子供は親を選べません。親と子供の関係を観察していますと、子供は哀れな程に、親に気を使って生きています。銀行で列を作って並んでいる時、3-4才の坊やが赤ちゃんを抱いているお母さんに向かって「お母さん、僕の悪い所があったら反省するから、言って!」とぷりぷりして機嫌の悪い母親に懇願している風景を見た事があります。赤ちゃんのほうばかり見ている母親に甘えているのか、よくわかりませんでしたが、周囲の大人はそれらの一連の親子の会話を聴きながら、胸が痛むような顔をして、その坊やに同情していました。前後の事情はわかりませんが、その坊やの「悪いところがあれば、反省するから、教えてくれ」と言う言葉に私は胸がジーンとしてきます。さて、話は飛びますが、時々、嫌な環境に生きねばならない自分の運命を呪う大人の会話に触れる事がありますが、どうしたらいいのでしょうか?本人が乗り越えていく話ですが、生き甲斐の心理学ではどう対処しているのでしょう?この坊やは、その後、どんな人生を歩んでいるか不明ですが、子供時代のこのような体験の解釈いかんで、その後の嫌な環境を、どう乗り越えていくか、人生が決まるようです。
夜、多忙な一日が終わりお風呂に入り美味しい生ビールを飲み布団に入る、そんな時、忙しいばかりで自分は何となく忙し過ぎて生活が乱れているなあ、と思う人が案外沢山います。自分を見失っていて、こんな人生を送っていていいのだろうか?と心配する人もいます。人間が幸福になる為には、この微妙な不安感と自己混乱感は大事だ、と言われています。エリクソンが言う「自己混乱感」がこれですが、この混乱感は何かを信じると、例えば、神仏、恋人、兄弟、先生、嫌な親等、案外、すんなりとアイデンティティが統合され、すっきり気分になる事もあります。この自己混乱感が何故、存在するかと言いますと、この機会が「自己実現への道」を示唆するチャンスだから、と言われています。私の場合も、恩師に教えていただいて、初めて自分の自己混乱感を恐れずに正面から静かに見守る事が出来たのは、この考え方を意識化出来たおかげです。自分が生きている意味を探る良い機会のようです。人生でも、それぞれの答えは自分で探し納得しないと意味がありません。これがあなたの答えです、と人に言われて、大事な方針を決めるような、そんな他者依存の人生だけは送りたくありません、自分で苦労して探しだした答えが人生での大きな宝物です。この自分で獲得した答えに生きているので、私の人生は悔いがありませんし、人生を楽しむ事が出来ます。自己混乱感こそ自己実現への道を知る為の重要な恵みかもしれません。
最近、何となくがっかりすることが多くなりました。冗談交じりでなじみの医師に雑談をしましたら、そのお医者さんも、同じことを言い、大いに慰められました。年齢相応という言葉は嫌いなのですが、しかしサラリと思索する必要があるようです。このブログを書いたりラジオ「心のともしび」を書かせていただいていますと、思わぬ古い友人から美しい絵ハガキが送られてきたりして青春時代に涙することがありますが、人生の美しさ、楽しさ、哀しみの度合いが一段と深くなりだしたのも、案外、良い現象かもしれません。このブログの今の話題から、今日は何故か離れ失礼していますが、何となく書いてしまいました。読者の皆様も大変な時代ですが、悔いのない人生をお送りください。
世界中で使用されている言葉ですが、この自己実現、と言う言葉はそれぞれの学派で定義は違いますが、私達「生き甲斐の心理学」では3つの意味で使用しています。(1)自分は何の為に生きているのか、生きていこうとしているのか、と言う領域、(2)毎日の生き甲斐は何か?、(3)自分を大事にしているか、この3つを自己実現と呼んでいます。さてこの3つの領域が明確に意識化されると人間は不思議なもので、どんな苦境に立たされても喜んで生きていきます。人間とは不思議な生き物です。自分という存在の意味や価値を自分で認めると、病気になろうが、苦難に遭遇しようと明るく元気に爽やかに生きていける性質が人間には備わっているようです。私の自己実現とは何だろう、と生涯、楽しんで考え、模索し、それを日々の楽しい生き甲斐にしている人々も沢山います。先ずはこの言葉を楽しんで下さい。深刻にではなく、のんびりと、楽しくです。このテーマは人類の永遠の課題でもあり、一番重要な課題でもあります。その答えは子供の頃、気づいて生涯、そこに生きる人もいれば、それぞれの人生の或時期に、ふと気づく人もいたりしますので、そう難しくないものでもあります。腹の底から、これが自分の自己実現への道だと信じたら、楽しみながら、その道を素直に生き抜いていきましょう。我が道を信じた途端、色々の素敵なものが見えてきます。
自問自答の内容如何で、人の人生が決まります。人は考えた通りの人間になる、と古来から言われている通り、つまらない事を寝ても醒めても考えていれば、その程度の人間になるわけで、天はその人の志、思索内容以上の人生を与えるわけがありません。例えば学校をどうしてサボろうか、と考えている生徒にはそれなりの人生しかないわけです。夢と志、理想を燃やしていると、それなりのチャンスが訪れます。そのように日々の感情生活でも、怒りまくる人、恨みつらみを言うタイプ、人の悪口に生き甲斐を感じているタイプの人はそれなりの人生を送ります。小さくてもいいから人の役にたちたい、と願う人は、それなりに周囲から愛されて共存共栄の幸せな人生を歩みます。このようにふと、自分はどんな所にながれていくのかなあ、と不安を感じた時が勝負のようです。具体的な事件、出来ごとは神様でないので、人類、誰も将来の事は分かりませんが、近い将来、ちょっと先の人生、晩年、死んだ後の魂の行方などなど、将来に対して明るい期待を持てる人、持てない人では、相当、具体的な幸福度が違ってくるようです。自分の過去の生育史上の暗い面、暗い思い出に固執していると、将来も暗くなるようですし、過去の明るい良い思い出を掘り起こし、その幸福な原型に想いをいたす修行をしていると、人は何故か、幸福なチャンスをつかむようです。人は考えた通りの人間になる、と何故、古代の人々が言ったのでしょう?自分は必ず天国に向かって流れていくと信じてみましょう。そう信じると見えてくるものがあります。信じると見えてくるものがあるのが人間の不思議なところです。信じる力も努力次第で力がついてくるものです。地獄という言葉は象徴的な言葉ですが、悲劇の人生で終わると信じれば、そうなるかもしれませんが、どんなことがあつても最後は天国、幸せな晩年で終わる、と信じれば、多分、そうなるでしょう。何を信じるか、それは人類一人一人の自由意思で決める問題なので、出来れば、将来を明るく信じて生きていきたいものです。信じる内容を決めるのは人類一人一人の問題です。
生き甲斐喪失の時、何気なくふと旅に出たばかりに、思わぬ気づきに恵まれ仕事に成功したことがあります。39才で某企業から独立し動き出したのですが、期待通りの成果が出ませんでした。台湾に駐在していた頃、第一次石油ショックがあり、その折、独立したのですが、物事が思い通りに運ばず、あてにしていた事も駄目になります。なんとなくチャンスを狙い香港に1ヶ月ぶらぶら滞在したことがあります。その折、台湾の中国の方(生涯の恩人となった方です)が私のホテルをぶらりと訪問してきて、次から次へと香港の企業経営者を紹介してくれました。海運関係者なのですが、それから思わぬビジネスチャンスが訪れます。このような仕事上の旅もあれば、奈良京都の由緒ある神社仏閣に立つた時、平素悩んでいた問題が突然、答えや気付きが、ひらめいたり、感動したりする経験もあります。旅は何故、人に生き甲斐と気付きを与えるのか、それを生き甲斐の心理学で考えていきます。
社会状況、政治状況、大震災、個人の周囲におきる親しい人々の死、どんな人でも環境の突然の変化が訪れます。そして大いに戸惑い、心配し、次から次へと色々の事柄に対処していかねばなりません。こんな時、学問として勉強しておいた「理論」(心の仕組み)を思い出すと、無駄なエネルギーを使わずに人生が乗り越えられます。その一つに「自己混乱感はアイデンティティの統合により解消する」というエリクソンの理論を思い出した人は幸いです。この人生での自己混乱感は大小様々で、結果としては自殺を乗り越え、大きな挫折を克服し、大きな愛と遭遇し、残された貴重な人生を正中線を確保しつつ、堂々と自分の道を歩ませてくれます。この「堂々と生きる正中線:私は私」と言う自信をアイデンティティの統合、と言います。私は私と堂々と思えるに至るまで、中々上手くいきません。旅に出ると案外この悟りが得やすいようです。一人旅もいいのですが、生き甲斐の心理学を学んでいる学友との旅は、その気付きのスピードは倍加します。倍加どころではなく、数倍も何十倍も気付きのチャンスが増えているのです。今回、私達NPOで奈良を旅しましたが大和三山での散歩では太極拳を天香久山で演舞したりしている時の大きな喜びと感動は言葉に言えない連帯の喜びを感じ、何か人生が安心というか、共に生きている学友が存在していて、その人々と共に明るく元気に爽やかに生きていける安心感、というか平安感というか、幸福曲線(平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感)をしみじみと感じました。これはこまごまとした人生のストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱)を消滅させ、自分を信じて、堂々と生きていこう、という心の整合性(アイデンティティの統合という)を与えてくれました。自己混乱感とアイデンティティと何を信じて生きていこうとするか(忠誠心:信仰心とか、「私は私」という哲学か)、この3つの関連性を理解していると、自己混乱感の嫌な感情生活をいとも簡単に離脱出来る場合が増えてくるのです。日々の生活の中で自分の心が乱れているなあと心配になつた場合、アイデンティティの統合という言葉と、何を信じているか、という忠誠心の領域を自分の生育史に照らしながら自己分析すると、素晴らしい知恵に気付くと言われています。この関連性の理論を覚えていると人生のどんな状況の場合でも自分の心を整理することが簡単に出来そうです。
生き甲斐喪失の時、何気なくふと旅に出たばかりに、思わぬ気づきに恵まれ仕事に成功したことがあります。39才で某企業から独立し動き出したのですが、期待通りの成果が出ませんでした。台湾に駐在していた頃、第一次石油ショックがあり、その折、独立したのですが、物事が思い通りに運ばず、あてにしていた事も駄目になります。なんとなくチャンスを狙い香港に1ヶ月ぶらぶら滞在したことがあります。その折、台湾の中国の方(生涯の恩人となった方です)が私のホテルをぶらりと訪問してきて、次から次へと香港の企業経営者を紹介してくれました。海運関係者なのですが、それから思わぬビジネスチャンスが訪れます。このような仕事上の旅もあれば、奈良京都の由緒ある神社仏閣に立つた時、平素悩んでいた問題が突然、答えや気付きが、ひらめいたり、感動したりする経験もあります。旅は何故、人に生き甲斐と気付きを与えるのか、それを生き甲斐の心理学で考えていきます。
「あ、今、自分は心を取り乱しているな」と気付けば幸いですが、大体の人はこの自己混乱感に気付かぬまま錯乱しているものです。電車でも可愛い子供に向かい酷い言葉を浴びせかけ、見ている私は切なくなり、席を変える時があります。あんなに厭らしく母親から怒られたら、多分、その内、復讐をしたくなるだろうなあ、とも思います。淑女のような女性が勉強会の時などに幼児時代にピアノのレッスンの折、あまりにも厳しく数年間母親に鍛えられたり、受験勉強時代に厳しく言われた事が老いた母親のお世話の折に、その頃の憎たらしい母親を思い出し、おむつの交換の折に、思わず老いて寝ているボケた母の足をつねる自分に驚きました、と泣いて語る場面に遭遇した事があります。この生育史上の自己混乱感は、その人生を左右しますので、暫く考えていきます。自分も周囲も幸せになる為に、人間の、この混乱感について思索する事はとても大事なことです。何が自分を混乱させるのでしょう?
80億の人類が、それぞれ嫌いなものを乗り越えて生きているわけですが、赤ちゃんから高齢者まで、それぞれが、それぞれの生きざまをしています。人は全員が天に向かって唾を吐きながら生きていますので、それ相応の結末で人生が終わります。神秘的な領域もありますから、全てが自己責任とは言えない切ない場面もあります。私の場合はモスクワの飛行機事故、南米の政変による暴動巻き込まれ事件等色々です。まさに運命に翻弄され、自由意思とは無関係な所で生き死にに遭遇していくわけです。国際関連の時は、平和構築という使命感が私を救い、支えていますが、価値観の違う人から見れば、ふん、と馬鹿にされるような使命感でしょう。したがって、私の場合は、何の為に自分は生きているか、自分の生き甲斐は何か、自分を大事にしているか、という3視点からいつもチェックしながら生きてきたわけです。アイデンティティの統合、現実吟味力が揺らめけば、それなりの苦しみを味わいます。身辺の森羅万象の解釈が病的なほど暗い解釈をすれば、たちまちにして自分が破壊していくのを感じました。日々の夢、人生の夢、理想を追求する喜びが亡くなれば途端に生き甲斐を感じなくなります。私の場合は、いつも何かの夢を追い求めるのが生き甲斐なので、いつも希望と情熱が私を支えていました。この精神状態がありますと、嫌いなものが生きる刺激剤となり、ぬるま湯的な生活を脱却させる起爆剤となりましたし、生き甲斐を喪失させるマンネリズムも防げました。。嫌いなものが本物の場合、人間の大脳は、その嫌いなものを乗り越えていく答えを自然に示唆してくれますので、自分を信じると、その答えが見えてきます。自分を信じないと答えが見えてきません。何故でしょうね?「天は自ら助けるものを助ける」。自分を信じないと答えは見えてこないようです。「信じると見えてくる世界」が存在している事を大学の研究室ではしばしば教えられました。生きる事は大変ですが、楽しいものです。私の場合、全知全能で愛そのものである神様を信じたいというローマンカトリツクの信仰心が私が生き抜く上での最大のエネルギーでしたし、大きな事故や暴動のような事件の最中では、全てを神様に委ねてしまう安心感がありましたので、その安心感が私の錯乱を防いだようです。私の最大の興味は、気障なようですが「神とは何者か」という課題です。欧米を旅し美術館を楽しむ時も、或いは、万葉集や日本書紀、ギリシャ神話やインド神話を読む時も、宇宙創造の偉大なものを研究する時も、神とは何者か、という研究課題は我を忘れさせる楽しいテーマです。人生は本当に楽しいです。特に現代日本人の性格形成の研究と思索は私の生き甲斐の一つです。古代飛鳥奈良時代の政治、特に天皇の歴史は、毒殺、暗殺、策略が物凄く、その歴史の中での好き嫌いの感情にもてあそばれて破壊していく人々も居れば、嫌いな感情を上手に処理して明るく逞しく生き抜く持統天皇のような巨大な女性にも遭遇します。嫌いな感情は、どうも人を幸福に誘うシグナルのようです。嫌いという感情は、その人の生育史での理想と現実のギャップから生まれてきますので、その理想の内容と現実の解釈と、そのギャップの分析をすると、自分の幸福への道がみえてくるようです。
<奈良京都は何故私を幸福にするのか?
<奈良京都は何故私を幸福にするのか?
「人類の原初感情は二つあると、と言われています。一つが「好き嫌いの感情」、もう一つが「怖い怖くない」です。私達現代の人類が、誕生した頃のお話です。アフリカで猿か、人間か、未だ明確でない頃、長い長い時間の流れの中から「ホモサピエンス」が生まれてきます。ネアンデルタールかホモサピエンスか、はっきりしない時代を経て、今の人類が誕生した話は専門書を楽しんで下さい。さて心理療法の学問としての理論で、とても大事な対処方法があります。入院患者さんが退院していく時の、共通の精神現象は入院前の混沌とした感情、特に「好きか、嫌いか」という感情の領域において、倫理道徳を離れて、非常に正直に「好きなものは好き、嫌いなものは嫌い」と何の恐れも無く言い切る態度が入院前と退院する時の相違点です。優しい人、何らかの厳しい人生観を所持している人、宗教的な教え、それぞれの考え方の何かが、好きになつてはいけないものを好きになった自分が許せない、嫌うべきでないものを嫌いになる自分を咎める事例等、五感と体感に正直になれない人生上の色々の事情を冷静に眺められない事例の場合に、感情生活は実に混沌としてきます。倫理道徳も大事ですが、精神病棟に入院するくらい自分を虐める思想は危険です。全知全能で愛である神様は宇宙の創造者でもあります。何が起きようとびくともしない方、それが神様ですので、堂々と、好き嫌いの感情だけは、意識化しておかないと、人はどんどんおかしくなります。嫌いなもの、それが人、職場、職業、民族、文化、親、夫婦、友人、知人、何であろうと、乗り越える前提は先ずは、好きか、嫌いかを明確にする勇気かもしれません。暫く、この大問題について思索していきます。嫌いなものを好き、なんて意識していると人は必ず心を病んでいくか、生き甲斐を喪失していきますので、口にする必要もないので、心の奥深い領域では、正直に、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、と明確に意識化しる日々を送る修行が必要なようです。この感情の明確化、という理論を知らないと、何をしても駄目です。
「べき論」:何々すべきだ、という視点は昔より嫌いでした。頭では理解出来るのですが、先輩、宗教家、教師、親、親友からの「べき論」にはうんざりでした。子供の頃は大事な視点として身につけるべく努力していましたが、社会に入り生きるか死ぬか、食うか食われるかというような仕事をしていると「べき論」はあまり役立ちませんでした。そんな私を元気にしてくれるのが嫌な事、仕事でも、避けて通れない場合は、勤勉性、という義務感的な概念を一旦、忘れ去る技能を身につけさせてくれた職場の大先輩が一人いたことです。無理にその「嫌な仕事」を「楽しみ事」に「居直らせる技能」をその先輩が教えてくれました。「嫌なもの」を「楽しませる手法」がこの世の中に存在していた事を知った事です。勤勉性だの義務感だのの「べき論の世界」は「生き甲斐」を喪失せしめ、喜びを半減させる事例が案外多いようですが「その意味」と「楽しむ方法」を悟ると勤勉になろう、という疲労感はなくなり、いきいきと嫌いな仕事がこなせました。以来、このノウハウのお陰で、色々の難しい仕事、国際関係での複雑な業務もこなす事ができました。勤勉性、その最大のノウハウは嫌な事を好きで楽しいものに変身させる知恵と努力しかないようです。
微笑みが心から湧きだせば問題は無いのですが、私のような俗人には微妙な修行が続きました。偽善的な自分、礼儀上のもの、ごまかし、照れ笑い、などなどの深層心理は、私を非常にぎくしゃくさせ、自己嫌悪にさせますが、それでも微笑みの修行を楽しんでいます。年齢とともに人々への深い想いが湧いてきてはいますが、これは修行というよりも年齢による当然の精神現象でしょう。奈良京都の由緒ある仏様の表情で何とも言えない暖かい眼差しと微笑みが私をすくってくれていますが、理想的なほほえみは多分、生涯、無理でしょう。しかしです、電車の中で、喧嘩を売られるような勢いで私を押しのけ、飛び降りていく人に対しても、努力して優しく対応すると相手も自分の愚かさに気付く人もいるのです。力には力を、嫌味には嫌味を返していた20代の頃と、少々偽善的ではありますが、努力して微笑む心を自分に教え込んでいた30代からは、どんどん優しい人々が私を囲い込むように連鎖の人間の深く暖かい関係が生まれてきました。自己嫌悪になりがちな微笑みの修行は武道の容の修行と同じで、基本的な技の容が出来ていないと、絶対に昇段試験には合格しませんでした。講道館、合気道の道場でも基本形の訓練と微笑みの訓練が同じだと理解したのが40代前半でしたから、随分と微笑みの修行は長いものでした。弥勒菩薩様のような微笑みは何とも素敵な表情です。奈良京都の名刹での仏様を味わう方法の一つに、それぞれの微笑み探索を中心に旅を続けるのも、楽しい人生の味わい方かもしれません。
税理士、弁護士、教師など色々の専門性がありますが、人を幸せにする技能とは果してこのような大変な技能だけを言うのでしょうか?そんな事はありません。人が明るく元気に生きていく技能について思索していきます。微笑みの技能が日々の生活での最大の技能ですが、この微笑む技能は自分も人をも幸せにしてくれます。私は或問題で非常に悩み、暗い日々を送っていました。30代の頃です。私のホームステーションは小田急線の或駅ですが、暗い気持ちで道を歩いていました。そして人に会うのが嫌で、小さな道に意識的に曲がりました時、子供にぶつかりそうになり、よろよろとふらつきました。その子は「叔父さん、大丈夫?」と優しく微笑んで私を見つめているのです。その小学一年生くらいの子供の微笑みに触れた途端、私は突然、心が明るくなり、思わず有難う、と言いましたら、安心したような顔をして離れていきました。子供の笑顔が私を元気づけ、その日以来、私はどんどん元気になりました。単純といえば単純ですが、知らない少女の微笑みが私を元気づけてくれたのです。この微笑みは自然なものでしたが、以来、私は意識的に微笑む技能を磨きだしました。わざとらしくではなく微笑むという行為、技能がどれだけ自分を周囲を明るくするものかを意識しています。このような技能でもいいのです。微笑みを技能と考えている時は、ぎこちないものでしたが、段々と訓練していく内に心の中に、本物の微笑みとは何だろう、という哲学めいた修行が始まりました。この微笑みという精神性は案外難しく、偽善的なものも嫌ですし、心から微笑む修行は今でも続いていますが、自分と周囲を楽しくさせる技能としても案外、身近な技能かもしれません。人生を幸せにする技能について皆様はどうお考えでしょう?