1974年エチオピアのハダールで不思議な骨が発見されました。その学者は、たまたまビートルズのルーシーイン ザ スカイ ウイズ ダイヤモンドと言う曲を聴きながら発掘していたので、その骨の若い女性にルーシーという名前が付けられ今日までその業績は高く評価されています。310万年前の最古の人骨と言われていますが、このようにDNAが判明してくると現代の人種、文明、宗教の違いに関係なく、きわめて親戚同士が世界に散在していることが分かり、友好的な感情がいとも簡単に湧いてきます。地球の温暖化は人類を危険に追い込んでいるのも周知の事実となり世界平和を確立する為の理念も変化しつつあります。遺伝は確かに大きな存在ですが、そのことで自分を苦しめるのは愚かなことと言えます。
患者さんの中に、自分は<出が悪いので何をしても駄目なのです>と本気で悩んでいる人がいます。色々聞いていくとほぼ間違いなく源平藤橘の子孫です。日本の姓氏を書いた本を少し調べればすぐ分かる事ですが<出>を気にする人ほどあまり勉強していないのです。源平藤橘とは祖先が清和源氏とか多田源氏とかの意味、平家物語に出てくる平氏、藤原の流れ、橘の系譜、この4つに現代人の祖先はいきつきます。さて現代人の氏姓に対する興味はさておいて、今はDNAの時代、アフリカから出たDNAの分類の方が面白くなりました。もう源平藤橘を気にして現代を誇り高く生きる時代ではなさそうです。アフリカの母、ミトコンドリアの母の分類番号がわかる時代なので世界の政治、人種、文化、宗教の違いからの紛争は意味がありません。
古代史は面白いし、生きていく上での楽しい夢を沢山私に与えてくれます。数年前岩波書店の<DNA人類進化学:宝来聡著>を読んで以来、空想の楽しみが一段と刺激され、生き甲斐が深まりました。私の母、その母、と一人しかいない直系の祖先の母(ミトコンドリアの母)を空想していくのですが、一人の女の生きざまとして空想すると古代史以上の空想が楽しめます。自分のミトコンドリアは信頼できる医学施設で、口の中に綿棒を一本さしこんで唾液を採取し分析してもらえばアフリカを出た母のDNA系番号が判明します。数万円かかるのでほとんどの人は、その分析には踏み切らず、空想で楽しんでいますし、その方がいいでしょう。最近色々空想しているのですが、私の母系は縄文時代から日本に居たとは思えず、どうも百済から来たのでは、と空想を楽しんでいます。もう一人の友人の息子(某大学の先生)は、いやシベリア経由だ、といいます。どちらでも面白い。縄文から居た、百済から来た、と空想するだけで現在の自分のセルフイメージが違うのは何故でしょう?セルフイメージが変化すると今日の生きざまも変化するのです。縄文から居たと思うと、何となく逞しくなり、百済から来たと思うと貴族風になるのです。セルフイメージは面白い。
財産家の娘、と言いましても、日本での話ではありません。数百年、そのお城に住み着いている一族の話です。研究室のお茶くみさんの研究生が某城の娘だと分かると、私たち外国人はすぐ冷静になりまいしたが、イギリスのしかるべき階級の子弟は、どんどん人格が怪しく変容して,その娘に今まで見せない諂いをしていくものですから、教授をはじめ私は、その現象を楽しく観察できました。私などは当初から、その娘の相手ではなりので、普通にお付き合いしていたのです。
欲に目がくらむと、今まで見えていたものが、全く見えなくなっていく人間の悲劇、争い、馬鹿さ加減を日々学び、改めて欲に目がくらむ恐ろしさを垣間見ました。その娘と従来通り淡々として付き合い、周囲の人々への友好的な感情を大切にしつつ日々を送ることが、自分の人生を豊かにしてくれている事に改めて感謝しました。怪しく変容した有能な青年たちは、どんどん研究室から脱落していきました。
欲に目がくらむと、今まで見えていたものが、全く見えなくなっていく人間の悲劇、争い、馬鹿さ加減を日々学び、改めて欲に目がくらむ恐ろしさを垣間見ました。その娘と従来通り淡々として付き合い、周囲の人々への友好的な感情を大切にしつつ日々を送ることが、自分の人生を豊かにしてくれている事に改めて感謝しました。怪しく変容した有能な青年たちは、どんどん研究室から脱落していきました。
職場、親戚、医師と患者の人間関係で相手が嫌いですと、全てがうまくいきません。急に好きになるのは少々無理なので、相手の個性の美を徐々に探しますと、互いに愉快な関係になる可能性があります。一番良い発見方法はその方がどんな自己実現への道(人生の夢と理想)を歩もうとしているかを知ることでしょう。その夢が尊敬出来ないものならば、あえて探す価値はないでしょう。友好的な感情を模索する上での残る可能性は嫌いな相手でも人間の尊厳を大切にする努力しかありません。自分も同じ立場ですから悔いのないわが道を明確に定めておかないと、相手が友好的な感情を探してくれているのに、いつまでも道を定めていないと、周囲も困ります。生き甲斐を意識し定めることは社会的な財産でもあります。
若い頃は日々起きる出来事に一喜一憂していましたが最近はそれほどでない自分を寂しく想います。ですから若い方々に、哀しい絶望的出来事に巻き込まれて辛い事になっても自殺だけはしないで下さい、その内、年齢を重ねると必ず人生を恐れずに堂々と楽しく生きていけるから、と叫びたくなります。。最近しみじみ思う事ですが、人生に陰と陽、表と裏、光と陰がもし無ければ人生は本当に面白くもなく、かつ生き甲斐を感じないだろう、と思います。この二面性は人々に智恵を授け、人々を幸せにする為の神様からのプレゼントではないかと思うようになりました。高齢で人生を絶望する人の場合は信仰生活が必ず希望と勇気を与えてくれます。人生はどの年齢でも生きる喜びを見つける方法は沢山ありますから早まって人生を絶望する事は大きな間違いです。
知人に何故その子が好きなのか、その理由を尋ねると(うん-、)と唸りながら、なかなか答えられません。これが普通の現象です。好き、嫌い、は原初感情ですから理由はなかなか言えない感情です。ただし、心理療法での愛の問題では、好き嫌いの領域の場合も、あえてその理由を聞くことにしています。現代人の感情は実に複雑に形成されていて、テレビ、小説、ラジオ、漫画の影響が大きすぎて原初感情を覆い隠しているからです。<感情の転移現象>が病的に生起していますので、確認、また確認していかないと、その原初感情にたどりつけないからです。古代人が好き、と叫ぶのと、現代人が好き、と叫ぶのは大きな違いがあることを現代人は気づいていません。原初感情を意識して、雄叫びのように好きになった場合は離婚率が違うのはそのせいでしょう。本能を喪失しつつある現代人は、意識して原初感情を大切にしたほうが良さそうです.
日常生活ではいとも簡単に、あの人が好き、この人が嫌いと言いあって生きていますが、さて少々心理学的に具体的に何故、嫌いなのか、言語化せよ、と言われると、殆どの人が明確にその理由を言えません。この<好き、嫌いの感情>は原初感情と言われていて、人類発生と同時に形成された初期の感情なので分析のしようがないのです。複雑な現代文明ともなると、その原初感情に更に複雑な感情が絡み合い、たたみこまれてしまいました。日常の意識としては、顔つきが嫌い、言い回しが嫌い、考え方が嫌い、お金がない人は嫌い、政治家は嫌い、色々です。ここで重要になってくるのが何故嫌いなのかを分析する視点です。最終的に他者肯定、自己肯定となるような視点で考えていかないと心は友好的になりえません。その橋渡しが<愛の原型>といわれる分析です。愛の原型を理解しあえた時、わたしとあなた、という二人の平和が始まります。