★clausewitzのひとりごと★

45才既婚男です。雑多なブログですがコメントお待ちしております。

カピトリーノの丘

2010年02月11日 00時59分52秒 | イタリア旅行
現代のガイドブックを読む人には「カンピドーリオ」と言った方が分かりやすい場所。
七つの丘のうち防衛に最も適した場所。
最も高く、三方が切り立った崖、残る一方はテヴェレ河。

しかしながら、もっとも狭く、首都機能を配置するには不適当。
そこで、ユピテル(ゼウス)神殿と妻のユノー(ヘラ)神殿を配置しました。


現代は、カピトリーノ美術館とコンセルヴァトーリ美術館、広場となっています。
市庁舎は半分崖になっているので当時はもっと狭かったと思います。


この丘に立つと、どうしても「ケルト・ショック」と呼ばれる一連の事件を思い出す。
紀元前390年の出来事だ。ローマはウェイを攻略し有頂天の頃。
ウェイは当時対立していたエトルリアの主要都市。当時のローマに比べたら大都会である。
貴族と対立していた平民が、「自分たちの都にしよう」とローマを捨てようとしていた。


そこに急遽、ケルト人(ガリア人)が侵攻してきたのだ。
まあ、実は当時勢いが強かったケルト人をエトルリア人が何とか防いでいたのだが、
そのエトルリアのウェイを陥落させることにより、直接攻撃を受けるようになったのだ。
大挙として押し寄せるケルト人に立ち向かおうにも、ローマ軍団の主力の平民は
ウェイに移動してしまった。


もうされるがままである。
略奪の限りを尽くし、全てを破壊されたローマ。人々はこのカピトリーノの丘にたてこもる
事にしました。
しかしながら、その狭さ故に「若者と壮年期の男、その妻女のみ」だけが籠城できた。
元老院議員とはいえ、年長の者は全て殺されたのです。

ケルト人は破壊し略奪する事だけ目的なので、ローマの占領には興味がない。
だから一通り満足した時、講和(もはや和平ともいえない)が結ばれました。
ケルト人には「金塊300キロ」を渡して引き上げてもらったのです。


残るは廃墟となったローマ。
本当に廃墟になったのです。

周辺にあってローマと同盟を結んでいた都市もことごとく裏切り、攻めてきます。

この時を振り返ると、ほんと、いつ滅んでもおかしくないと思います。


そのどうしようもない状態から、20年かけて立ち上がります。
立ち上がるといってもそれは防衛上の問題。そこから政治上の問題である貴族と平民の対立解消や同盟国との関係強化など、問題は山積み。

そして、蓋を開けてみたらケルトショック以前より格段に強い国家が誕生し、
イタリアを統一したのです。


ローマの強さは、敗戦を徹底的に分析し、問題をきちんと解決していく所です。


どこぞの、問題が有れば先送りする国家とは大違いですね。

マッシモ宮

2010年02月11日 00時59分33秒 | イタリア旅行
ガイドブックでみた時、「マッシモ宮?誰それ?」って感じでした。
ルネサンス時代の貴族かなって思っておりましたが、よくよく調べてみると、
「マッシモ」=「マクシウス」なのですね。

ローマ時代のマクシウス家で一番有名なのは「(クィントゥス・)ファビウス・マクシウス」かな?

彼はフラミニウスの翌年に執政官(その後独裁官)に就任し、ハンニバルと対戦したローマの名将。
徹底した持久戦法をとり、ハンニバル自身とはなるべく戦わないという戦法を採る。
一見、「臆病者」であるが戦略的には非常に効果的。
ハンニバルを苦しめて「イタリアの盾」と呼ばれることになる。


彼以前には、これまた似たような名前の「クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス」がいる。
サムニウム戦争時に大活躍した執政官だ。


つか、マクシムス家って言われるより「ファビウス一門」っていう方がピンと来るんですよね。


その後の有名人では・・・どうやら二人の教皇を出しているようです。
アナスタシウス1世(399-401年)とパスカリス1世(817ー824年)
あまり知りません。家に「ローマ教皇伝」って本があるので調べてみてもいいのですが、
今はないので・・・・。

枢機卿ならたくさんいるみたい。

ちなみに、今の当主は「フィリッポ・マッシモ公」
レオーネ公とジェノヴァ公妃の間に生まれた人。


現在のマッシモ宮は1527年カール5世がローマ劫掠を行った後の廃墟の上にたてたそうな。
ペルッツィの作。

紋章には「粘り腰によって国家を救う」(クンクタンド・レスティトゥーイット)という銘文が書かれているようです。
いかにも、「イタリアの盾」の末裔っぽくて格好いいですね。


フラミニア街道

2010年02月11日 00時58分50秒 | イタリア旅行
タイトルを見て、「?」と思う人も多いと思います。
イタリア通の人はすぐに「国道3号線」だ、と分かるかも知れません。

観光客には「コルソ通り」として説明する方が早いと思います。
コルソ通りはポポロ広場からヴェネツィア広場までまっすぐに伸びる道。
かつては競馬も行われたようです。

フラミニア街道は・・・あれ? ウィキペディアのを引用しようとしたけど、項目がないので、書いてみます。


現在の国道3号線で、ローマからリミニまで続く総延長315kmの街道。
名前の通り、フラミニウスが造った道です。その後アウグストゥスが改修。
ま、それだけ聞いたら「は? 誰だよ、それ」って思うのでちょいと補足。

フラミニウス(ガイウス・フラミニウス)は、平民出身の人。
性格は強気で大胆。紀元前232年、護民官に選出。翌年、元老院入り。
前227年シチリア総督。前223年執政官に選出。
そして、前220年には財務官(ケンソル)に選出され、この街道を敷設(ふせつ)。
貧富の差をなくそうと国有地借地の上限を125ヘクタールと定めたり(グラックス兄弟の1世紀前!)、
元老院議員およびその子孫が海外貿易するのを禁止する法律を成立させたりした平民階級の希望の星。
前217年、二度目の執政官に選出。

とまあ、こんな感じ。なんでこんな事を書くのかというと、他でも有名な人だからです。

それは・・・・世界史マニアならば知っているかな?
「トランジメーノの会戦」のローマ側の執政官(最高司令官の一人)であった人なのです。
おいおい、トランジメーノの会戦もwikiにないのか・・・。


第二次ポエニ戦争。カルタゴの名将ハンニバルがアルプスを越え、ローマにむけて進軍。
ティチーノ、トレッビアの会戦で敗れたローマがハンニバルに臨んだ第三戦。
送り込まれたのが貴族出身の執政官のセルヴィリウスとこのフラミニウス。

ボローニャを出発したハンニバルがどのルートから来るか分からなかったので、
セルヴィリウスはリミニに、フラミニウスはアレッツィオへ。
リミニのルートはフラミニア街道を通る平坦なルート。
もう一つはアペニン山脈を越え、フィレンツェを通る山岳ルート。

ハンニバルの目的は、ローマ連合の切り崩しにあったのでフィレンツェを略奪しながら、
南下するというルートを選択。

フラミニウスは途中からハンニバルの後を追い、フラミニア街道にてセルヴィリウスと共に、挟撃する作戦に出ました。

トランジメーノ湖の画像・・・・・・どっかにないかな?


あ!  あった! 申し訳ございません。
フラミニウストランジメーノの会戦のwikiもありました・・・。
そっちの方が読みやすいと思うので、リンクしときます。
(会戦の様子も画像があるので見てみて下さい)
無いわけ無いと思ってたんですけど・・・。読み方の問題ですか。


結果的には、トランジメーノの会戦でフラミニウスは包囲殲滅され戦死してしまいます。
その後、セルヴィリウスも各個撃破される。


僕はこの戦いを見た(読んだ)時、戦慄を覚えました。
どうしてもハンニバルの天才的な行動に目が奪われがちですが、フラミニウスも決して
ただのバカじゃない。そりゃ、さぞかし間抜けな執政官として映るかも知れませんが、
彼の政治的功績は大きく、グラックス兄弟が跡を継いだ事もあり歴史に名を残している。
なんというか腐っても「ローマの執政官」である。
他の時代に生きたらもっと活躍できただろうに。


敗戦を知ったローマ市内は騒然としたでしょうね。
何しろ、位置的にはフラミニア街道を使ったらたったの三日の距離。
(戦死した執政官の名前の街道を使ったら・・・というのが気の毒だ)
だが、ハンニバルには別の場所へ移動する・・・別にフラミニウスに配慮したわけではなく、単に戦略的に重要な別の事(目的はローマ連合の解体)をしただけなのですが。


この戦いの後、ローマ軍はカンネーの戦い(センター試験レベル)で大敗します。

今でもローマでは泣きやまない赤ん坊に「戸口にハンニバルが来ているよ」といいます。
まあ、子供に対する脅し文句ですね。
応用として「危機が迫っている状態の時」にもいうみたいです。
「Hannibal ad portas」と表記するようです。


・・・申し訳ありません。
長くなりすぎました。次からは全て引用しようと思いますので。


ということで、コルソ通りを歩いていたら思い出したことを書いてみました。