心配の一番の対策は、神を求めることです。からだを与え、いのちを与えられた神様がそれに必要なものをすべて備えて下さいます。(34)「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。」心配しないでその日その日目の前のやるべきことをやっていきます。「神の国と神の義を求める」生き方とは、この世の報いを求めていくことではありません。天の父の報いを第一に求めていく生き方です。それは、神様から霊的な報い、祝福をいただく生活です。世にあって神様からの報いを第一に求めていく者とさせていただきましょう。
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