経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

5月26日 「あわれみの神」

2019-05-27 17:29:06 | 礼拝
マタイ20章1~16節

Ⅰ:ぶどう園のたとえ

 (1~2)「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。」

天の御国(神の国)とは、どのような所でしょうか。天の御国とはぶどう園の主人が朝早く出て、ぶどう園で働く者を雇うのに似ていると言うのです。「主人」は「神」、「働く者」は、私たち教会員のこと、「ぶどう園」とは「神の教会」のことです。ここでは、イエスの十字架によって救われ、神の恵みのなかを生きる人生のことを表しています。主人は自分のぶどう園で働く働き人を雇いました。それは、神が「ぶどう園」という「恵みの人生」に私たちを招き入れてくださることを表しています。
ぶどうの収穫期には多くの人手が必要でした。そこで雇い主(農園主)は朝早く市場(広場)に出かけて行って、仕事を探している多くの人々を雇いました。労働時間は当時、朝6時から夕方の6時までで、賃金は当時の労働者の標準的な日給である一デナリでした。今の価値に換算すると一万円前後となるでしょう。
 
 このたとえが語られている理由について、19章27節で、ペテロはイエス様に「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」そのように質問しました。私たちはすべてを捨てて、あなたにお従いしました。それでは、何がいただけるのですか。それに対してイエス様は、捨てた者へのこの世と新たな世界では豊かな報いについて話されました。(30)「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」と不思議なことを付け加えられました。また、20章16節にも、「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」と同じことばを繰り返しています。このことをより深く理解するために、ぶどう園のたとえが語られています。
ペテロは「それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」とイエス様に質問しました。それは、これだけのことをしたのだから、どんな報酬があるのかと言うことです。行いに対する報いを期待していました。私たちもこれだけ頑張ったのだから、努力したのだから、報われる、幸せになれると、そのように考える人は多いのではないかと思います。しかし、天の御国はそのような世界ではありません。このぶどう園のたとえは、神が私たちを恵みに生かされる人生へと招いておられることを表しています。

 
Ⅱ:5時に雇われた者たち

(3~5)主人は9時ごろにまた市場に行き、市場で何もしないで立っている人たちを見かけました。まだその時点で仕事にあり付けていなかった人たちでしょう。主人はその人たちに「相当の賃金を払うから。あなたがたもぶどう園に行きなさい。」と声を掛けました。「相当な賃金」とは、その労働に対してふさわしい、釣りあった賃金を払うということです。9時にいた人たちもそのように思ったことでしょう。
 また主人は、正午にも、また午後3時頃にも市場に行ってみて、何もしないで立っている人たちを見つけては同じように、「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」と声を掛けました。正午、3時にぶどう園に行った人たちは、すでに半日、半日以上過ぎていました。多くはもらえないと思ったかもしれませんが、雇ってくれることに感謝して、主人を信頼してぶどう園に行きました。
 
(6~7)主人はまた夕方5時になっても、市場に行きました。一日の仕事が終わるまで、あと一時間しかありません。しかしまだ市場に何もしないで立っている人たちがいました。主人は彼らに「なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか」と尋ねると、「だれも雇ってくれないからです。」と答えました。すると主人は「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」と言われました。
 雇い人が働き人を雇う時に、どういう基準で選んだのでしょうか。おそらく、仕事のできそうな人、体力のありそうな人、仕事に必要な道具を持っている人、自分を上手に売り込める人、そんな人が声を掛けてもらったのではないかと思います。そう考えますと、5時にそこにいた人たちと言うのは、最後まで声を掛けられなかった人たちになります。最初自分は使ってもらえるだろうと思っていましたが、スルーされ、そんなことを一日中くり返して残った人たちです。主人はそのような人たちにも、いくら支払うとは言いませんでしたが、とにかく、ぶどう園に行くように言われました。5時の人たちは、ほとんど時間が残っていませんでしたが、それでも雇ってくれることに感謝して言うとおりにぶどう園へ行きました。

 ぶどう園の主人は早朝6時、9時、12時、3時、5時にぶどう園に働き人を探しに行きました。これは何を意味しているかと言いますと、時間は、私たちの人生の年代を表しています。つまり、幼いころから教会に行っている人もいれば、十代、二十代、三十代、六十代、七十代になってイエス様に出会って、教会に足を運ぶようになる人もいます。ある人たちは、死にゆく病床で初めて主の救いを知り、信仰を告白する人もいます。人生のどの段階であっても、神は何度も何度も探しにいき、ご自身の恵みの人生に招き入れようとしておられるのです。
 主人は5時に立っている人たちに「なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。」と尋ねました。文語訳ですと、「何ゆえ終日ここに空しく立つか」と訳されています。一日空しく立つとは、何が人生の目的かを分からず、この世のことに空しく生きている姿を表しています。彼らは「誰も雇ってくれないからです。」と答えます。彼らのたましいの嘆きを想像することができます。誰もが本当の造り主である神のもとに行き、心の安らぎ憩いを得ることを、心の底では願い求めているのです。
 

Ⅲ:後の者が先になり、先の者が後になる

(8~9)「夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。」
 一日の仕事が終わり、主人は監督者に、今日の報酬を労働者に払うように言われました。監督者は「イエス・キリスト」を表しています。労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから賃金を払うようにしました。そして5時に雇った人たち、たった一時間しか働いていない人たちにもそれぞれ一デナリを渡しました。
(10)それを見ていた最初の人たちは、1時間しか働いていない者が1デナリもらったのだから、私たちはもっともらえるだろうという期待感がありました。しかし、彼らがもらったのも同じ一デナリでした。(11)すると、最初から働いた人たちは主人に不満を漏らし、(12)「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」不公平だと不満をぶつけたのです。
私たちがこの最初から働いていた人たちの立場であったら、どう思ったでしょうか?同じように不平をもらしたでしょうか。

(13~15)すると主人はその一人に答えました。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」そのように答えました。
確かに主人は最初の人たちとは1デナリで約束したので文句を言えることではありません。自分のものを好きなようにして悪いことはありません。しかし何か腑に落ちません。
「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」このことばは、このたとえの要点とも言えることばです。神様の御思いを端的に表しています。誰にでも同じだけ与えたいのです。神はご自身の権威で、自由に恩恵を施し、ご自身が恵もうとする者を恵まれるお方です。主人はとても気前のよいお方です。
(16)「後の者が先になり、先の者が後になります。」
私たちが救われるのは、この世の中で、長く信仰を持っているとか、良い行いを積んできたから救われるのではありません。そうすれば、天国に行けるのでもありません。ただ神様の恵み、あわれみによるということです。人生の最後であろうと、信仰生活が短かろうと、罪を悔い改めて、イエス様を信じるならば、永遠の救いがいただけるのです。

 2年前にご主人を亡くされ、それから教会に来るようになったM子さんというご婦人がいらっしゃいました。ご主人のお父さんはクリスチャンで、ご主人は子どものころ教会学校に行っていましたが、その後全く教会には行かず離れていました。しかし晩年ご病気になり、亡くなる直前に洗礼を受けると言い出したのです。そして驚いたことに、自分が洗礼を受ける時に、妻のM子さんも一緒に洗礼を受けることを勧めたのです。M子さんは断ることもできたそうですが、何か感じるところがあり、ご主人と一緒に洗礼を受けられました。そして今はお一人で、ご主人のお父さんが通っていた教会に通っています。
ご主人はこの世を終える直前に、イエス様を信じました。この地上での信仰生活は短いものでしたが、天国へと迎え入れられました。またそれだけではなく、妻のM子さんが救われ教会に行くようになったのです。神様のなさることは不思議です。「後の者が先になる」ように、一日の働きが終わる5時にぶどう園に行きましたが、一日分の報酬の一デナリという永遠のいのちをいただき、天の御国に入れられました。またそれだけではなく、長年連れ添った妻の救いという実が結ばれました。

神様はこのように本当に、情け深く、あわれみ深いお方です。神様は、どれだけ長く働いたか、どれだけ頑張ってきたかによって報いてくださるお方ではありません。この世の中はそうかもしれませんが、天の御国はそうではありません。たとえ、遅くなっても信じるなら一デナリの報酬をいただくことができるのです。
ぶどう園の主人である、あわれみ深い神は、朝早くから、何度も何度も市場に向かい、そこで何もしないで立っている人たちに「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と声をかけ続けています。この世の空しさから離れ、神の恵みによって生かされる人生へと招いておられるのです。私たちの周りに、誰にも雇ってもらえず何もしないで立っている人がいるでしょうか。人々のたましいの嘆きに耳を傾けていけますように。あわれむ心をお与えください。

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5月19日 「富める指導者」

2019-05-20 12:08:55 | 礼拝
ルカ18:18~30「富める指導者」

 
Ⅰ:一つ欠けていること(18~23)
 
(18)「また、ある指導者がイエスに質問した。『良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。』」
ある指導者がイエスのところに来て質問しました。若くてお偉い役人または議員でした。またこの人は品行方正で、大変な金持ちでした。若くて人望があってしかも裕福だというのだから、この世的には三拍子そろった、人のうらやむような人でした。しかし、彼はイエスのもとに駆け寄り、御前にひざまずいて非常に真剣な気持ちで「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるのですか」と尋ねたのです。彼は真剣に救いを求めていました。そして、何かをすれば永遠のいのちが得られると思っていたのです。この点について、私たちも何か良いことをすることによって、救われる、天国に行けると感じている人は案外多いのではないでしょうか。この人も何か良いことをすれば永遠のいのちを受け継ぐことができるだろうと考えていたのです。「永遠のいのちを受け継ぐ」とは、「神の国に入る」「救われる」と同じ意味です。
 
(19)イエスは彼に言われました。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」「良い」とは、神にしか使われない言葉です。この人がイエスのことを主と信じていたわけではなかったので、なぜわたしを「良い」と言うのか、良い方は神おひとりの他誰もいないと諭されました。この指導者の心を神に向けさせようとしたのです。(20)続いてイエスは十戒の後半部分を教えました。「戒めはあなたもよく知っているはずです。姦淫してはならない。殺してはならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。」
イエスはこれによって彼の罪を悟らせ、彼を神に導こうとされたのです。(21)するとその人は「私は少年のころから、そのようなことは守っています。」とためらわずに答えました。ユダヤの子どもは幼い時より、これらを暗唱させられ、それを行なうように教え込まれていたからです。そのような生活をしてきても、永遠のいのちの確信が持てず、イエスのもとに来たのです。
 
(22)イエスはこれを聞いて次にこう言われました。「まだ一つ、あなたには欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしに従ってきなさい。」しかし、彼はこれを聞いて自分にはできないことを知り非常に悲しみ、イエスのもとから去って行きました。
「欠けていること」とは、何だったでしょうか。それは、神に寄り頼まずに、富により頼んでいたことです。そのことを悟らせるために、持っている物を売り払い、貧しい人に施すように言われました。彼は神様のことを信じてはいたでしょうが、実は神に寄り頼んではいなかったのです。実際は自分の財産、富により頼んでいたのです。イエス様はそのことを指摘されたのでした。この指導者は、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるのか」と尋ねています。人は良い行いやこの世の物によって永遠のいのちを得ることはできません。なぜなら、この世のものは永遠ではなく、いつかは朽ちて滅びてしまうものだからです。ですから、永遠のいのちを得るためには、永遠のいのちであるイエス様につながることであり、イエス様により頼むということです。そのことを、この指導者に伝えようとされました。

 
Ⅱ:らくだと針と穴(24~27)
 
(24~25)イエスは彼がとても悲しんだのを見て「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」と言われました。
 ラクダが針の穴を通ることができないのですから、富を持つ者が神の国に入ることがどれだけ難しいことでしょうか。しかし、富んでいる者は救われないという意味ではなく、富がしばしば救いの妨げとなることを言っています。
 
イエス様は隠喩を用いて説明されました。イスラエルでは「針の穴」とは、ある小さな門のことを指していたようです。らくだは動物の中では大きな動物です。そして商人が荷物を運ぶのによく用いられました。商人が町を出入りし、城壁の門を通るときに、夜遅かったりすると、門が閉じられていて通り抜けることができません。その際、大きな門の横には旅行者用に出入りのための小さな門があります。それが「針の穴」と呼ばれているものです。
 その小さな門を大きなラクダが通るには、背中に背負っている荷物をすべて下ろし、膝をかがめて這うようにしなければ、針の穴の門を通り抜けられなかったのです。神の国に入るということも同じことが言えるでしょう。針の穴という門を通るには、背負い、身に付けている荷物をすべて下ろし、イエス様の足もとにひざまづいて体を小さくし、謙遜にならなければ、その門に入ることができないのです。このようにイエス様はラクダと針の穴の比喩を用いて、金持ちが神の国に入ることの難しさを言われました。
 
(26)それを聞いた人々は「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と驚きました。当時のユダヤ人にとって、富は神からの祝福であり、富んでいる者は最も神の救いに近いと考えていました。ところが、イエスは逆のことを言われたからです。人々はあのような真面目で立派な指導者でも救われないことを見て、救われることの難しさを感じたのでした。
(27)するとイエスは「人にはできないことが、神にはできるのです。」と言われました。
救いは、人間の良い行いや努力や身分によって得られるものではありません。しかし、神はご自身の愛とあわれみによって、罪人を救うことができるのです。富んでいる者をも富に対する執着から解放し、心を貧しくしお救いになるのです。これは富だけの問題ではなく、この世の権力や地位、快楽、その他どんなものでも、その人の心を満たしているものから解放しお救いになれるのです。

 
Ⅲ:何倍もの祝福(28~30)
 
(28)すると話を聞いていたペテロは「このとおり、私たちは自分のものを捨ててあなたに従ってまいりました」と言いました。「自分のもの」とは、「自分の持ち物」という意味です。ペテロは私たちはすべての持ち物を捨ててイエス様に従っているのだから、私たちは神の国に入ることができるだろうと思ってイエス様に告白しました。
(29~30)イエス様は言われました。「まことにあなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来るべき世で、永遠のいのちを受けます。」
 弟子たちの場合、確かに家を捨て、仕事を捨て、家族を捨ててイエス様に従って行きました。自分のものを捨てる者は、この世で多くの祝福を受け、新しい天と地において、永遠のいのちを必ず受けるとの約束です。
 私はここのみことばを読みながら、確かに献身ということはすべてのものを捨てて、イエス様に従って行くことだなと思いますが、自分の愛する家族を捨てるということはどういうことなのかな、イエス様の真意はどこにあるのかなと考えました。イエス様は決して家族を捨ててないがしろにするということではないようです。捨てるとはどういうことかと言いますと、「リセットする」と言ったらいいでしょうか、一度、肉としての家族関係をリセットすることによって、肉親よりもさらにまさる愛の関係を築いていくことができることを言っているのだと思います。血のつながりだけではなく、主にある愛の関係が築かれていく時に、この世で何倍もの祝福を受け、来世では永遠のいのちを受けるのです。
「自分のもの」とは、「自分の持ち物」、自分が持っている物という意味ですが、自分で離さずに握りしめている物を離す時に、この世の何倍もの祝福を受けて、来るべき新しい世界で、永遠のいのちを受けるのです。これは自分のものなんだ、絶対離さないぞと握りしめている時には、それはそのままですが、一旦それを離す時に、主に明け渡すならば、ただ返って来るだけではなく、何倍もの祝福として返って来るのです。神の国の法則は不思議だと思います。
 私たちは多くの物を与えられていますが、すべて神様によって与えられた物です。神様によって与えられずにいただいているものはありません。富や能力、時間、親や肉親、すべて神様から与えられた物です。それを明け渡していく時に、何倍もの祝福として返してくださるのです。どのように用いていくでしょうか。持てる物を捧げることは難しいことですが、「人にはできないことが、神にはできるのです。」
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