幼い時、幸せな雰囲気が突然、哀しい雰囲気や環境に激変すると、幸せな時間を避ける傾向が生まれます。誰もが、そうなる訳ではありませんが、両親が交通事故で亡くなると残された子供は幸福であればあるほど、幼いながらに、その突然の幸福状態崩壊を無意識の内に感じ取っているので、何となく幸福感から意識的に逃れる変な習慣を身につけてしまいます。私の幼少時代、幸せな家族団欒の後、父親が軍艦に帰っていく寂しさを体験したことが、しばしばあり、この変な習慣を意識化した後、初めてどう対処したらいいか気付いた話をテレビ第16回目で語りました。いわゆる幸福病、と呼ばれる話です。新しい愛、新しい幸せを自分から逃す人々は案外沢山いるのです。この世の天国も地獄も解釈一つでそうとう変わります。
日々の生活の中で本音を語ると周囲とぎくしゃくする事があります。しかし深層心理の中では案外ストレスは蓄積しません。逆に社交を大事にして相当本音から離れた会話をしますと、表面は穏やかですが、深層にはストレスが相当、蓄積して、悔いだらけの人生を送る羽目になります。その方の環境により、この有り様は違ってきますが、長い人生の視点では偽りの自分、本物の自分というスタンスは幸福、不幸を歴然と形成していきますので、一度、偽りの自分、本物の自分という視点から自分の人生を反省してみましょう。きっと新たな生き甲斐が見つかるとおもいます。
自然に湧きだしてくる自分の感情を恐れて、見ないように抑圧してしまうケースがあります。本来、湧き出してくる感情は生命の源のようなエネルギーがありますから、そんな勿体ない事はしないで、湧き出してきた感情を正しく解釈するとが必要です。湧き出してきた感情を否定することなく、その意味を考える習慣をつけていくと、湧き出す感情は天の恩寵かもしれないと、気付く事があります。その湧き出してきた貴重な感情の意味を考えていくと、人生が大きく拓け、豊かな感情生活、楽しい人生を送る事が出来ます。
天来の個性も、本人や周囲がその処し方を知らないと、変わり者扱いされて悩むこととなります。本人の個性の美なのか、病理なのか、その判断は大変難しく心理療法の分野では時々プロセススケールを使用します。この種の専門の勉強をしませんと識別は難しいのですが、それだけに折角の個性の美を本人も周囲も駄目にしていきます。人は悪いところを平然と気楽に口にしますが、良い所、美しい個性を誠実に見出し、それを育てる親も先生も、周囲の人も、案外いないのです。ここで注意したい点は、周囲が自分を否定してきても、まてよ、これは案外、天来の個性の美なのかもしれない、と疑う事が必要なようです。自分は変な人間だと簡単に思わず、明るく元気に生きるために、変だと言われても、ひょうっとして、それは個性の美なのかもしれない、と考えてみて下さい。
人間は凄惨な場面に遭遇し、辛い事を自分の五感で体験すると、それを癒すのはやはり自分の五感でしかありません。南米で政治暴動にまきこまれ目の前で身近な人が目の前で亡くなるという体験もしました。その折の硝煙の香り(嗅覚)、凄惨な場面(目からの視覚からくるもの)、人の死の叫び(聴覚からくる心の傷)等を癒すには、やはり同じ五感で感じる美しいもの、心地よい香り、暖かい触角で癒さないと人は立ち上がれません。信仰の神様の愛すらも疑うともはや切ない状態に陥ります。この時、チリの友人の山荘での親切さを生涯、忘れません。感謝、感謝でした。
人間の自問自答で一番辛い質問がこの「生きる目的」かもしれません。80億の人間が一人一人この生きる目的が明確であれば果してどんな歴史が展開されていくでしょう?私の推測ですが、明確であれば今日の平和も文化も学問も、こんなに発展していないと思います。疑問だらけの人生ゆえに、人は悩み、苦しみ、何かを追求していくのでしょう。
私達はそれぞれ、家庭や社会の環境の中でさまざまな方に愛されて育ちます。思い出しただけでほのぼのとする幼い頃の風景を「愛の原型」とか「愛の原風景」と定義しています。厳しい現実を生き抜いていく時、この暖かい思い出は生き抜くエネルギーになっています。この貴重な愛の原型を大切にしながら生き抜いていきたいものです。私が幼い頃、葉山の自宅の二階で三浦半島に立てこもりアメリカと一戦しようという海軍の大佐クラスの密談で、私の父親が反対し軍刀で切られそうな場面を私の母の一案で私も協力して、その悲劇を防いだ思い出があり、その折の母の優しさが私の愛の原型の一つを創りました。
周囲の人々から見ると、資産や健康や家族に恵まれているのに、本人は不幸だ、と嘆く人が身近にいませんか?この場合、幸福という概念について二つに分けて思索させると簡単に解決する場合が多いのです。「幸福の条件」と「幸福感」の違いについて説明していきます。幸福の条件とは希望する収入、結婚の条件等を言います。幸福感とは理屈でなく感覚的に感じる感情の世界の事です。
私達日本人は飛鳥奈良時代から万葉集などで読み取れる独特の美しい感性をはぐくんできた民族です。平安時代の源氏物語、その後の武道、茶道、平家物語でみられる、もののあわれ、わびさび、幽玄美、甘えの構造などの精神構造もありますが、その民族独特の愛の孤独感を案外、西洋の心理学は病理として処理する傾向がありますが、民族独特の精神文化を、そう簡単に病理扱いされたらかないません。民族の良さを信じつつ生き甲斐の心理学を考えていきたいと思います。
怒りの感情の裏側には、必ず優しい友好的な感情が存在しています。ですから体が震えるような怒りの感情の裏側には聖パウロのように愛ゆえの深い優しさが存在しています。人の身体は神の神殿だと言われているように怒りの反対には必ず友好的な感情が存在している事を信じると人生に希望が生まれてきます。どんな場合でも解決策はあるゆです。安心して生きていきたいです。自分の悩みを気楽に語り合える友達が大切ですが、これがまた案外難しい。
数年前ですが、或る或学校の父母会を対象とした「生き甲斐の心理学」の勉強を開始しました。中学一年生のお父さんとお母さんから高校三年生及び卒業生徒の父母様が対象でしたが、どんな新しい方が参加してくださるか、とても楽しみでした。人生は本当に面白く、かつ、厳しいものですが、この勉強会では、これからどんな困難が押し寄せてこようとも逞しく明るく爽やかに生き抜いていく知恵を心理療法的な視点から学び合いたいと思っていました。人間の出会いは非常に神秘的で深い意味が、そこに潜在しているようで、人との出会いは私には神との出会いのような気がします。一期一会とはよく言ったものです。どの勉強会もそうですが人々の個々の生育史の軌跡はどれも同じものは一つもなく、それぞれが個性的で美しいものです。その美しさに気づかない人が多いのは残念です。これからも、自分の生育史、人類の歴史の中に神の深い愛情を見いだせるように楽しく勉強を進めていきたいと思います。
日々の生活の中で感じる不安感をばねに逞しくその不安感を利用して自分の理想を達成していく逞しい人と、逆にその不安感に支配されて挫折していく人が居ますが、この違いはどこから来るのでしょうか?また不安感を意識化出来た人はその反対側に平安感が近づいてきている、という仮説をご存じでしょうか?不安感と平安感は同じもので兄弟なのです。不安感が解決すると、その人にとっての本当の平安感が、すーっと現れます。本当の厭らしい不安感は、そのカオスの世界に漂う事例なのです。
私達はストレスを感じる、としばしば口にしますが、その実体を知る人は少ないようです。自分が朝、目が覚めて夜、寝るまで、具体的に何がストレスなのか、時々明確にしないと身体症状が出る場合があります。その人の成育史で培われた理想(こうありたい、あらねばならない、という想いを生き甲斐の心理学では理想の領域と定義しています)と現実のギャップがストレスなので、このギャップはきちんと聴いていかないと他者にはわかりません。ストレスの実態をしるのに薬は不要。薬で、どんどん健康を害している方々が多すぎます。成育史で無意識につけた危険な思想を再点検し、今の悩みはどんな理想と現実のギャップから生まれているか、気楽に点検してみましょう。
人生を楽しくする薬なんてありません。しかし楽しく生きるコツはあるようです。難しい事を考える前に、どうしても実行しておかねばならない5つのポイントがあります。十分な睡眠、ほんわか気分、歌と踊り、遊び、自分の生き甲斐と目的の5つです。私の体験談を通して、テレビ「心のともしび」第4回目(1991年11月10日)で語りましたら意外と好評でした。この言葉は、どなたか忘れましたが、確か、有名な精神科医の先生だったような記憶があり、この言葉で私は救われています。33年前の話ですが、この素晴らしい言葉はホモサピエンスの大脳の組織を知り尽くした大先生の言葉だなあ、と改めて、この先生に感謝しています。
自分を大切にする、とはどんな事でしょうか?世界の比較宗教学を学ぶと共通した3つの項目に出会います。自分の魂を大事にする(死んだらどうなるのか、を含めた信仰の領域)、自分の成育史を大事にする(良い思い出も悪い思い出も大切に扱う解釈の方法を自分の成育史を通して学習していく)、自分の身体を大事にする(健全な健康を保持する)、この3点、とても重要な点のようです。