永遠の愛を誓った二人のどちらかが殺人を犯す事例があります。世界中の判例を調査した学者がいますが裁判所も相当悩むようです。愛する人に自分から依頼する不治の病を持つ重症患者、それに答えて愛する人を殺す人、喜んで殺される人、色々です。ここではどんな場合でも自殺や殺人は絶対に間違いです。生命は神様からのプレゼント、人間が決める権利はありません。さて愛に裏切られた場合でも、同じ事が言えます。裏切られたと思う内容にも病的な解釈もあります。複雑な事例ですが、裏切った、という意識も、裏切られたという意識も、いずれも解釈と意識に病的な問題が山積しています。裏切られたという解釈をした場合は神仏の慈愛を意識しながら愛と許しの世界をまずは思索したいものです。
子供は親を選べません。大人になっても親の呪縛から逃げる方法を知らないで苦しんでいる人々が沢山います。中には老いた親の介護のおむつ交換時に、憎たらしくて恨みや復讐の感じでつねる人もいます。愛とは何か、を考えたこともない親に育てられるとその子供は何が愛なのか、わからずに混乱して育っています。しかし良い伴侶に恵まれたり友達を得ると、大切にし合う方法を知り理解します。人との愛の交流の中に人生の幸せを感じ、豊かな愛を体験すると、年老いた嫌な親を哀れに思うようになり、反抗すべき相手ではない哀れな老人だ、と思えるようになります。嫌な親だけれども、自然に感謝すべき点、愛すべき点に気付きだすと、こちらも豊かな気持ちになりだします。
幼児時代に親を喪失した大人の心理療法を色々体験しました。青春時代の愛、大人に成長した場合の愛、職場での人間関係、友人関係、色々の人間関係において、独特の愛の姿が見られます。幼い頃はたっぷりと親の愛を飲み干す必要が人間にはありますが、それが満たされていない場合、色々問題は出てきます。しかし、どんな人間でも、どんな成育史があろうと、人間は、素晴らしいエネルギーを発揮します。人間は、基本的には寂しがり屋なので、つねに愛を求めていて、その求めるエネルギーは大きいのです。人を愛する力もまた物凄いエネルギーを発揮します。それだけに他の人を幸せにする力を持っていますし、自分も爽やかで美しく温かい愛に生き抜く力を持っています。人間は愛に生きる動物であることを心得て生きていきたいもの。
よく聞く話ですが苦労してチャンスを作り初恋の人に晩年会ったばかりに、美しい思い出が消えたばかりでなく、かえって惨めで哀しい気分になってしまった、と言う話です。会うべきか、会うべきでないか、の問題ではなく、結果論として惨めになってしまった場合は、たぶんその人は類似ケースでも、すべて惨めな解釈をしてしまうでしょう。会う前から予想出来たケースです。森羅万象の解釈を全て生きる希望のある解釈をしてこなかったからですし、解釈を明るく元気に爽やかにする訓練が欠落しているからでしょう。人が持つ魂は<老いることなく、病むこともなく、永遠不変なもので、愛そのもの、臨終と共に身体から離脱する知的生命体>であるという定義を思索しながら晩年の初恋の人に会ったら、二人の老人は涙、涙の再会になった事でしょう。