経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

1月24日礼拝

2021-01-25 15:05:07 | 礼拝
ヨハネの福音書1章40~51節「わたしに従って来なさい」

 バプテスマのヨハネはイエス様が歩いて行かれるのを見て、自分の二人の弟子に(36)「見よ、神の子羊」とイエス様を指し示しました。あの方こそ「人の罪を取り除く神の子羊だ」と言われたのです。これを聞いた二人はイエス様の後についていきました。イエス様は振り向いて、彼らがついてくるのを見て言われました。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊りですか。」と尋ねます。イエス様は彼らを招き入れ、迎え入れます。(39)「来なさい。そうすれば分かります。」二人はついていって、イエス様が泊まっておられる所に一緒に泊まりました。その晩、彼らは主と一緒に過ごし、主の権威ある言葉を聞いて、主こそ神の子なるメシアであることを信じました。バプテスマのヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人はシモン・ペテロの兄弟アンデレでした。もう一人は、この福音書の記者のヨハネだと言われます。その翌日、アンデレはすぐに自分の兄弟である、シモン・ペテロに会いに行き、(41)「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と伝えました。アンデレはイエス様がメシアであることを見いだし、その喜びと驚きとをおさえることができませんでした。早速、自分の兄弟を主のところに連れて行きました。説明などしなくても、イエス本人に会えば救い主だと分かると考えたのでしょう。イエス様はシモンを見つめて言われました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」「ケファ」も「ペテロ」も岩を意味する語から来ています。イエスはシモンを見て、彼がやがて岩のような固い信仰を持ち、教会の指導者となることを知っていました。

 次の日、イエス様はガリラヤに行こうとしておられ、ちょうどその時にピリポに出会い、(43)「わたしに従って来なさい」と声をかけました。ピリポはそのことばを聞いて直ぐに従いました。すると、ピリポは友人のナタナエルを見つけて、イエス様に会ったことを伝えます。(45)「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ピリポはこのメシヤを見出だした喜びにあふれて、イエス様を友人ナタナエルに紹介しました。しかし、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」イエスが小さな村のナザレ出身と聞くと、彼は偏見をあらわにします。カナの出身であるナタナエルは、近くにあるナザレの町を知っていました。あの町からメシヤが出るなどとはとても考えられなかったのです。ピリポはこれ以上自分で説明しようとせず、(46)「来て、見なさい。」と直接メシアに会うように促します。イエス様は、ナタナエルが自分の方に来るのを見て、「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」とおっしゃいました。イエス様はここでも、霊的目をもってナタナエルの真実な性格を見抜きます。彼はとても驚いて「どうして私をご存知なのですか。」と尋ねます。イエス様はおっしゃいました。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」おそらくナタナエルはイエスの目の届くはずがない遠い、いちじくの木の下でイスラエルの救いについて考え祈っていたのでしょう。ナタナエルは自分がしてたことを言い当てられ、すごく驚き、(49)「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と、イエスを見て彼が神の子であることを告白します。最初の弟子たちはイエス様が神の子メシアであることを信じ従いました。そして自分の兄弟や友人をイエス様のもとにお連れしたのです。メシアにお会いし罪から救われた喜びが彼らをそうさせました。イエス様こそ私を罪からお救いくださった救い主と信じます。過去の罪を取り除くだけではなく、今もきよめ続けてください。今日も罪赦され、救われ、永遠のいのちが与えられている喜びに生かしてください。主のよみがえりをお伝えしていきます。
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1月17日礼拝

2021-01-18 14:27:05 | 礼拝
マタイの福音書4章1~11節 「神の口から出る一つ一つのことば」

(1)「それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」
 イエス様はこれから公生涯をスタートする前に、御霊に導かれて荒野に上って行かれました。「試み」ということばは、「誘惑」ということですが、「御霊に導かれて」とあるように、ここでは「試練」という性格も持っていることがわかります。(2)イエス様は四十日四十夜、荒野で断食をしました。イエス様は非常に空腹を覚えておられました。その時に、試みる者が近寄って来たのです。そして次のように言いました。(3)「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」悪魔は神の子としての力を自分の空腹のために使い、神のみこころを行わないように誘惑してきたのです。神の御子イエスにとって、石をパンに変えることなど簡単なことでしたが、イエス様は(4)「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」と答えました。人間は肉体的な必要を満たす食べ物が必要ですが、神のことばという魂の食物によって真に生かされる存在だとおっしゃいました。人を真に生かすのは「神の口から出る一つ一つのことば」であることを、主は身をもって示されました。

 次に、悪魔はイエス様をエルサレムの神殿に連れて行き、屋根の上に立たせて言いました。(6)「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」今度は悪魔も同じように聖書のことばを使って誘惑してきました。高い神殿の屋根の上から飛び降りて、み使いに守られたら、人々は驚くでしょう。そのようにして注目を集めて、自分が救い主だと示せばよいではないかと誘惑してきました。悪魔の主への誘惑はすべて、十字架による救いの道を閉ざそうとするものです。イエス様は言われました。(7)「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」自分に都合よく聖書のことばを使うのではなく、神様のみこころにかなうように正しくみことばを用いて誘惑を退けたのです。

 今度はイエス様を高い山に連れて行き、世界のすべての国々とそのすばらしさを見せて、(9)「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」と言いました。神様のご計画に従って十字架で苦しむことで人を救うようなことをしなくても、悪魔にひれ伏すだけで、全世界の人を従えることができると誘惑してきたのです。しかし、イエス様は言われました。「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」というみことばを挙げて、「下がれ、サタン」と強く悪魔を退けました。神の国はこの世の王国ではありません。神の支配によってもたらされる王国なのです。すると、悪魔はイエス様から離れていき、御使いたちがイエス様に近づいて仕えました。
 イエス様に対する誘惑はすべて十字架の救いの道を邪魔しようとするものでした。しかし、主は一貫して神のみことばには「~と書いてある」と答えることによって退けました。イエス様は悪魔の誘惑にとっさに聖書のことばで言い返しています。そのことからも、イエス様自身、旧約聖書をよく読んでおられたことが分かります。私たちも現実生活の中でいろいろな誘惑や試練に遭うものです。自分は大丈夫と油断することなく、みことばに従い勝利することができるのです。私たちは今コロナという荒野の試練の中に置かれています。でも神の口から出る一つ一つのことばによって勝利させていただきましょう。悪魔の誘惑に勝つために、さらにみことばを心の中に豊かに宿らせることができますように。
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1月10日礼拝

2021-01-12 14:24:00 | 礼拝
マタイ3:1~6、13~17 ”これはわたしの愛する子” 

バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣べ伝えました。預言者イザヤによって(3)「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意せよ。主の通られる道を真っすぐにせよ」と言われた人でした。彼の使命は、救い主が来る前に、人々の心を救い主に向けさせ、メシアを迎えるための道備えをすることでした。「悔い改める」とは、ただ反省するだけではなく、心を180度方向転換させるという意味です。行動の変容が伴います。「天の御国が近づいたから。」とは、神が支配する国がどこかにあるといういうことではありません。「国」と訳されたことばは、元来ユダヤ人にとっては、目に見える国という具体的な意味ではなく、「支配すること」という抽象的な意味でした。つまり神の国とは、神が王として人々を支配するという意味です。イエスが王であるメシヤとしてこの地上を支配する時が近づいたから、罪を悔い改めて神の支配に従うようにとヨハネは宣べ伝えたのです。ヨハネの働きはたちまち評判となり、(5)「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から」大勢の人が荒野にやってきて、(6)「自分の罪を告白し」て悔い改め、ヨルダン川の水に入りヨハネからバプテスマを受けました。

(13)ガリラヤに住んでいたイエス様は、いよいよ神様の働きをする時が来たことを知り、ガリラヤの家族のもとを離れ、ヨハネがいる荒野に来られました。それは、ヨハネからバプテスマを受けるためでした。ヨハネは戸惑いました。ヨハネはイエス様と親類関係にありますので、主が自分より力のある方だと気づいていたことでしょう。主イエスは罪を悔い改める必要もなければ、バプテスマを受ける必要もありませんでした。(14)「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」と断ろうとします。(15)しかし主イエスは「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実行することが、わたしたちにはふさわしいのです。」と言われました。「正しいことをすべて実行すること」とは、神のみこころをすべて行うことでした。「正しいこと」とは、イエス様が人の姿を取ってこの世に来られ、ご自分を低くされ、十字架の死にまでも従われたことです。バプテスマを受けることも正しいことの一つであって、イエス様はヨハネと共にこのことを成し遂げようとされたのです。

 イエス様がバプテスマを受け、ヨルダン川の水から上がると、天から聖霊が下ってイエス様の上にとどまり天からの声が聞こえました。(17)「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」イエス様が確かに神から遣わされた、愛するひとり子であり、罪人をお救いになる救い主であることが示されたのです。これから公生涯をスタートするために、ご自分を低くされ、人と同じように、正しいこととしてバプテスマを受けられました。そして、これから十字架に向かっての歩みを進められます。神はバプテスマを受けた御子を喜んでおられ、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と祝福のことばを掛けられました。イエス様が確かに神から遣わされた愛するひとり子であり、罪人をお救いになる救い主であることが示されました。バプテスマが罪と汚れを洗い流すことであるなら、神の子である主イエスは受ける必要がなかったはずです。ヨハネもそれを感じていたはずです。でも主はあえてそれを受けられました。それは、ご自分が罪ある人間と全く等しい立場になるためでした。イエス様の十字架によって、私たちの罪は赦され、救われ、いのちが与えれたのです。罪深い私のために、神であるお方が人となってくださったことを感謝いたします。罪を赦しきよめてください。悔い改めにふさわしい実が結ばれていきますように。
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1月3日新年礼拝

2021-01-04 16:34:18 | 礼拝
ルカの福音書2章41~52節 ”神と人とにいつくしまれ” 

 (41)「さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。」この時イエスは12歳になっていましたが、両親に連れられて「過越の祭り」の巡礼のためにエルサレムに来ていました。ユダヤでは13歳で成人となり、律法を守る成人として数えられました。イエスが12歳ということは、巡礼の義務はありませんが、成人前の準備としての意味合いがあったのでしょう。祭りが終わり、一行がナザレに帰る時に出来事が起こりました。ヨセフとマリアは、イエスはナザレに戻る人たちの群れの中に混じっていると思っていました。しかし、一日の道のりを行った時点でイエスがいないのに気がつきました。イエスが迷子になってしまったのです。二人はイエスが親族や知人の家に立ち寄ったかもしれないと考えましたが、見つかりませんでした。イエスを捜しながら来た道を戻り、とうとうエルサレムまで引き返してきました。そして出発してから三日目に、両親はようやくイエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり、質問したりしているのを見つけたのです。(47)教師たちは、イエスの聖書に対する洞察の深さに驚きました。おそらく、イエスが教師たちにした質問にはすぐれた知恵が見られ、イエスの答える言葉には、彼らの理解にまさるものがあったのでしょう。

 (48)「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」やっとわが子を見つけたマリアは、すっかり取り乱していました。迷子になったイエスのことを心配して捜すうちに三日がたっています。さらに宮でイエスを発見したことは、マリアにとって大変なショックでした。予期していなかった場所にいたからです。そのためマリアは激しい調子でイエスを叱りました。(49)それに対してイエスは両親に次のように答えました。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」ここでイエスは、神を「自分の父」と呼んでいます。神が自分の父であること、自分が神の子であることを意識していたことが分かります。自分が父に関する中にいることは当然であり、この時すでに、自分には父に託された働きを行う使命があることを自覚していたのでしょう。しかし両親にはイエスが語られたことばが理解できませんでした。

 (51)その後イエスは、神殿にとどまることはしないで、両親と一緒にナザレに戻り、両親に仕えました。それから後、30歳からの公生涯に入るまでの約18年間、イエスは両親に仕えて過ごされました。父ヨセフのことは、この後聖書には出てきません。またイエスが「大工」として知られていたところを見ると、イエスはおそらく父ヨセフが亡くなった後、長男として家計を助けて働いておられたと考えられます。イエスは神の子であるという意識を持ちながらも、人として、息子として両親に仕えられたのです。(52)「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」少年イエスは、神様に愛され、両親や周りの人々に愛され成長していきました。神の恵みが豊かにありました。
 2021年が始まりました。この年も主の恵みが、いつくしみが豊かにありますように。(Ⅱコリント12:9)「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」自分の力ではどうすることもできない無力さに主のみ力が現わされます。この一年も主の恵みのうちにお導きください。
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