経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

2月24日 「神の知恵」

2019-02-26 16:13:34 | 礼拝
Ⅰ列王記3章 “神の知恵”

 ソロモンはイスラエルの王になった時に、多くの問題を解決するために神の知恵を求めました。私たちの生活の中でも解決しなければならない問題があります。自分の考えや力には限界があります。どのように解決していったらよいのか、そのためには、神の知恵が必要です。


Ⅰ:あなたに何を与えようか(3~5)

(5)その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」

 主は夢のうちにソロモンに現われて、「あなたに何を与えようか。願え。」と言われます。他の訳ですと、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と訳されています。聖書の中には夢の中で神の御告げを聞くということがよく出てきます。夢をみ旨の現われる所と考えたのかもしれません。
 ソロモンはダビデの後、イスラエルの王になり、おびただしいほどの民を治めていかなければなりませんでした。その時、「あなたは何を与えようか?」と尋ねられたのです。
 私たちが同じ質問をされたなら、何を願うでしょうか?主は私たちが願う事を望んでおられるのです。「あなたに何を与えようか。願え。」と言われるのです。

(ヤコブ1:5)「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」
知恵とは、単なる人生訓ではなく、交読分、詩篇111:10「主を恐れることは、知恵の初め。」とありますように、知恵とは、主を恐れる、主を知ることから始まることであり、主の視点に立って判断し、実際に行なう能力と言えます。それは、知識のように、勉強して得られるものではないのです。
私自身も知恵が欠けているな、必要だなとしばしば感じます。自分の知識や能力には限りがありますので、神様の知恵をいただかなければやって行けないと思うことがあります。学校で勉強してきた知識もとても大切なことですが、実際の生活の中では知恵がもっと必要とされます。知恵が欠けていると思うなら、神様は惜しげなく与えるお方ですから、願うならきっと与えてくださるのです。
 

Ⅱ:主の御心にかなった願い(6~15)

(9)善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。

 ソロモンは自分の願いを主に申し上げる前に、今自分があるのは、神の恵み以外の何ものでもないことを主に申し上げています。(6)今自分が王に即位したことは、主の前に誠実に歩んだ父ダビデへの恵みであり、その恵みが子どもの私にも注がれていることを述べています。
さらにソロモンは次のように告白しています。(7~8)「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。」このように、自分のことを、「小さい子ども」であるとし、王にはなったけれども何一つわかっていないと述べているのです。このような謙遜な態度こそ主の御心にかなうものでした。
私はあなたが選んだ多くの民の中に置かれています。数えることも調べることもできないほどおびただしい数です。それゆえソロモンは、(9)「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」と訴えています。彼は、民を間違いなくさばくために、聞き分ける心を自分に与えてほしいと願ったのです。

(10)「この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。」
 このソロモンの願いは主の御心にかないました。自分の利益のためではなく、民の利益になることを願ったからです。
(11~12)「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。」
 このようなことを求める者は今までいなかったし、これからも起こらない。あなたは御心にかなった願いをしたので、あなたが願わなかった長寿と富と誉れをも与える。あなたが生きている限り、王たちの中であなたに並ぶ者はいないと、主は言われました。
 ソロモンは、イスラエルの王になったけれども、小さい子どものように、自分は何一つわかっていないと謙遜になって主に知恵を求めました。それが主の御心にかなったのでした。


Ⅲ:ソロモンの知恵(16~28)

(26)すると、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言います。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」

16節から、ソロモン王が知恵を示す具体的な例が示されています。ある日二人の遊女が王の前に連れ出されました。ひとりの女が王に申し立てます。「私とこの女は同じ家に住んでおります。私は子どもを産み、この女も三日後に子どもを産みました。家には私たち二人だけでした。ところが夜の間に、この女が産んだ子が死にました。この女が自分のこの上に乗っかったからです。この女は夜中に起きて、私が眠っている間に、私の子を取り、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。朝、子どもに乳を飲ませようと起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。その子をよく見てみると、まあ、その子は私が産んだ子どはないのです。」
 起きてみたら、子どもが死んでいた時のこの女の驚き、さらに、良く見ると自分の子どもではなかった時の驚きとはどんなものだったでしょうか。一人の女は王に切実に訴えました。
 すると、もう一人の女が、「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です。」と言うと、最初の女が「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」と女たちは王の前で言い合いました。

 見かねた王は、剣をここに持って来るように言いつけ、「一人は『生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子だ。』と言い、また、もうひとりは『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ。』と言う。」ならば、(25)「生きている子ども二つに絶ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」と命令しました。王の命令は絶対であり、ソロモンがそれを行なうことは疑う余地がありませんでした。
 (26)すると、本当の母親は驚いて、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言います。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」人の手に渡っても、とにかく自分の子に生きていてほしいと思ったのです。
 もう一人の女の態度は対照的です。「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」そこで王は宣告を下しました。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて、王を恐れました。神の知恵が彼のうちにあってさばきをするのを見たからです。

 王の知恵は、たとい遊女であろうとも、自分の子どもを愛する母性愛があることを信じて現されています。
 二人の遊女は普段から良い関係ではなかったことが想像できます。死んだ子供と生きている子どもを交換するのですから、普段から互いの関係が悪く、腹いせにそのようなことをしたことが考えられます。
限られた生活空間の中で、恨みや妬み、いざというときに仕返ししてやろうという思いがあったのでしょう。二人の遊女は、私たちの現実社会を象徴的に表しています。私たちの周りには、さまざまな争いや解決しなければならない問題が多くあります。自分の知識と力だけでは行き詰ってしまいます。私たちが願い求めるなら知恵を与えてくださいます。自分の思いは一旦横に置いて「このことはどうしたらよいのですか。教えてください。」と祈り願いましょう。必要な知恵をお与えください。
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