マタイ20章1~16節
Ⅰ:ぶどう園のたとえ
(1~2)「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。」
天の御国(神の国)とは、どのような所でしょうか。天の御国とはぶどう園の主人が朝早く出て、ぶどう園で働く者を雇うのに似ていると言うのです。「主人」は「神」、「働く者」は、私たち教会員のこと、「ぶどう園」とは「神の教会」のことです。ここでは、イエスの十字架によって救われ、神の恵みのなかを生きる人生のことを表しています。主人は自分のぶどう園で働く働き人を雇いました。それは、神が「ぶどう園」という「恵みの人生」に私たちを招き入れてくださることを表しています。
ぶどうの収穫期には多くの人手が必要でした。そこで雇い主(農園主)は朝早く市場(広場)に出かけて行って、仕事を探している多くの人々を雇いました。労働時間は当時、朝6時から夕方の6時までで、賃金は当時の労働者の標準的な日給である一デナリでした。今の価値に換算すると一万円前後となるでしょう。
このたとえが語られている理由について、19章27節で、ペテロはイエス様に「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」そのように質問しました。私たちはすべてを捨てて、あなたにお従いしました。それでは、何がいただけるのですか。それに対してイエス様は、捨てた者へのこの世と新たな世界では豊かな報いについて話されました。(30)「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」と不思議なことを付け加えられました。また、20章16節にも、「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」と同じことばを繰り返しています。このことをより深く理解するために、ぶどう園のたとえが語られています。
ペテロは「それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」とイエス様に質問しました。それは、これだけのことをしたのだから、どんな報酬があるのかと言うことです。行いに対する報いを期待していました。私たちもこれだけ頑張ったのだから、努力したのだから、報われる、幸せになれると、そのように考える人は多いのではないかと思います。しかし、天の御国はそのような世界ではありません。このぶどう園のたとえは、神が私たちを恵みに生かされる人生へと招いておられることを表しています。
Ⅱ:5時に雇われた者たち
(3~5)主人は9時ごろにまた市場に行き、市場で何もしないで立っている人たちを見かけました。まだその時点で仕事にあり付けていなかった人たちでしょう。主人はその人たちに「相当の賃金を払うから。あなたがたもぶどう園に行きなさい。」と声を掛けました。「相当な賃金」とは、その労働に対してふさわしい、釣りあった賃金を払うということです。9時にいた人たちもそのように思ったことでしょう。
また主人は、正午にも、また午後3時頃にも市場に行ってみて、何もしないで立っている人たちを見つけては同じように、「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」と声を掛けました。正午、3時にぶどう園に行った人たちは、すでに半日、半日以上過ぎていました。多くはもらえないと思ったかもしれませんが、雇ってくれることに感謝して、主人を信頼してぶどう園に行きました。
(6~7)主人はまた夕方5時になっても、市場に行きました。一日の仕事が終わるまで、あと一時間しかありません。しかしまだ市場に何もしないで立っている人たちがいました。主人は彼らに「なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか」と尋ねると、「だれも雇ってくれないからです。」と答えました。すると主人は「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」と言われました。
雇い人が働き人を雇う時に、どういう基準で選んだのでしょうか。おそらく、仕事のできそうな人、体力のありそうな人、仕事に必要な道具を持っている人、自分を上手に売り込める人、そんな人が声を掛けてもらったのではないかと思います。そう考えますと、5時にそこにいた人たちと言うのは、最後まで声を掛けられなかった人たちになります。最初自分は使ってもらえるだろうと思っていましたが、スルーされ、そんなことを一日中くり返して残った人たちです。主人はそのような人たちにも、いくら支払うとは言いませんでしたが、とにかく、ぶどう園に行くように言われました。5時の人たちは、ほとんど時間が残っていませんでしたが、それでも雇ってくれることに感謝して言うとおりにぶどう園へ行きました。
ぶどう園の主人は早朝6時、9時、12時、3時、5時にぶどう園に働き人を探しに行きました。これは何を意味しているかと言いますと、時間は、私たちの人生の年代を表しています。つまり、幼いころから教会に行っている人もいれば、十代、二十代、三十代、六十代、七十代になってイエス様に出会って、教会に足を運ぶようになる人もいます。ある人たちは、死にゆく病床で初めて主の救いを知り、信仰を告白する人もいます。人生のどの段階であっても、神は何度も何度も探しにいき、ご自身の恵みの人生に招き入れようとしておられるのです。
主人は5時に立っている人たちに「なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。」と尋ねました。文語訳ですと、「何ゆえ終日ここに空しく立つか」と訳されています。一日空しく立つとは、何が人生の目的かを分からず、この世のことに空しく生きている姿を表しています。彼らは「誰も雇ってくれないからです。」と答えます。彼らのたましいの嘆きを想像することができます。誰もが本当の造り主である神のもとに行き、心の安らぎ憩いを得ることを、心の底では願い求めているのです。
Ⅲ:後の者が先になり、先の者が後になる
(8~9)「夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。」
一日の仕事が終わり、主人は監督者に、今日の報酬を労働者に払うように言われました。監督者は「イエス・キリスト」を表しています。労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから賃金を払うようにしました。そして5時に雇った人たち、たった一時間しか働いていない人たちにもそれぞれ一デナリを渡しました。
(10)それを見ていた最初の人たちは、1時間しか働いていない者が1デナリもらったのだから、私たちはもっともらえるだろうという期待感がありました。しかし、彼らがもらったのも同じ一デナリでした。(11)すると、最初から働いた人たちは主人に不満を漏らし、(12)「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」不公平だと不満をぶつけたのです。
私たちがこの最初から働いていた人たちの立場であったら、どう思ったでしょうか?同じように不平をもらしたでしょうか。
(13~15)すると主人はその一人に答えました。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」そのように答えました。
確かに主人は最初の人たちとは1デナリで約束したので文句を言えることではありません。自分のものを好きなようにして悪いことはありません。しかし何か腑に落ちません。
「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」このことばは、このたとえの要点とも言えることばです。神様の御思いを端的に表しています。誰にでも同じだけ与えたいのです。神はご自身の権威で、自由に恩恵を施し、ご自身が恵もうとする者を恵まれるお方です。主人はとても気前のよいお方です。
(16)「後の者が先になり、先の者が後になります。」
私たちが救われるのは、この世の中で、長く信仰を持っているとか、良い行いを積んできたから救われるのではありません。そうすれば、天国に行けるのでもありません。ただ神様の恵み、あわれみによるということです。人生の最後であろうと、信仰生活が短かろうと、罪を悔い改めて、イエス様を信じるならば、永遠の救いがいただけるのです。
2年前にご主人を亡くされ、それから教会に来るようになったM子さんというご婦人がいらっしゃいました。ご主人のお父さんはクリスチャンで、ご主人は子どものころ教会学校に行っていましたが、その後全く教会には行かず離れていました。しかし晩年ご病気になり、亡くなる直前に洗礼を受けると言い出したのです。そして驚いたことに、自分が洗礼を受ける時に、妻のM子さんも一緒に洗礼を受けることを勧めたのです。M子さんは断ることもできたそうですが、何か感じるところがあり、ご主人と一緒に洗礼を受けられました。そして今はお一人で、ご主人のお父さんが通っていた教会に通っています。
ご主人はこの世を終える直前に、イエス様を信じました。この地上での信仰生活は短いものでしたが、天国へと迎え入れられました。またそれだけではなく、妻のM子さんが救われ教会に行くようになったのです。神様のなさることは不思議です。「後の者が先になる」ように、一日の働きが終わる5時にぶどう園に行きましたが、一日分の報酬の一デナリという永遠のいのちをいただき、天の御国に入れられました。またそれだけではなく、長年連れ添った妻の救いという実が結ばれました。
神様はこのように本当に、情け深く、あわれみ深いお方です。神様は、どれだけ長く働いたか、どれだけ頑張ってきたかによって報いてくださるお方ではありません。この世の中はそうかもしれませんが、天の御国はそうではありません。たとえ、遅くなっても信じるなら一デナリの報酬をいただくことができるのです。
ぶどう園の主人である、あわれみ深い神は、朝早くから、何度も何度も市場に向かい、そこで何もしないで立っている人たちに「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と声をかけ続けています。この世の空しさから離れ、神の恵みによって生かされる人生へと招いておられるのです。私たちの周りに、誰にも雇ってもらえず何もしないで立っている人がいるでしょうか。人々のたましいの嘆きに耳を傾けていけますように。あわれむ心をお与えください。