時々、友人から<何の為に生きているのだろう?>と相談され、その真剣な会話の中で、或、話題になると急に白けてしまい、逆に馬鹿にされたり侮蔑的な視線に遭遇する場面があります。それは死んだ後の世界の話題の時、死後の世界までは侮蔑されませんが、生きている間の厳しい人生談義の折などに、神様の愛の話題が出る時、この何とも言えない侮蔑の視線に遭遇するのです。ギリシャ時代からこの神の摂理という話題はあらゆる時代、民族の間でも、いつも議論の集まる議題でした。カトリツク神学は<神の愛>が柱になっていて、この宇宙、人間の世界への神様の愛の働きかけが哲学の根幹をなしています。その愛について語りだすと、何故、人々は白けるのでしょう?神の愛を信じない理由はとても重要で、(1)現代の宗教戦争、(2)テロの背景にある宗教、(3)神様が目に見えないこと、(4)自殺、悲劇、戦争、歴史に見られる宗教界の呆れる姿、(5)信徒の姿から異常を感じること、(6)勉強不足による偏見と思いこみと知識不足、(7)自分の成育史の解釈を信仰から解釈出来ないこと、(8)倫理道徳に縛られるのではないか、という不安、(9)宗教がなくても生きていける、という思い込み、(10)<信じて見えてくるもの>という学問の話に触れた経験が無い事からくる感情、想い、経験不足が侮蔑へと押しやる、その他、沢山あります。この侮蔑の想いは悪い事ではなく当たり前の現象ですが、現代に生きる宗教界の大きな課題でしょう。人々の疑問を大事にしつつ信仰問題と取り組みたいものです。ここで明確に断言出来る事は健全な信仰生活は人を幸福感に導き厳しい現実を堂々と生き抜けさせる事実です。<生きる楽しみ:369-4>:
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